朝露の約束
朝日、おれを照らして。
こいつにおれの影がようく見える様に。
その影が見えたら、こいつはもう望まない。
ご覧よ、おまえの目が眩むほど。
四本足の歌を、おまえは歌えないだろ?
* * * * * * * *
途切れ途切れに、聞いた事の無い声が聴こえる。
……ち……き……
……きこ……? ……き……。
……き……レ……ン……。
彼女はぼんやりした意識の中で、耳をすました。
眠りたい、と思った。
今日は、色々な事が起きて、起き過ぎて、もう心が張り裂けそう。もうこれ以上は、何も見たり感じたりしたくなかった。
「もうたくさん」彼女は心の中で悲鳴の様にそう思うと、ベッドの中でうずくまると、枕のカバーにギュッとしがみ付いた。
―――誰?
……おれ……。
声は続いている。男の子の声だ、と彼女は思った。
彼女には友達なんていない。ましてや、男の子の友達だなんて。
でも。
……レイ……ン……。
レイリンはガバッと起き上がって、真っ暗な部屋を見渡した。涙が頬でツルツル転がった。
……きて……。
「誰?」
……きて……。
部屋には何の気配も無い。彼女は大きな目を見開いて、震える手でカーテンを開けた。外は地上にある物から順に光の輪郭を帯び始め、朝を迎えようとしていた。でもまだ薄暗い。うっすらと部屋を明るくし、レイリンはその頼りない明かりを頼りに再度部屋を見渡した。
何もいない。
「どこにいるの?」
……きて……。
「いや……よ」
レイリンは首を振って、胸元で手を揉んだ。
怖い。こんな事、妖の仕業に決まっている。
……きて……。
「いや!」
気を強く持たなくては、とレイリンはそう思って強く拒絶した。
すると声が止んだ。代りに、『キュン……』と小さな鳴き声が聴こえた。
*
レイリンは部屋を飛び出すと、知らず乱れる呼吸に苦労しながら屋敷を抜け出し馬屋に向って走った。ナイトドレスのたっぷりしたスカートが足に纏わりついて、もどかしかった。
彼女は息を切らせて、「お座り」をして自分を待っていたハミエルに駆け寄ると、彼の一歩手前で踏み止まって、彼をまじまじと見つめた。
ハミエルは透明な黒い目を真っ直ぐレイリンに向けて、尻尾を一振りすると、前足で自分に付けられた首輪を引っ掻いて見せた。
『とって』
「……ハ、ハミエル……?」
『レイリン、これ、とって』
「貴方……狼ではないの?」
『おおかみ』
真ん丸の目をくるんとさせて、ハミエルが言った。口は動いていないけれど、頭の中で声が響く。声は何か見えない障壁がある様に、所々くぐもって聴こえた。
喋る狼なんていないわ。
レイリンは、ハミエルの返答に警戒した。
ハミエルは首輪を前足でカチャカチャいわせて唸った。
『とって。ライラのとこいく』
「でも……でも……」
こんな小さな狼(?)に何が出来ると言うのだろう?
それに、「自分の思っていたハミエル」じゃないのは、極めて危険なのかも知れない。この自称狼は今、とても怒っているのがレイリンには判る。ピリピリとした空気を纏い、少し、否かなり焦れている。ライラに危害を加えた<セイレーンの矢>や、助けられなかった自分やアシュレイ、差し出した父に対して牙を剥くかも知れない。
『おねがい』
ハミエルはレイリンの怯えの表情を読み取って、焦れったそうに足踏みした。彼からしたら、レイリンはもっと簡単だと思っていた。自分を可愛がっていたから、そのまま味方してくれると安く考えた。
安直な期待は外れ、彼女は自分を怖がっている。
『……ともだち』
「え?」
『……ともだち、に、なる』
白目を目玉の片端に見せて、上目遣いでこちらを見詰めるハミエルを、レイリンはまじまじと見た。
「わたくしと?」
『……おまえと。ともだちだから、こわくない』
空が白んで、辺りが明るくなり始めていた。繋がれた馬たちが、静かに成り行きを見守っている。皆、本当にとても静かだった。もうすぐ、馬の世話係がやって来る頃だし、小鳥たちは歌い始めるし、何より、薄闇に紛れ、コッソリこんな事をする姿が日の光に照らされてしまう。
妖と『お友達』になる約束なんて!
