渇望のうた
カインが部屋を出て行こうとした時、ダイアナは思い通りにならない身体に鞭打って彼に追いすがった。
カインの身体にしがみ付いて、懇願した。
引き離されては彼の衣類のどこかをがむしゃらに掴んで引いて、縋った。
いつもなら容易く罵詈雑言を吐けるのに、こんな時に限って、か弱い「お願い、お願い」と言う言葉しか出ない。
ベッドからずり落ちて、足に縋り付いて必死にカインを止めようとするダイアナを、現れた彼の屋敷の召使いたちが数人がかりで抑え付けた。もみくちゃにされ、成す術も無くカインの姿が遠ざかり、部屋から消えて行く。
絶叫して暴れるダイアナの口に、誰かが何かを放り込み、彼女の顎を抑え思い切りの力で首をのけ反らせた。
喉に異物が絡みながら落ちていく感覚に咽るダイアナの口に、容赦なく水を注ぎ、それを飲み下させた。
「な……に……!?」
何を飲まされたのか、パニックが恐怖を煽ってダイアナは怯えた。
召使いたちは彼女を数人でベッドへ押さえ付け、何も言わない。
睨みつけてやろうとするのに、額の奥に靄がかかった様に気持ち悪い。視界がやけに歪む。
ダイアナの身体から力が抜けた頃合いを見計らって、召使いがダイアナの汚れた顔を湿らせた布で拭った。
「いや……」
「ご安心を。眠り薬です」
「いや……ら、い、ら……」
瞼が落ちて、何もかも真っ暗になった。
* * * * *
どんな風に表現したらいいだろう?
だって考えた事無かった。
当たり前のものを失うのって、こんなに辛いんだ。
友情? 新愛? あるけどね、惜しい、ちょっと違う。
崇拝? 尊敬? これもちょっとね。ガラじゃ無い。
投影? 殺されるのは自分の様な。少ししっくり。
私は女友達相手に、少し気がふれているのかも。
*
重い瞼をゆっくり開けた。
ぼんやりした視界の中に、一番最初に世話をしてくれた年かさの使用人の横顔が見えた。
「……今は昼? それとも夜?」
小さな声で囁くと、使用人はこちらに気付いて腰かけから立ち上がり、ダイアナの顔を覗き込んだ。
「お休みになられて、少し気が落ち着きましたか?」
「……クソ喰らえ」
「……飲み物はいかがですか? 何か軽い食事のご用意を致しましょうか?」
ダイアナは首を振った。今が何時なのか知りたかった。
「今は……」
「じき、日が落ちます」
「……」
きっと、潮はまだ満ち切っていない。
焦れたいのに、心に何かが足りない。きっと薬のせいだ。
妙に落ち着いてしまっている。まるで酒瓶の底から向こうを見ているみたいに、歪んでぼやけて何か一つの事に興味を持たせるのを飽きさせる。
「あの人は……」
「カイン様ですか? 今頃『セイレーンの裁判』を勤められているかと……」
「……裁判って、中止にはならないの?」
使用人は糊付けされた様に表情を失くし、ダイアナを見る瞳を冷たくさせた。
ふん、あなただって、親しい人が連れてかれりゃ考えは変わるでしょうよ。
ダイアナはそう心で唾を吐いて、
「……ほら、あなたたちのご主人様のオシゴトにさ、邪魔が入らなきゃいいナって思っただけ。ホント」
使用人の目は疑心に満ちていたが、ダイアナはちっとも気にしない。「邪魔が入らなきゃいいわよね」
「雨が降れば、中止ですよ」
「へぇ、随分簡単ね」
「セイレーンは月光を浴びると魔力が高まると言われています」
使用人が、「風を少し入れましょう」と言って、扉窓の方へ歩きながら、ダイアナに教えてくれた。薬の効果が残っているとは言え、またいつ暴れ出すか分からないダイアナが出来るだけ大人しくしているように、彼女の興味を満たしてその場しのぎの時間を稼ごうとしているのだろう。
「じゃあ、雨の方がいいじゃない」
シャッ、とカーテンを開けられて、ほんの僅かに残っている外の明るさが、ダイアナの顔に射した。顔をしかめる程でも無い明かりは、彼女を焦らせた。
夕闇が近い―――。
「そうですね。しかし、裁判の途中で溺れ死にされたら、セイレーンかどうか解らなくなってしまうのでしょう」
「……」
そんなの変だ。
〈セイレーンの矢〉は、セイレーンをやっつけたいんじゃないの?
