私を見つけて
ねぇ、その前に、とライラはアシュレイに向き直る。
キョトンとした彼に、ライラは試す様な上目づかいで小首を傾げて見せた。
「なに? 凄く……グッと来ちゃうんだけど」
「おふざけは無し。ねぇ、あたしこれから凄く不思議な話をするの。今まで誰にも言わなかったくらい」
へぇ、と少しアシュレイの目が光った。ランプの灯の加減だったのかも知れないし、彼が自ずと発した光だったのかも知れない。
でも、ライラにはどっちでもいい。
アシュレイが真面目に聞いてくれるなら。
「ダイアナの話じゃなくて?」
「ダイアナの話だよ。出会った時の話」
ふん? とアシュレイは口をもぐもぐさせながら腕組みをした。
先を促す様に、ライラの顔を覗き込む。
ライラは少し舌先で唇を湿らすと、膝に落ち着いているハミエルの背を落ち着きなく撫でた。ハミエルは耳だけをライラの方へ向けて、目を細めている。
「なんであんたにそんな話をするかと言えば」
「僕が『封魔師』だからだろ」
そう、そうよ。と、ライラは頷いた。
昼間のパリゼットといい、そういうものたちが蠢く世界でライラ達は生きている。だから、その存在を否定したりしない。
だって、事実だから。
だからライラは自分の体験した事を、アシュレイに認めて貰いたいんじゃない。
判断して欲しいのだ。
あれは何だったのか、と。
「あと、もう一つ」
「うん」
「アシュレイは、王都の人でしょ? それも、騎士の軍団の隊長を務める人と顔見知りだって言ってる。……あんたはセイレーンの審判について、どう思っているの?」
アシュレイは、ふ、と笑った。目頭の下に、皺がよる。
彼が苦労を重ねた人の様な顔になったのを見て、ライラは質問したのを後悔した。
なので、彼の返答を待たずにライラは謝った。
「ゴメン。くだらない事聞いた」
ちょっと考えれば分かるじゃない。
妖魔がこの世から無くなってしまうのを願う人は、たくさんいるかも知れない。
あたしだってそう。
だって、危険ならいない方が良いもの。
だからきっと〈セイレーンの矢〉という隊が出来たんだろう。
それを支持する人が沢山いるんだろう。
でも、アシュレイはきっと、そのやり方を不快に思わない人じゃない。
……あたしはそう、信じたい。
「あのやり方は」と、アシュレイが口を開いた。
「僕は好きじゃ無いよ」
「……うん」
ランプの灯の中、静かな表情でこちらを見るアシュレイは、先ほどまで拗ねてふて寝していた男とは思えない。
凛とした雰囲気を纏い、なおかつ重い。
穏やかだけれど奥に強い力を秘めた茶色の目から、ライラは目を逸らした。
ああ、きっとアシュレイは怒ってる。「見損なうな」って。
……どうしてだろう、少し怖い。アシュレイなのに。
ライラが彼に対して感じたのは、(それがどうしてなのかは置いておいて)神聖性や畏敬の類だったけれど、ライラはそんな言葉を知らなかった。
また、今まで人にそんなものを感じた事が無かった。
なので少し勘違いをして、身を竦めた。
「もし、僕があの街にも『六角塔』にも寄らなかったら、きっと君が連れて行かれていたね。そうしたら、僕は君の顔も名前も知らないまま、おまけに君の命が消えて行くのも知らないまま、平気で生きていたんだ。そう考えるとゾッとする。
僕は幸運だった。……でも、連れて行かれた女性たちと同じ分、彼女達と出逢い、喜びを感じるハズだった人達が、それを知らずに今も生きている。……残念だ。そういう運命を、僕は作ってはいけないと思う」
でも、そんな事は〈セイレーンの矢〉に限らず日常茶飯事に起きている。そう付け加えようとして、アシュレイは止めた。
目の前で何故だか不安そうに自分から目を逸らせて座っている少女に、それを言ったところで何になるのか。
彼女の心を、今見詰めている事とは別の話題で乱したところで、彼に何の得も無い。
「……ライラ」
呼ばれてライラは、おずおずとアシュレイを見た。
彼は柔らかく笑んで、彼女に言った。
「君と友達が不思議な出会いをしたからって、僕はそれに対して君への見方を変えたりしないよ」
「……ダイアナへの見方も?」
それは、分からない。とアシュレイはコッソリ思った。
ライラが勿体ぶるには、ダイアナの何かを本当は隠したいと言う気持ちがあるに違いない。
ホッとした表情のライラに『ごめんね』と思いながら、アシュレイは頷いた。
「うん。ダイアナにもだ」
「〈セイレーンの矢〉のカインって人に言わない?」
迂闊な娘だ。ここまで言ってしまっては、もう話をしなくとも結果が判る。
ダイアナは何か妖魔がらみの『クロ』だ。
絶対に何かある。
それでも、アシュレイは頷いた。
「言うもんか」
****************
あの夜、ライラは駆けていた。
道なんてどれでも良かった。
むしろ、人の使う道になんて、居たくなかった。
ライラは街の隅に点在する雑木林に飛び込むと、真っ暗な林の中を躓きもせずに猛然と駆けた。だが、所詮街中の雑木林。すぐに囲いの塀にぶち当たって、ライラは冷たい土壁に両手を突いた。
お尻はヒリヒリ痛いし、笑い声が耳から離れない。
