愛に触れて
波が裸足の脚を洗って、レイリンはハッとした。
縋りつくレイリンを抱き留めるでも無く、ただ彼女のしたい様にさせていたハミエルも、静かな表情で塩水に撫でられた足元を見た。
「潮が満ち始めている……」
『もとにもどれない……』
ハティが化けた様な銀髪の少年に姿を変えたハミエルは、焦った様に唸った。
目がうんざりしている。
『おまえ、こんどはだれだ?』
「だ、誰かしら……? ええと……」
この流れでそんな事を聞くなんて、とレイリン思ったけれど、しどろもどろになって、大きな黒い瞳から目を逸らした。ハミエルは自分の手や足を観察し、髪を弄ってから、耳を(狼の方のやつ)ピンと立てた。
『ハティか!』
「!?」
そうか、ハティすげえな、ほんとうにあのほうほうで……とハミエルは感心しながらハティの方へ駆けて行く。
「ちょ、ちょっと! 違います! 違うわ! ハミエル!!」
レイリンは慌ててハミエルを追って走った。その途中、自分が付けて来た足跡が既に波に洗われ始めているのに気が付いて、「満ちるって、ゆっくりだと思っていたのに、早いのだわ」と抗えない力にゾッとした。
避けたと思った矢先に足首を掴もうとする様な、迫っては引いて行く小さな波たちを時には飛び越え、時には踏み付けて駆けると、ようやくハティのいる岩場に戻る。
既にハミエルがハティに何か言っていて、ハティは息を弾ませて駆けて来たレイリンを不可解そうに見た。
ハミエルは早く狼に戻りたいばかりで、そんな彼の表情に気付いていない様子だ。「おまえ、すげぇな」と言う顔で鼻息も荒く言った。
『だから、ハティ、だいてやって』
「ちょっとお待ちになって!? 何を言ってるのハミエル!」
『いや、それはいいけど、これは俺じゃねぇよ』
『ハティじゃない?』
二匹の会話に「あわわ」と赤くなったり青くなったりしているレイリンを、ハティは目を細めて見た。
レイリンは「お願い、何も指摘しないで」とハティに目で訴えかけてみた。
ハティはそれには答えてくれなかった。同族であるハミエルが人間如きに振り回されているのは中々癪なのだろう。それに、ハミエルが何に化けたのか彼自身が知れば、解決は早い。
ハティはレイリンから白々しく目を逸らし、『ソイツに聞けば?』と意地悪く言った。
ハミエルがレイリンを真っ直ぐ見る。その大きな瞳は、焦れている。
『レイリン、これはだれだ?』
「……」
バレていないなら、言える訳が無かった。
ハミエルの反応が怖かった。きっと、面倒臭そうに顔をしかめるに違いなかったし、『友達』以上を望んで来るなんてどれだけ厚かましいのか、などと暗に思われたらと思うと、胸が張り裂けそうだ。
何より、ストレートに言われるのが厭だった。『ライラが好き』と、当然の様に彼は言うに違いないのだから。
日の傾きかけた海辺は静かで、迫る波の音だけが辺りを満たしている。
『もじもじするな。しんぱんがはじまってしまう』
「それは……その……」
でも、もしかしたら。と、子供らしく、乙女らしくレイリンは思う。
想いを伝える事で、何かが動くのだとしたら―――。
それから、心の端で渋々顔のハミエルを想像した。『友達』の約束をした様に―――。
レイリンはちょっとだけ下唇を小さな前歯で噛んで、胸の痛みと唇の痛みを曖昧にした。
そんなの、間違ってる。
でも、それでも。
もう既に、間違っているなら―――。
ああ……でも?
