試練の門
ハティの案内でバザールへ到着すると、レイリンは思わず心を浮き立たせた。
「バザール……。私初めて来ました」
『レイリン、はぐれる』
どこまでも続くかのような一本道が、布やら渡り橋やらで空を遮ったトンネルの中を突っ切っている。左右にはびっしりと物珍しい露店や店舗が並び、魅惑的な輝きを放つ店もあれば、日常的な空気を発している店もある。そして、美味しい匂いを漂わせている店も。
どの店の前にも大抵呼び込み役がいて、道行く人を店内へ引っ張り込もうとやる気のある者もいれば、店先に座り込んで水煙草を吹かしながら隣の店の呼び込み役となにやら盤上ゲームをしている者もいた。
この国で要り物ならバザールに来れば大抵揃うので、人は多い。
人の波間をすいすい身軽に進むハティの後へ続くのは、ハミエルに手を繋いでもらっていなければ、レイリンにはまず無理だっただろう。
レイリンはアシュレイに化けて戻れなくなってしまったハミエルを見上げる。彼はしきりに鼻をフンフン言わせてレイリンの手を引いて行く。
フンフンしているのを差し引けば、慕っている兄とバザールを歩いている様で、小さな夢が叶った様な甘い気持ちになる。
いつも、『今度ね』『またね』って……。
そしてようやく『今度』がやって来ると、レイリンが熱を出してしまったり、もう一人の兄ユーミットの機嫌がすこぶる悪くなって暴れたり、アシュレイお気に入りの馬が産気づいたり、大雨が降ったりするのだった。
箱入り娘のレイリンは諸々の理不尽を思い返して、フードの中で頬を膨らまし……やがて笑んだ。
でも、本当では無いけれど、これはこれで楽しい叶い方だわ。
キュッとハミエルの手を握ると、ハミエルが兄の顔(偽)で振り返って
『もうすぐ』
と鼻をひくひくさせた。
異様に膨れた尻がぶるんぶるん振動している。
『オイ、早く来いよ、あそこだ!』
と、少し先を行くハティのあそこも大変な脈動感を生み出していた。
いつもああなのかしら? と目を逸らしながら、ハミエルに急かされ手を引かれ、レイリンは小走りでハティの待つ店の前に到着した。
店は立ち食い処で、「椅子が無いわ」と、レイリンは直ぐに怯んだ。
店先で立ち竦む彼女を置いて、ハティとハミエルはいそいそと店内の数珠暖簾を潜る。暖簾が動くと、店から漂って来るソーセージの焼ける匂いがより強くレイリンを誘惑した。
でも、入り口にかかっている数珠暖簾が汚い。油とスス埃でギトギトしている。触りたくない……。
「ハ、ハミエルっ、ハミエル!」
炙り焼き中のソーセージがずらりと並ぶのを、ほとんど涎を垂らしてカウンターへ乗り出していたハミエルが「うるせぇな」と言う顔で振り返った。
お兄様は涎なんか垂らしませんことよ、と中身の配役に初めて不満を抱きつつ、
「あの、暖簾を上げてくださる?」
『はあ? はやくこい』
暖簾が汚くて触れないから入り口が潜れません、なんて店の者の前で言えないので、レイリンは眉を寄せた。
「良いから暖簾を上げて。私を潜らせて下さいな」
『やだ。ここで待ってないともらえないって』
ハミエルの前に、もうすぐ食べ頃なソーセージが炭火の網の上でクルクルひっくり返されている。待っている客は他にも数人いて、もしも店主の勘定から外されたらまた焼けるのを待たなければいけない。
ハミエルは一刻も早くじゅうじゅうしたい!
「すぐに戻ればいいでしょう? 上げてったら」
チッと舌打ちが聴こえて、ハミエルの向こうからハティが冷たい目をしてひょいと顔を出した。
『何様?』
『おじょうさま』
『お姫様じゃねぇんだろ』
『ちがう』
『オイコラ、メンド―なコト言ってっとソーセージやんねぇぞ』
『やんねぇぞ』
「……なっ」
ワンワンっぽい二人に、まさか「ソーセージやらない」などと形勢逆転的な発言をされるとは思わなかったレイリンは、軽い屈辱に頬を赤らめた。
「ちょっと暖簾を上げるだけじゃない!」
「フン」とハティはつれない。
ハミエルも厭そうだ。
焼いているカウンターの前に立って待たないとソーセージが与えられないシステムなのだ。焼き上がりを狙う敵は沢山いるし、暖簾とか訳解らん戯言に付き合って目を付けているあのじゅうじゅうの一本を逃すなんて、絶対に厭なのだ。
『ならテメーでしろや』
「……!!」
『レイリン、おあずけだな』
「ハ、ハミエル……酷いわ。私バザールの屋台なんて初めてなのに。どんなに美味しいのかしらって期待していたのにっ!」
ハティの前に、じゅうじゅう音を立てたソーセージがヒョイと差し出された。
ハティは高めのカウンターに背伸びをして乗り出し、ソーセージを受け取ると『どんなに美味いかだって?』と言いながら串に刺さったソーセージに喰いついた。
横で最愛の兄を模したハミエルが「ハッハッハ」、と涎を垂らして尻をブインブインさせている。
『めちゃくちゃうめぇぜ』
ハミエルにも串が差し出された。
ハミエルは目をキラキラさせて、ハグハグと幸せそうな顔で同じくソーセージに喰いついた。台無し感が本物へ近づいて行く。
レイリンは悔しくてギュッとローブの端を握ると、フードを深く被り直し、出来るだけ身を縮めて暖簾の中へ勢い良く入り込んだ。
数珠暖簾がジャラジャラ音を立てて揺れた。
潜ってしまえばこっちのものだ。
レイリンは揺れる数珠暖簾を振り返り、満足気に微笑んだ。
たったこれだけの事が、彼女にとってとても大変な事だなんて、二匹はちっとも気付かずに、二本目をおかわりして手を伸ばしている。
レイレンは二人の間に割り込んで、ハティに差し出されたソーセージをサッと奪い取ってやった。
『あ、コノヤロ』
ふふん、と笑ってレイリンはソーセージにそっと齧りつく。
いつも上品な味付けで食べているレイリンには、野性味あふれる焦げ目の微かな苦みや、これでもかと振ってある塩胡椒が新鮮で美味しかった。―――濃い口最高!