心が破裂しそうな位、感情をどうしたらいいのか分からない。
息を吐けば良いのか、吸えば良いのか、分からなくて呼吸が乱れた。
こんな理不尽からは逃げ出したい。
あたしは自由になりたい。
ライラは強くそう思うと、夜空を見上げた。
星が無数に瞬いていた。
月は黄色く真ん丸だ。
あんなに酷い夜だったと言うのに、星も月も、いつもよりクッキリ美しく見えた気がする。
真ん丸……。ライラはそう思うと、月を見詰めた。
そうしていると、心が落ち着くどころか騒めいた。
それなのにどうしてだろう、ライラは月から目を離す事が出来ない。
月を見て騒めくものが、心に渦巻く激しい感情と上手く混ざり合うのを感じたからだ。
それが良い事なのかは分からなかったけれど、そうする他、今の彼女に心を慰める事柄は無かった様に思う。
歌おうか。
ライラはそう思った。
この気持ちを、歌ってみよう。
そうして口を開き、声を出したのだけれど。
それは喚きだった。
言葉すら紡げなかった。
ただひたすら、月に向かって涙を零しながら、ライラは喚いていた。
否、吼えていた。
腹の底から、煮えたぎる物を吐き出す様に、ライラは月に騒めく感情をぶちまけた。
あたしは一人。
あたしは一人。
あたしはこんなにも、こんなにも一人。
ああ、この気持ちを、歌にすら出来ない。
誰か、あたしと一緒に、あたしの気持ちを。
この焦れったさを。
涙で滲む月が、二重三重に見え始め、ライラはいつしか高揚していた。
喉が、開く。
でも、その喉からは……。
ライラがハッとしたその時だった。
おおーん、と遠吠えが聴こえて来た。
早く、とライラは無意識に思った。
何が「早く」なのだかは分からない。
でも、見上げる月の中に小さな点を見つけた。
ライラは滅茶苦茶に喚きながら、「あたしはここ」と居場所を知らせたくて、その点に両手を伸ばした。
おおーん、おおぉーーーん……。
返事だ、とライラは遠吠えを聴いて思った。
そうして、真似をしてみた。
遠吠えを。
いつもステージで褒められている声で。
その遠吠えは快感だった。
腹に込めた力はいつもの比では無く、信じられない程声が良く伸びた。その声音に、自分でビリビリと鳥肌を立てる程だった。
点はどんどんライラに近付いて来て、その内輪郭を見せる。
ライラは「ここよ、ここよ」と両腕を広げた。
何故だか涙が止まらない。
ああ、『あたしのもの』だ。
『あたしのもの』が来る。
彼女はそう思った。それが記憶なのか、どこから来た思いなのか何かは分からない。
ただ、『自分の特別なもの』が来る、とライラは直感していた。
月から舞い降りて来たのは、見た事も無い程大きな狼と、それに横座りした金髪の少女。
狼が地面に音も無く着地すると、風がぶわっと舞い上がった。
温度の無い不思議な風圧に煽られながら、ライラは少女を見た。
少女はライラと同じくらいで、視線をライラへ向けている。
ライラも負けていなかったけれど、とても気の強そうな目尻の、大きな蒼い瞳は、美しくキラキラしていた。長い金髪は、生きている様に艶めかしく揺らめいている。
少女の小ぶりな唇が、薄っすらと開いて動いた。
『見つけた』
彼女はそう言って、大きな狼の背から滑り降りた。
美しく、余韻のある声だった。
ああ、あたしもよ。『見つけた』。
ライラは熱に浮かされた様にそう思った。
全く、おかしな話だけれど。
『ありがとう。マーナガル』
少女は恐れなど一切無しに、大きな狼の頭を両腕で抱いた。
狼は宝物を尊ぶ様に少女の脇に首筋を擦り付けると、のしのしとライラに近付いて来た。
ライラは何故か、怖くなかった。
それどころか、保護者に出会えたような、そんな安心感が滲み出る気分だった。
狼はライラの匂いを嗅ぐと、ぐるる、と首を振って唸った。
『スクォルの血』
狼が言って、ライラが首を傾けた。
「スクォル?」
『名はなんと言うのか』
「……ライラ」
『ライラ。よく、場所を知らせてくれた』
そんな事はしていない、と思ったが、もしかしたらそうなのかも、とライラは思った。
『お前が継ぐのだ』
「継ぐ?」
『今は何も知らなくていい』
ライラの疑問を無視して、狼はふわりと浮かび上がった。
『私の役目は終わった』
「待って、どこへ行くの?」
狼は答えない。そのまま、グンと上昇して、夜空を駆けて行ってしまった。
ライラは少女を見る。
少女は微笑んで立っていた。
『ライラ。私に名前を付けて頂戴』
「え?」
『好きな名前を』
「名前が無いの?」
『ええ。貴女が名前をくれたなら』
私は別のものになる。
ライラは意味が分からなかった。
一体どういう事だろう。この不思議を受け入れている自分に怖くなる。
「それでいいの?」
『いいの。私は生まれ変わらなければならない』
ライラは首を振った。
そんな事は許されない、と心の中で誰かが言った。
『ライラ。寂しかった』
ああ、とライラは声を洩らす。涙がまた零れた。
一体何なのだろう。何なのだろう。
困惑しながらも、ライラは自分で思わぬ事を口にした。
否、もしかしたら、……させられた?
