白旗
竈から出た二人は、お互いの姿を見た。
リリスは灰だらけのカインを笑ったが、カインは顔をしかめている。
カインはそれ程服装にこだわる質では無かったが、一応彼女に会う為に着替えて来たばかりだったのだ。独身だが屋敷にはメイドがいるので、自分で洗濯をする必要は無いが、やはりこれでは気が引けた。
「酷い事になっちゃったわね。ごめんなさい、カイン」
「メイドに叱られる」
実際彼を叱るメイドなどいなかった。メイド達はカインに骨抜き状態で、タダ働きでもイイ、と思っている者すらいる位だった。
リリスは、ハハハ、と豪快に笑って「仕事だったって言えば良いわよ」と無責任な事を言う。
「でも、それで外を歩くのはさすがにね……時間はあるの?」
「今日はもう暇だ」
「そう。じゃあ、服を脱ぎなさい。洗ったげる」
カインは「それは助かる」と言って、喜んだ。それだけ、ここに長居出来るからだった。しかし、上着を脱いでふとリリスを見、カインはギョッとした。
「おい、何してる!」
慌ててカインが目を逸らすのもそのハズ、リリスは着ていたワンピースを無造作にヒョイと脱いだところだった。
白いロングキャミソールの胸元から、零れ落ちそうな程豊かな胸の谷間が覗いている。薄い布なのかうっすら中身の線が見える様で、カインの頭に血が上った。
「貴様、我々はもう子供では無いぞ!」
思わず仕事中の上司口調で注意して、カインはリリスに背を向けた。
「アハハ、カイン相変わらずだねぇ。いいじゃない。裸じゃあるまいし! こういうのはね、堂々としていれば恥ずかしくない!」
「イヤ、いいから、早く新しい服を着てくれ」
リリスはカインがこちらを向いていないのをいい事に、両腕を頭の後ろで組んで余裕のポーズで身体を揺すった。
「もう少し困らせたいわ」
「頼む、リリス、頼む!」
「ウリウリ~」
「止めろ! 止めないか!」
近寄って来たリリスに指で裸の背を突かれて、カインが真面目に怒ると、リリスは「つまんない」と言ってカインの持っていた上着を引っ手繰った。そのお蔭で、リリスの身体が多少隠れたので、カインはホッとして彼女に背を向けるのを止めた。
「つまらなくて良い。リリス、お前客にもこんな風に接してないか?」
リリスは悪戯そうに笑った。なんとも、瞳の綺麗な女だった。
「お客様と灰まみれになった事は無いわ」
「……そうか」
なったらどうするのだろう? とやや不安が残った。
それを読み取った様に、リリスが笑って言う。
「ウチに来るのは腰を痛めたおばあちゃんや、赤ちゃんの熱さましを取りにくるお母さんや、お使いで護符を貰いにくる子供くらいよ」
「男の前では止めておけ。襲われるぞ」
リリスはカラカラ笑った。目頭から目尻までクッキリと流れる二重瞼のラインが際立って、榛色の柔和な切れ長の瞳がカインを映してキラキラ光っている。
あられもない姿でそんな風に魅力を振りまかれると、困る。
「笑ってないで、ちゃんと聞け」
「大丈夫よ。使い魔がいるから」
「そうだが、まぁ良い。早く服を着て来てくれ」
ふふ、とリリスは先ほど怒られたばかりだと言うのに、くねくねと身体を左右に揺すって妖艶に微笑んだ。
「襲いたくなっちゃう?」
「……いい加減にしろ」
カインは段々腹が立って来た。
リリスが本気で自分を誘惑している訳では無い事を、からかっているだけだという事を、彼は分かっているのだ。
このふざけに乗ってしまったら、瞬く間に遊びは終了してしまうのだろう。それも、少しいびつな音を立てて。
彼女が自分に安心しきっている事が問題だ、とカインは思う。
否、少し違うな。リリスは、俺を絶対にかわし切れると思っている。
なめてるんだ……。
悔しい。その気になれば、絶対組み敷いてしまえるというのに。
かと言って、自分の欲情を見せて怖がらせるのは厭だった。
否、でも、もしかしたら……。
笑って、受け入れてくれるのではないか……?
カインの表情の微妙な変化に、リリスはすぐに気が付いた。
彼女は笑って、彼が動くより素早くサッと彼と距離を取ると、「ハーイ、気を付けま~す」と言って、カウンターの奥の、大竈の横にあるドアの中へ軽い足取りで消えてしまった。
「……」
やっぱりな。
一人残されたカインは、薄く微笑み、腰に手を当て深く首を垂れた。
―――疲れた。
ただ、それだけ思った。
* * * * * * * * *
リリスは着替えて裏から出て来くると、カインに男物のシャツを投げてよこした。彼はそれを憮然とした表情で受け取ったものの、袖を通さなかった。そのシャツの持ち主が誰で、だとしたら、サイズが合わない事を知っていたからだった。ズボンも飛んで来たが、足の長さが全然違うという事に、彼女は本気で気付いていないのだろうか?
