小雨は計れない
自分のものになる様な気はしていた。
だって、僕と君は「合う」からさ。
でも僕は一応言った。まさか知らないとは言わせないぞ、と何の罪も無い君を、少し責める様に。
そこで君が何かに揺れたら、僕は諦めようと思った。
色々な事を、いつもみたいにそうする様に。
「カインは君が好きなのに」
「でも私はあなたが好きなの」
「……友達でいてくれるかな」
「カインに言っているの? 私に言っているの?」
「……カインにだよ……」
唇が重なった。
この境界線を、二人で何度フラフラしただろう。
一線を越えた高揚感は、果てしない。
君を先に裏切らせた。
僕の為に裏切らせた。
後ろめたさに、愛しさが募った。
小雨に濡れた昼下がりの出来事。
* * * * * * * *
生まれ故郷の海が見える。
キラキラ輝く、透き通った明るい翡翠色の海が目の前に広がっている。
誰かが色の境界線を気にしていた事を彼は思い出す。
誰かが、海の色が変わるのを不思議がってた。
彼は辺りを見渡して、たった一人なのだと気が付くと、再び海を見た。
この景色を見せたかった。
彼の隣で、「綺麗だね」と言って欲しかった。
「本当に違うんだね」と言って驚く顔が見たかったし、ますます境界線を気にして不思議そうにする顔も見たかった。
でも彼の隣には誰もいない。誰も。
もう、笑うしかない。
* * * * * * * *
ロスタムにやられたアシュレイの肩は、小さな穴が空いてしまっていた。何処か切れてはいけない線が切れてしまった様で、人間の力で治療を続けても腕が上がらない、と見込まれた。
医者はロスタムを「何を考えているんだ」と言う気持ちで見たが、ロスタムは平然としていた。
「人外の力を借りれば良いのだろう?」
「そうです。使い魔の中に癒し手はおりますか」
「無いな。誰か探せ」
ロスタムはそう言うと、医者を手で払った。
医者は彼の召使いでは無いので、その態度にムッとした。しかし相手はロスタム・ナザールだ。忌々しい気持ちで部屋を出、通りがかった召使いに伝言する。ついでに痛み止めやら熱さましを手渡し、請求書はいついつ日までにお送りしますと言うと、出て行ってしまった。
多分あの男は、元々そのつもりだったのだ。
そのつもりで、子息を痛めつけた。
治るから、良いだろう。そんな算段で。
ナザール家の門を潜って出ると、医者は直ぐに何か穢れたものを落とそうとでもするかの様に、上着の上から手で肩を払った。
*
ここに来るのは久しぶりだった。
何も変わっていない事に、少しだけ戸惑った。
それは彼女の期待を煽った。
当時に戻った様な気がしたのだった。
駄々草な部屋だった。置いてある物全てが、主に感心を持たれていないのがハッキリ分かった。
彼女は寝台に眠る部屋の主を覗き込む。
土気色の寝顔は、憔悴しきっている。
昨夜の話を聞いた。
彼女を部屋へ――必要なんて無いのに――案内した召使いからだった。
その人は話をする際、憚る様にしながらも、何処か子供をワザとちょっぴり怖がらせ楽しむ類の表情をしていた。
彼女はその話を聞いて、また一つ彼を好きになる。
その話に出て来た女の子を思い浮かべて、余計に想いを熱くする。
彼女はそんな事、起こるはずないと今まで思っていた。
「……でも……とことん運が無いのね。可哀想なアッシュ」
彼女はそう言うと、彼の唇に唇を重ねた。
眠っている彼が、少し顔を動かして彼女の唇と自分の唇の位置をずらした。彼女は微笑んで、彼の顔を両手で包むと再び唇を合わせる。強引に舌を入れようとしたところで、片手で肩を掴まれ、押し返される。
彼女は「うふふ」と忍び笑いを漏らした。
「やっぱり起きてたのね」
「……起きない方がおかしいよ……」
「あら、目覚めのキスで起きたみたいね? 本当は私がいなくなるの、寝たフリして待っていたクセに」
そう言って彼女は寝台に乗ると、彼の腹の上辺りに馬乗りになった。子供がじゃれているみたいな、とても無邪気な調子だった。
「僕、怪我人なんだけど」
「すっかり直してあげたわ」