対局がせめぎ合う心に、レイリンが俯いていると、ふいに浜辺の雰囲気が変わった。
城の方向から、馬の嘶きに混じって重たい空気が流れて来たのだ。
『―――来た』
岩からこちら側へ飛び降りて来て、ハティが岩陰からそちらを覗く。ハミエルもサッと動いてハティの後ろから様子を伺った。
レイリンも飛ぶように二匹の傍に寄り、岩陰から覗く。
ぽつぽつとした点にしか見えなかったのが、どんどん近づいて来る。彼らはセイレーンの審判用の杭へ真っ直ぐ向かって来ていた。
近付いて来るにつれて、騎士達が見え、それに囲まれる様に女達がトボトボと歩いているのが伺えた。その後ろに、更に騎士達。そして更に後ろに綺麗な神輿が続き、最終尾に神官や貴族達が続いた。多分、『見届け人』の様な、そんな役割なんだろう、とレイリンは予想する。
もっとお兄様に詳しく聞いておけば良かったわ。でも、お兄様はあまりお話をしたくなさそうだった……。そのお気持ちが解る。それから、如何に自分が他人事だったのかも……情けないわ。
一団の先頭を、黒い馬に乗った仮面の男が率いている。レイヴィン宰相だ、とレイリンは緊張した。レイリンは彼と何度か会った事があった。彼へ挨拶や会釈をすると、いつも―――空気の様に無視をされた。
そのやや斜め後ろに、カインの姿があった。
相変わらず表情は読めない。彫刻の美男子像の様に整った顔を、真っ直ぐ審判の杭に向けている。
レイリンはハミエル同様、貪る様に女達を見た。
ハミエルは既に毛を逆立てて、唸り声を上げている。
「ライラさん……!!」
女達の中に、両手を縄で縛られ、腰も他の女達と繋がれているライラの姿があった。
彼女のそんな姿を見るのは、レイリンにはショックが大きくて、みるみる目に涙が溜まる。
投獄された時間が短いからか、他の女達よりしゃんとした足取りで、残り少なくなって来た砂浜を歩いている。
途中、何を思ったのか、カナロールの街の方を振り返り、列を乱した。
直ぐに騎士が彼女を追い立て、彼女はそれに対して唾を吐いて何やら言い返している。
騎士がライラを突き飛ばし、手にしていた長槍の柄を、彼女に向って振り上げた時、ハミエルとレイリンはハティに押さえつけられた。二人とも、岩陰から飛び出しそうだったのだ。
小さいとはいえ、少年の姿のハミエルとレイリンを同時に抱えたのは、昼間の銀髪の少年では無く、大人の姿を模していた。
ハミエルとレイリンはもがいて岩から何とか様子を見る。
暴行は行われず、神輿から誰かが出て来るところだった。
「あ、お、皇女様……!!」
『何!?』
ハティが二人を両脇に抱えたまま、岩から覗き込む。
『……!! ディアナ! なんでっ』
「皇女様を知っているの?!」
レイリンが驚いて聞くと、ハティは苛立たし気に舌打ちを返した。
見れば、アシュレイになっていた。咄嗟に記憶に新しい「大人」を模したのだろう。もちろん元がハミエルの変化で、ソースはレイリンの妄想アシュレイだった。
『アイツ、こんなのを好きじゃ無いハズなのに!』
*
こんな事をさせるのは、あの野郎しかいない。
そう苦々しく思って、ハティはレイヴィン宰相を睨み付ける。
ディアナは珍しく顔を怒らせ、ライラの前に庇う様に立つと、長槍の柄を奮おうとしていた騎士に激しく何か言っている。
「皇女様……本当にお優しい方……」
でも、どうしてこの場に? 反対派だと聞いていたけれど……。
レイリンの独り言に返事はせず、ハティは成り行きを見守るしかない。
他の騎士達が彼女を守る為、急いで隊列を乱して集まった。
セイレーンの女達に近付いてもしも気概を加えられたら、ひとたまりも無い。
ディアナらしい、安直で短絡的な行動に、ハティはハラハラした。
仮面の男―――レイヴィンが皇女の傍へ引き返し、事を収集すると、また一団は動き出す。神輿に戻る際、グッと上を向き何かに耐えている様な皇女の姿が印象的だった。
―――ディアナ……きっと輿の中で泣いている……。