「下はいい」
「どうして? 洗ってあげるわよ?」
「いい!」
頑なに断って、渡された服を憎々しげに見る。ついつい、湿った声が出た。
「アイツも竈に入ったのか?」
「違うわよ」
「……そうか」
じゃあ、なんでアイツの服が洗濯されて彼女の家に置いてあるのだ。
カインは追及したい気持ちをグッと抑える。下着まで出てきたら最悪だ。これ以上は止めてくれ。カインはそう思って「着替えはいい」とリリスに断わった。
「アイツ、よく来るのか?」
「そんなに来ないわ。この前仕事に行くって、護符を買いに来たくらいね」
「護符を買いに来て、何故服を置いて行く。裸で出かけたのか?」
「それはその時のじゃないの」
「どの時のだ」
結局、こうなってしまって、カインは後に引けなくなってしまった。
気を付けているのに、どうも自分らしくなくなってしまう。
これでは自分のものでは無い女に嫉妬する、器の小さな男ではないか。
彼女とこんな会話をしたいわけじゃないのに。
リリスは彼の心中などまるで気にしていない様子だ。
鼻歌を歌いながらカウンターの奥の竈を避けた先にある部屋で、何やらカチャカチャとやっている。その部屋は煮炊きの出来るキッチンが備えられている。そこで彼女はお湯を沸かしている様だった。
「前回の仕事で、妖魔の返り血を浴びたの。それを実家に隠す為に私に預けたのよ」
「何故? 自分の家で洗えばいいだろう。あそこは名門だ。妖魔の返り血くらい、見事に浄化出来るだろう」
「そうなんだけど……。名門だからこそよ。お父様が反対した仕事を、内緒で受けたんですって」
はぁ、とカインは片手で顔を押えた。
カウンター越しに、リリスが暖かいお茶を淹れたカップを差し出して、ふふふと笑った。
「お父様が言った値段の、十分の一で引き受けたそうだから、バレたく無かったのね」
「アイツはまだそんな事を……」
「アッシュは、そういう奴だもの。これからも、ずっと……」
そうでいて欲しい。そんな語尾が聴こえる様で、カインは目を細めてお茶を啜った。
「それより、カイン。貴方、『審判』には立ち会うの?」
リリスが打って変わって沈んだ口調で聞いて来た。カインは黙ってカップをカウンターに置くと、頷いた。
「仕事だからな」
「私、イヤよ。貴方がそんな……」
俯いて言うリリスから、カインは目を逸らす。
アイツの仕事に対してはとろける様な微笑みを浮かべていたのに、俺の仕事に対しては、そんな顔をするんだな。
「そんな仕事……」
「セイレーンを打ち取らなければ、妖魔を撲滅出来ない。俺は妖魔を必ずこの世界から消して見せる。それはお前の望みでもあるはずだ。違うか?」
リリスがパッと顔を上げた。
悲し気な、傷ついた顔をしているのを見て、カインは切なくなる。
こんな顔をさせたい訳じゃない。
だが、目的は達成させたい。―――何故なら―――
「先生を妖魔に奪われた日を、俺は忘れない。お前の悲しみも、俺が晴らしてやる。必ず妖魔を―――」
「でも、父さんは、……父さんが生きていたら必ず反対していたわ。あんな酷いやり方、父さんが認めるわけないもの」
「もしセイレーンがまだ存在していたら、また妖魔が増えるんだぞ? 確かに妖魔は減った。だが、まだたくさん存在している。セイレーンが、消えていないからだ」
リリスは小さく頷いて、カップを両手で包んだ。伏せられた長い睫が、思案気に揺れている。
「……妖魔は憎いわ。封魔の力に額ずくモノ以外、一匹も存在を許さない」
カインは頷いた。心底ホッとしながら。
しかし、リリスが鏡の様な膜の張った瞳を彼にひたむきに向けたので、戸惑った。
「でもね、カイン。『審判』にかけられる女性たちは、貴方をどう見るかしら? 貴方は人間なのに、彼女達にそれこそ悪魔と思われ、恨まれるの? 死んでゆく人に恨まれるのは、貴方怖くない?」
「……リリス……」
リリスがそっとカインの腕に触れた。
その筋張った逞しい腕は、払いきれなかった煤で汚れている。リリスの手は、それをそっと撫でて拭った。撫でられた箇所が、彼女の温もりを追ってビリビリと痺れる様だった。
「こんなに、優しい人なのに」
「……そうでもない」
「嘘。傷ついてる」
「無いな。むしろ、今傷ついてるのが、お前に分かるか?」
カインは腕から離れるリリスの手を捕まえて、自分の顔の傍までグイと引いた。
リリスは落ち着いていて、悲しそうな目で彼を見る。
どうとでもなれ、そう思ってカインは彼女の手に唇を這わせた。
リリスが悪い。こんなにも俺の心を掻き立てるリリスが。
滑らかで暖かい手は、ピクリとも反応しない。
それに虚しさを覚えない訳でも無い。でも、もうそんな事はどうでも良い。
「カイン」
掠れた、乾いた声で呼ばれて、彼は目だけを彼女に向ける。
そうして、やはり傷ついた。何度も何度も喰らった痛みを、今日も、それも一番酷い形で。
リリスの顔が虚ろだった。残酷なほど。
それは今までで最大の拒否。
カインは、リリスの唇が薄く開くのを恐れながら見詰めた。
―――とどめを刺される。そう思った。
案の定、リリスが、囁く様に言った。
「……つまらないわ」
カインは息を啜る様に吸い込んで、リリスの手を離す。
* * * * * * *
会いたい。
顔を見たい。
それだけで良いと思って来るのに。
結局、傷がまた増える。
増えた分だけ、また会いたい。
次は、怯えられるのか。
そうじゃないと良い。
* * * * * * *
大事。
大事よ。
大事だけれど、違うのよ。
次に会うときに、心が変わっていてくれますように。
リリスが悪い。