彼の裸の胸にのしかかって、彼女が言った。指で彼の傷跡をなぞると、腕を掴まれて止めさせられた。
「怠いから止めて」
「熱があるの」
「重い」
「私?」
「降りてよ。僕、イライラしてるんだ」
「では、鎮めてあげましょうか」
おどけて彼女が言うと、彼はようやく疲れた様に微笑んで「君、そんな女だった?」と答えた。
彼女はつまらなそうにして、彼から降りると横になっている彼の顔の横に両膝を抱えて座った。
「随分ね」
「ふざけるからだよ」
彼はノロノロ起き上がって、寝台の脇に置かれた薬を手に取った。
彼女はそれを横目で見て、
「熱さましなら、私も持って来た」
「じゃあ、君のを飲むよ」
「うふふ」
「どの位で効くかな」
「直ぐよ」
得意げに言った後で、彼女は「でも、寝てなくては駄目よ」と、彼の背を撫でた。
「早くちょうだい」
彼の返事は、自分の背を撫でる手とは正反対の態度だ。
「眠るって約束する?」
「面倒臭いな。もういいよ、コレを飲む」
彼はそう言って医者の置いて行った熱さましをサッサと口に入れ、水で流し込んでしまった。彼女は彼の冷たい態度に、微笑んでいる。
彼女は恐らく、この世で一番彼の事を分かっている。
だから、判る。
彼が自制しているのだと。
今、この人は、とても誰かに甘えたい。
でも、それが私だとバツが悪いんでしょう?
そうでしょう? アッシュ。
*
ちょっと起き上がっただけで、クラクラして吐き気に襲われた。
アシュレイが額を手で覆って唇を噛むと、リリスが半ば強引にシーツの上に彼を押し倒した。
「たくさん出血したでしょ? 横になってなくては駄目」
「うん……分かった。そうするから一人にして」
リリスは頑なに首を振った。
アシュレイは自分の考えを読まれている事に、胸中で苦笑いした。
こうなったいきさつを恐らく知られ、彼が今からどうしたいのかも見通されているのだと思うと、さて、どうしたものか。
「眠るまで見てる」
リリスはそう言って、アシュレイの髪を撫でた。
「……眠く無い」
「その内なるから」
「人がいると落ち着かない」
「……話でもする? きっと疲れて眠れるわ」
そう言って微笑む彼女は、綺麗だった。
綺麗で、あまり捉えどころが無くて、纏う空気はまろやかだ。
簡単に人の心の壁を乗り越えて、とても近くで笑う。
アシュレイはそんな彼女に苛立った。
今は理性的でいたいのだ。
それなのに。だったら。
「……いいね。話をしよう」
「ん」
リリスはホッとした様に微笑んで、また彼の髪を撫でた。
アシュレイは、彼女から目を逸らしてしたい様にさせた。
「仕事に行ったんだ」
「ええ。どうだった?」
「ちょっと手こずった」
そう、とリリスが頷いた。
「だから、まっすぐ帰らずに寄り道した。立ち寄った街で、歌姫の評判を耳にした。僕はちょうど、<セイレーンの矢>なんて馬鹿げた隊の事でイライラしていた」
「……カインも、昨日帰って私に会いに来た」
「うん。……君、カインに『つまらない』って言ったんだって?」
リリスは「そうだったかしら?」という顔をして、首を傾げた。顔には罪悪感が広がっていたので、アシュレイは彼女の芝居から大体を察した。
「まぁいいや……世界に魔力をぶちまける「うた」と、人間の喜怒哀楽を現す「歌」では性質も次元も違うじゃないか。
だから僕は、その歌姫とやらのチンケな歌を聴いて、『ほらね、やっぱり君は間違ってる』って鼻で笑ってやろうと思ったんだ。……良く眠れるかもって、思ったんだ。ははは」
アシュレイは笑い声を立てて、続けた。
ぽとん、と調子を落として、彼はその場にいるみたいに虚空を見る。
煌びやかで、バカげた踊り子たちのショー。酒は大して美味く無かったし、彼はおひねりをねだる女の子達に一銭も出す気は無かったので、踊り子たちに見向きもされずに素通りされた。
馬鹿馬鹿しいや、宿に行って寝てしまおう。
そんな風に思っていた矢先、ステージから引いて行く踊り子たちの群れから一人残って微笑んで立っていた彼女。
群青の髪を、色っぽく結って、後れ毛が揺れていた。