いつもみたいに肩を抱いて、慰めてやりたい。でも、無理だ。封魔師が何人いる? レイヴィンとカインだけでも厄介なのに、他にも何人かいるから近づいたり出来ない。
一団がとうとう杭の場所についた。
もう、声や足音、馬の嘶きがハティたちの耳に聞こえる位近くだ。
三者三様に焦れている内に、歌声が細く立ち上がった。
その歌声は、初め掠れ声に過ぎなかったが、ハミエルとレイリンにはすぐにライラの声だと判った。いつも聞いていた声をハミエルが間違える筈が無かったし、音感の良いレイリンにも聴き間違えなどあり得なかった。
〽
なにを燃やせば
空に届きますか
悲しみですか
怒りでしょうか……
雨乞いの唄だわ、とレイリンが呟いた。
―――雨なら、裁判は延期―――
ライラの近くにいた女達が、彼女を見、顔を上げた。
そして、徐々に歌が広がる。
〽
焚きつけて
きっと届かせますから
雲よ 集まれ
空よ 泣け
女達の歌声は、ライラの歌声に導かれる様に強くなり、ライラの歌声を軸に調子が絡み合い、纏まって行く。
そのうねる様な音の流線と響きに、レイリンは鳥肌が立った。
歌子達の、本気の、命がけの心からの歌の力は騎士達を動揺させている。
〽
わたしたちの
想いを受けて
空よ こころがあると言うのなら
涙を 注いでくださいな
涙なしには
生きられないの
生きられないの
レイヴィンがカインに何か指図して、カインが騎士達に指示を出している。騎士達も彼に習って女達に武器を見せ、歌を止める様に脅した。
女達は歌を止めなかった。
歌で生きて来たから、歌いたいのだろう。
どうしたって死ぬのなら、歌いたいのだ。
騎士達はそんな彼女達の口を猿ぐつわで塞ぎ、大人の腰の高さほどに沈んだ杭まで抱えて運び、一人ずつ括り始めた。
*
歌を奪われ身体の内から震えている女達が、数人ずつ杭に括られていく。
レイリンも、両目から涙が零れるのを抑えたりせず、ハミエルにしがみ付いてガタガタ震えながらその光景を見ていた。
ライラの順番が近づいて来た時、ハミエルが身体を固くした。
ギリギリと歯ぎしりの音がして、そのまま自分の歯を砕いてしまうのでは、とレイリンが心配になる程だった。
ライラの傍にいた少女が――レイリンと同じ位かもっと小さい――皆腰で繋がれているのを恐怖の余り失念したのか、ダッと駆け出した。
その勢いに、ライラの身体が引っ張られ、彼女の横の女と共に砂浜に倒れた。それに引っ張られて、少女も後ろ向きに倒れ、暴れる所を抑え付けられ、杭へ担がれていく……。
猿ぐつわをされても尚、泣き叫ぶ声が聞こえて来て、レイリンはハミエルの腕に顔を押し付けた。
私は、これ以上見ていられない!!
『ライラ……』
『紺の髪のが、お前の半身か』
『そうだ』
ハミエルが泣いているレイリンの腕を掴み、顔を覗き込んだ。
『レイリン、このカッコじゃとべない。これはだれだ? これもひれんなのか? もしそうなら、じゃまもの、けしてやる』
「それは……それは……」
こんな場面だと言うのに、拒否の表情が怖くて、明かせない。
レイリンは自分で思っているより、自分がかわいい。
そんな自分に胃がキリキリした。
―――邪魔者を消す? 妖魔らしいわ。答えを知ったら、絶対に出来やしないのに。
ハミエルが悲痛な声で絞る様に言った。
『ライラをたすけたい……』
ハミエルの必死な言葉が、レイリンの胸を打った。
―――大好きなのね……。
レイリンはズキンと痛む胸を庇いながら思う。
ライラの為なら、朝レイリンにした様に、何でも賭けるのだろう。
ハミエルのライラへの想いは計り知れない。
きっと、覆す事なんて出来ない程。
どんな制約にも、呪縛にだって、きっとハミエルは従って、心だけをライラへ服従させ続けるのだ。
それがどんなに不自然でも……。
雲が渦巻き、ゴロゴロと鳴り出した。
思わず空を仰げば、冷たい滴がポツポツと瞼や頬を叩いた。
「―――雨」
審判は延期?