「……生け捕りが目的なの?」
「どうでしょう? 私共にはわかりません」
使用人は味気なく言って、扉窓を少し開けた。
薄気味悪い風が入って来た。禍々しい事が行われている所から運ばれて来たのだろう、とダイアナは肌を粟立てた。
使用人にとっては息詰まりを解放する風だった様子で、厳しい横顔が風に少しだけ緩んだ。
ダイアナは無感想にそれを眺めながら、ノロノロと考える。
……やってる事の正しさを証明したい? ほらな、セイレーンを捕まえたぞってな風に? そりゃ、セイレーンまで溺死したら『捕えたり』の証明が出来ないもんね。セイレーンが人知れずいなくなったのに気付かずに、ずっとセイレーン候補を殺し続ける事になるから?
……雨。訳が分からない。
「今夜は大丈夫そう?」
外の雲行きが知りたくて、ダイアナは使用人の反感を買わない様に聞いた。ああ、どうしてこんなに冷静なんだろう。
「そうですね……晴れてます」
と言っても、カナロールの人が言う「晴れ」は、たまに雲の切れ間がゆっくりと空の向こうを見せる様な薄曇りだ。
「……」
「大分落ち着かれている様子ですので、やはり何かお食事をお持ちします」
「いらない」
「カイン様に叱られますので……」
「……」
どくん、と胸の内で何かが脈打って、ダイアナは身を縮こまらせた。
傷ついた背が痛いのか、胸が痛いのか、解らなかった。
「痛み止めもお持ちしましょう」
「……」
使用人はダイアナに近寄り、布をそっと身体に掛けると、部屋を出て行った。
ダイアナは身体や心から滲みだす痛みに唇を歪めながら、扉窓の向こうの空を見た。
薄く曇っている。
自分を掻き立たせるものを湧き立たせたいのに湧き立たない、おかしな自分の感情みたいだ。
友達が無実の罪で殺されるのに、あたしに喰えって言うの?
どこまで欠けた人だろう。
あの人は私に何もくれなかった。
突然現れて、奪って行っただけだ。
ふと思った。
欠けてるあの人は、今どんな顔をしているだろう。
こんな時に、ランプの灯りに照る彼の肌の滑らかさや、瞳の憂い、唇の歪みを思い出す。
ダイアナは目を閉じる。
イヤ、イヤ。
優しさなんて無かった……無かった。
「カモメ」
ポツンと呟く。
今はライラの事を、と解ってはいるのに。そうしたいのに。意識はもう少し広がりを見せる。
「波」
どうしてだろう?
「砂浜」
どうして?
「海岸線」
湧き立って来る。何故?
「灯台」
ライラ。ライラ。
「風は……」
あなたを助けたい。……誰を?
この感情は何?
「……潮風……」
分厚いカーテンが、大きな風を孕んでゆらりと揺れた。布から漏れた風が、ダイアナの前髪をも乱した。
間違っている。〈セイレーンの審判〉は間違っていて、皆を苦しめる。
そうと知っていて、止まらないのならば。
私の愛するものたちを苦しめるのならば。
相変わらず醜いかすれ声が、喉を震わせた。
アヒルの声だ。
でも、それが何だというのだろう。
きっと誰しも、心から何かが溢れ出れば……。
「あ……め……あ、め……あめ……」
ダイアナは詩人じゃない。
詩人じゃないから、知らない歌は歌えない。
ライラはよく、気分に任せて出鱈目に歌詞を作って歌っていたけれど、ダイアナにはそんな習慣は無い。よくそんな風に出来るなと、不思議だったり羨ましく思っていただけだ。
けれど今、歌はダイアナから湧き出るのだった。
「あめ、あめ……おねがい……雨よ、雨よ……」
―――雨よ、降れ。
ダイアナは涙を零して、理解する。
ああ、これが歌うという事。
* * * * * * *
私の悲しみが
温かいしずくとなって
あなたにやさしく 降り注ぎますように
―――ああ、足りない。
だからこうよ。
嵐よ
おまえにそっくりな
私の胸に渦巻く力を
貸してあげる
私の愛しい人たちの
頬を流れる涙を
洗って頂戴