期待と諦めの両極端を光らせる猫の様な瞳は、彼好みだった。
際どい衣装に包まれた白くて柔らかそうな身体は、汗で所々チラチラと照り輝いていた。
どうしてあの時、自分はあんなにも冷めた目で彼女を見れたのだろう。
「その娘がステージに一人残った時、脱ぐのかと思った。僕はその時、結構乱暴な気分でちょっと期待したんだ。
―――そういう乱暴な視線を受けながら、その娘はステージに一人立っていた」
リリスの瞳は揺るがない。今何が話されているのか、これから何が話されようとしているのか、きっと理解はしているハズなのに、彼女は落ち着いている。
―――そうさ、リリス。君はこの位じゃ騒いだりしない。だから、僕は困ってるんだ。
アシュレイは苦々しくそれを確認しながら、話し続ける。
「男達の自分勝手な視線をへっちゃらで受けて、こんなの慣れっこだってばかりに生意気そうにツンとしてた」
「アッシュが好きそうな娘ね」
リリスの合いの手に、アシュレイは「うん」とニヤニヤした。
「好みだったよ。彼女はお辞儀をした後、声を出した。そしたらさ、何もかもが彼女を中心に回り出した。歌声に皆が引き込まれたんだ」
「それで、心を奪われた?」
ちょっとちょっかいかけたくなっただけでしょう? とでも言いたげに、リリスが微笑んで言った。
アシュレイはそれに「いいや」と答えた。
「彼女は自分の歌声の魅力を自覚していて、得意そうだった。群青の瞳をキラキラさせて、歌っていたんだ。なんかね、そんなところが可愛かった。得意になってる女の子って可愛いだろ」
でも本当は、ちっとも持ち主が決まらずに、輝きを持て余して寂しがってる、あのネックレスみたいだったね。
「アッシュったら、可愛い子に弱いんだから」とリリスは言って、どこかホッとしている様子だった。
だから、アシュレイは続ける。
「彼女はね、歌で、鬱憤を晴らしてたんだ」
「? どういう事?」
「聴けば判るかもね。歌詞と違う歌をきっと歌ってた。それが聴こえたんだ」
「聴こえないモノが……? お熱になり過ぎて、妄想しちゃった?」
リリスがしっとりした様子で茶化した。アシュレイも、そうかもね、と調子を合わせて笑った。その後で、スッとリリスから目線を外すと、俯いて言った。
言おうとする前から、何かが込み上げて来て、視界が歪んだ。
「あの時、あの娘の鬱憤が、僕の鬱憤を撫でたんだ……」
「……」
「僕はなんだか、心を裸にされた様な気がしたんだ」
燻らせているものを、発火したい。
そんな衝動を、あんなに無防備に、僕なんかに触れさせた。
歌声にヤられたんじゃない。
彼女にヤられたんだ。
でも、ほらね。セツメイなんて、出来ないよ。
「凄く一方的でしょ? 僕は彼女の危ないファンみたいなもんだ。指導者のたった一言に感動しちゃって、猛進するアホな信者だ」
「アッシュ……」
リリスが、彼の頬を伝う雫を指に絡めた。
滑稽だ。
リリスじゃなくて、自分が泣いていた。
僕は君を裏切らせた。
なのに君を裏切った。
あの娘のせいじゃない。
だって、その前から裏切っていたから。
君を忘れてしまいたくて、仕方なかった。
そしてそれが叶った。
なんで涙が零れるんだろう。
僕はどこからどこまでの事で泣いたりしてるんだ?
「本当に、ツイてない人ね……」
リリスがそう言って、アシュレイを見つめた。
アシュレイは頷いて、
「うん、笑うしかないよ……」
と呟いた。
これほど足掻いていると言うのに、手には何も残らない。
* * * * * * *
酔ってたんだ。
だから、僕はステージを登るしかないって思ったんだ。
僕はやたらとゴキゲンだった。
なりふり構わずにゴキゲンな人間ってああなんだよ。
あの時、僕は僕以外の者だった。
でも、僕以上に僕だった。
何言ってんの? なんて冷たく言われそう……。
でもいいや。首を傾げて不思議そうにする君が好きだよ。
僕の事何も知らない、それって魅力的な事だったんだ。
だって、素でいられるだろ?
甘えたかったんだ。気持ち悪いね。