でも、また一月後にあの恐怖を繰り返させるの?
『もう、遅い。皆括り終わった。……雨乞いの唄を歌ったのも不味かったな。連中、まさかってツラしてやがる』
「そんな……」
そんなハズは無い、と言い掛けて、レイリンは口を噤んだ。
―――そんなハズ……。でも、でも……。
ライラの歌声は心を溶かし、混ぜ、圧し、様々な角度から、レイリンを揺さぶった。
そしてフェンリルのハミエルが、こんなにも必死で守ろうとしている。
―――ああ、そうだとしたら、敵う筈もない。私も、そんな絆を持ってみたい。ライラさんはズルい。本当にズルい。
でも、私は貴女がとても好きだわ……。
お互いの愛する音で、混ざったのだもの。
それとも、私も伝説の中の可愛相な男性たちの様に魅せられてしまったのかしら?
雷が鳴って、雨が強く振り出した。
レイリンは目の際を流れる雨に顔をしかめながら、ハミエルを見た。綺麗な少年の姿をしている。
けれど、この姿を好きになった訳じゃない。この姿は後付だ。
かと言って、本来の姿に、と言う訳でも無い。
兄の姿に化けられたからでもない。
ならば私の『彼』はどこにいるのだろう。そう思って辿れば、胸の奥に、快感とも取れる様な温かい感覚がある。
それはまだ愛と言うには初々しくて、恋に近い様な、随分とあやふやなものだったけれど、そっと抱けば、勇気が湧いた。
この後、どんな感情が私を襲っても、怖くないわ。
だって、この気持ちを放したりしないもの。
そしてこの気持ちは絶対に負けない。
「ハミエル、安心してちょうだい。私の胸はもう、破れているの」
『は? ―――あっ』
目の前の自分が描いた美しい少年が、狼に戻って行くのを、レイリンは微笑んで眺めた。
―――これ以上、枷になんてならない。苦しめたりしない。
『レイリン、どこいくの?』
レイリンは背を向けた方を、振り返る。
二匹の狼がいて、大きな岩の上に小さいの。岩場と砂浜の間くらいのところに、大きいの。
どちらも美しい銀色の毛並みを潮風に遊ばせて、こちらを見ている。ピカリと雷が光り、彼らの毛並みが銀色に輝いた。なんて不思議で美しい光景だろう、とレイリンは小さな胸を窪ませる。
セイレーン、彼らを存在させ続けて。
人の意に反しているとしても、必要ならば私が楽器を奏でるわ。
「遅くなって来たから、宮殿に帰ります」
『かえる?』
「ハミエル。ライラさんをきっと助けてね?」
『うん……でも、レイリン……』
「お友達は解消よ。私、よくよく思えば猫派なの。一日楽しかったですわ」
『……』
「ハティさんにもよろしくね」
ハミエルが叱られた犬みたいな顔をした。
前を向きざま、その顔を視界にかすめ取って、レイリンは切なく微笑む。
……寂しがってくれるの? そんなわけ、ありませんね。
ハミエルは自由だ。もう、レイリンというお荷物を抱えなくていい。きっと、「良かった」なんて思っているに違いない。
砂浜は、迫る海で幅が随分狭くなっている。けれど、長さは変わらない。
レイリンは、どれだけ砂浜が長かろうが、構わなかった。
* * * * *
わたしは夢を見るけれど
夢はわたしを見ないのね
蝶々さよなら
また会う日まで
私なら、最後の一節は削ってしまうわ。
だって、何故期待するの?