『うまい?』
ハミエルが聞いた。
レイリンが微笑んで頷くと、ハミエルも笑った。
ハミエルが初めて自分に向けて無邪気に笑ったので、レイリンはとても嬉しかった。同時に兄の姿(妄想)をしていたけれど、兄に笑い掛けられた感じがちっともしなくて、不思議だった。
不思議と言えば、こうして三人でカウンターに並んでいるのもふしぎだった。昨日まではこんな事想像もしていなかった。
家から出て、誰かとバザールの屋台で立って物を食べるだなんて! 自分があんなに汚い暖簾を自分で潜ったなんて!
両サイドの二匹を見る。
ハティは無事におかわりを手に入れて、まだ食べかけの内に次のおかわりを催促している。
ハミエルはレイリンから視線をソーセージに移して、律儀そうに次のじゅうじゅうを待っている。
二人共人間の姿をしているが、ソーセージに被りつく際に見せる歯はとても尖っていた。
妖魔の真ん中。
レイリンは妙に可笑しくて、彼らを真似てちょっとだけ大きな口でソーセージにかぶり付いた。
ハティもハミエルもおかわりしっぱなし。
他の客たちはとうに満足してチラホラ店を出て行くというのに、まだまだ貪っている。
でも、彼らがお腹いっぱいになったらこの時間はお終い。
そう思うと、彼らのお腹が満たされなければ良いのに、とレイリンはそんな事を思った。
「良く喰うなぁ、何本目だよ」
人が引いて手の空いて来た店主が、ハティとハミエルをからかったが、二匹とも知らんぷりをしているので、レイリンが「とても美味しいから」と答えた。
店主は笑って、
「お嬢ちゃんはもういいのか?」
「私はもうお腹一杯です」
「兄妹かな」
どうやらハティとレイリンを兄妹だと思っているらしかった。
いいえ、と答えようとしたら、我関せずだった態度のハティが遮る様に『そうだ』と答えた。
否定して「じゃあなんだ」と質問が続くのが、彼は面倒臭いのだ。
でも、レイリンはそんな事わからないので、内心「誰が貴方なんかと」と思う気持ちと、何だか嬉しい気持ちになった。
「お嬢ちゃん、フード熱くないか?」
「あ、はい。大丈夫です……」
「そんなに深く被って……兄ちゃんに似て可愛いんだろうに」
店主はレイリンの顔を見たそうだった。ハティの兄弟なら美少女なのだろうと期待したのだった。
それに、一番上の兄そうな青年もソーセージへの飽くなき情熱を除けばなかなかの美青年だ。
「芝居にでも出ていそうな美形ぞろいだ。そういう関係の仕事かい?」
「いいえ」
レイリンはころころ笑った。自分が役者に間違われる日が来るとは。
今日はとても驚く事ばかりだ。
横でハティがケプッ、とゲップをした。
「お、もうおかわり終いか?」
『ああ。ゴチソーさん』
店主が串の数を数えて代金を請求すると、ハティはポケットをゴソゴソやって、カウンターにコインを並べた。
店主は青年が代金を支払うとばかり思っていたので、少年の方がコインを出してちょっと訝しんだが、ちゃんと請求分の代金が支払われれば特に文句も無い。
「まいど。また来いよー」
愛想無く立ち去る二人の代わりにレイリンは店主にお辞儀をし、急いで暖簾を潜るハミエルに寄り添った。―――こうすれば、自分でベトベトの暖簾を触らなくてすむから―――。
ジャラジャラ、と数珠暖簾が揺れて、何だか風変わりな三人組を見送ってしまうと、店主はタバコを吹かして先程少年の手で置かれたカウンターのコインを手で集め、代金を一時集めて置く壺に放り込むと、昼の売り上げを数えだす。
そうして首を捻った。
毎日している商売だ。どんなに忙しくたって、勘定を間違えたり貰い忘れた事は無かった。
それなのに、どんなに数えても数えても、串十数本分、コインが足らないのだった。