それでもレイリンは焦らなかった。彼女は封魔の力を持っていないし、手ほどきも受けていないけれど、身近で見聞きして来た成果か、それとも血の成せる業か、本能的に「詰め」を侮る事をしなかった。
「……何よりも、一番の?」
『……はやく』
チャリ、とハミエルを繋いだ鎖が引きずられて鳴った。
ハミエルは、幼い少女相手には脅すより宥めた方が、と思いつつ、隠す事が出来ずに意図せずチラリと牙を見せた。レイリンは臆せずそれを指差してワザと疑わし気に言った。
「あら、一番の友達にそんな顔するかしら?」
『しない、しない。おねがい。はやく』
「わたくしが厭な事はしない? わたくしの身内に乱暴な事とか……」
ハミエルは「ぐるる……」と不本意そうに唸った。それでもライラを助けに行きたいのだろう、目を閉じて答えた。
『……しない』
「絶対よ。わたくしの傍にずっといてくださる?」
『……それは……』
渋るハミエルの様子を見て、レイリンの中で嫉妬めいた気持ちが芽生え、パッとうなじの内側辺りで濃く香った。不快なのに無視できない、嗅がずにはいられない香りだった。
ライラさん、良いわね―――。
お兄様、お友達、こんなに素敵な喋る狼!
彼女はハミエルの首と首輪の間の隙間に指を引っかけて、少し揺すった。
随分、冷たい気持ちになっていた。大きな青い瞳だけが渇望に燃えているのが、自分で分かった。
「―――取るわ。誓って」
『ちかわないと、だめ? おれ、おおかみじゃない』
おまえ、こうかいする。と、ハミエルはフワフワした睫を伏せた。
「わたくしに誓わないと、貴方が後悔するわよ。満月は明日の晩。もう砂浜には十字の杭が立てられるでしょう」
『ひどい。ひどい。おまえ、あいつのいもうと』
「それは褒め言葉よ。どうするの?」
キュン、とハミエルが鳴いて、瞬きした。
『……ちかう。おまえのそば、いる』
「友達ね?」
『ともだち』
潤んだ丸い目を諦めた様に少し細め、ハミエルが言った。
レイリンは鈍く無い。だから、ハミエルのその表情で、胸に鈍い痛みをおった。
*
レイリンが首輪を取ると、ハミエルはプルプルと首を振って、伸びをした。
それから、レイリンの前で瞳を光らせ、唸りながら大人の狼よりも一回り大きく、滲む光と共に変化すると、銀色の毛を揺すった。
「あ、貴方、あなた……!」
後退るレイリンに、彼はなんと笑って見せた。
『こわいだろ。ほら、こうかい』
「……っ、していないわ!」
『いくぞ、のれ』
ハミエルはのしのしとレイリンに近付き、彼女のナイトドレスのスカートを引っ張った。
「きゃあぁっ、わ、わたくしも連れて行くの?」
『そばにいる、いっしょ』
「そ、そうだけれど、そうだけれど」
『ちかった』
そう言われて、予想外の(ハミエルにとっては当然な)展開にレイリンは戸惑いながら頷き、彼の背に跨った。
たっぷりした毛並みが股にちくちくしたけれど、『馬より低いわ』とレイリンは強気に思った。
ハミエルが跳躍し、揺れと浮遊感に慄きながら、レイリンは彼に精一杯引っ付いて、ふさふさした毛を握った。
「痛くないかしら?」
『へいき』
「落とさないで」
『おちるな』
「そんな……きゃああ!」
ハミエルが空へぐんぐん上昇し、ナザール家の屋敷と広大な庭が、どんどん離れて行く。
カナロールの街が見渡せる程高い所に行くと、黒い海が広がっているのが一望出来た。
背の上は、風に乗ってしまえばちっとも揺れなかった。
本当に約束を守ろうとするハミエルに、レイリンは驚いていた。
あんなに強く約束を迫った割に、彼女は「じゃあな」「用済み」とあしらわれる予測をどこかでしていた。期待する前から諦める事は、レイリンのクセだった。彼女は今まで、「またね」「今度ね」そんな風にあしらわれてばかりだったから。
だから、本当に本当に驚いていた。しかし、それは待ち望んでいた喜びには繋がらなかった。異質な肌触りに、胸の高鳴りを純粋にそうと感じられず、むしろ重みのある騒めきと感じた。
朝日が完全に全てを照らし、明るさで満ちている。
レイリンは上空の冷たい風に目を細め、ハミエルの背の毛並みに顔を埋めると、明るさから心を背けた。
こんなに素晴らしい景色と朝の光をもってしても、何もかも薄暗く見える気がして。
* * * * * * *
言って欲しかっただけなの。
君の友達になるよって。
ずっと傍にいるよって。
でも、こんな形でそれを手に入れて、わたくしは子供でした。
でも、「違う」と解るほどには、大人なのです。
朝日よ、こんなわたくしを、照らしたりしないで。
―――いつもみたいに、ないがしろにしてくださいな。