「あたしも」
(どうして?)
『名前を』
少女の声は歌。
ライラですら、到底行き着く事の出来ない魔性の領域。
誘われる。操られる。心を、溶かされる。
ああ、あたしはこの声が欲しい。
いいや、違う? この声と、混ざりたい。
『ライラ、あげる』
この少女の何かを、閉じ込めてしまいたい。
ライラは夜空を見上げる。
夜空には、月が輝いている。
―――そう、こんな風に。
あたしの夜の中に……。
『閉じ込めて』
「ダイアナ」
『ダイアナ?』
「あたしの、お月様」
儚さとは裏腹に、少女はニッと笑んだ。
『ダイアナ』
そう呟いて、すとんと糸が切れた様に、少女がその場に倒れた。
「え? ……ちょっと!」
慌てて彼女の傍に駆け寄って、触れる。
その時。
「!?」
身体の内側から、何かが強い力をもって飛び出した。
それはドン、という衝撃だった。
持って行かれた、とライラは思った。
取り返えそうとしたのか、自分でも分からない。
彼女は衝撃が向かった背後を見た。
そこには、小さな狼が四本足で立っていた。
* * * * * * * *
静かに聞いているアシュレイに、ライラは手で額を覆いながら微笑んだ。
「ゴメン、滅茶苦茶だよね。あたしもあまり良く分かっていないんだ」
記憶を声に出して話してみると、ライラはこの話が如何におかしいかを痛感した。こんな話、狂気の沙汰だ。
あたしの頭はあの時、絶対に狂っちゃっていた。
あの酷いお仕置きをされて、頭がどうかしちゃっていたのかも。
「それで、ダイアナは目を覚ましたんだよね? その後の様子は?」
話している内に若干取り乱し始めたライラに、アシュレイの落ち着いた声が沁みた。
大丈夫だよ、ライラ。
そう言われている気がして、ライラは気を取り直す。
「それがね、全く記憶を無くしていたの。役所に行こうとしたけれど……モスクと併設しているでしょう?」
「そうだね」
ライラはダイアナをモスクへ連れて行くのを恐れた。
だって、あんなに不思議な事の後だったから。
「……あたしは、しょうがないから『六角塔』へ連れて行ったの。ダイアナは美人だったから、身寄りが無いと判ればマスターは絶対に店の踊り子として養ってくれると思って」
それがダイアナにとって幸か不幸か分からない。
でも、充ても無く喰いっぱぐれるよりマシでしょう? とライラは付け加えた。
「でも、本当は……離れたくなかったんだ」
「得体の知れないダイアナと?」
「見つけたって言ったの」
「うん??」
「あたしを、見つけたって」
「ふん?」
ピンと来ていないアシュレイに、ライラはもどかしさを感じた。
「わ、分からないかな……あたしを、見つけてくれたの」
「……ライラ、君……」
「い、言わないで。それから、理解もしてくれなくていい」
アシュレイは少し苦しそうな顔で頷いた。
ライラは恥ずかしさに、こんな話をしたのを後悔した。
「……いいよ。それで? ダイアナは記憶を無くして君と『六角塔』で楽しい毎日を過ごしていた。……それを疑問に思わず?」
「そう。性格も、あの時の娘とはキレイさっぱり全然違っているみたいだった。それから、歌が凄く下手だったの」
ライラはつい思い出して、唇の端を上げる。
どうして? あんなに素敵な声を持っていたのに、と、ライラは焦れてダイアナに言った事がある。
『あんたの声は、アヒルみたいね』
その後、ダイアナは本気で怒って、あたしたちは喧嘩をした。
知らんぷりとか、そんなもんじゃない。
取っ組み合いの大喧嘩。
ネェさま達が面白がって囃したっけ。
ダイアナは、あたしが『六角塔』に来たばかりの頃と同じ軌跡を辿る様に、ごく普通に『六角塔』やライラに馴染んでいった。
ライラはあまりにも自然な流れに、あの不思議な夜の事をたまに忘れそうになる。
でも、そう出来ないのは……。
「その時、ライラからドンって出て来たのが、ハミエル?」
ライラは頷いた。
ハミエルがどんな反応をするかしら、と彼を見ると、大していつもと変わらない様子で、ライラを見返して口をぺろりとした。
「にんげんのことばなんか、わかんね」と言った風に。
嘘ばっかり。ライラはそう思ってハミエルの背を撫でた。
そうして、アシュレイを見る。
彼はハミエルに視線を落としている。
ランプの橙色に照らされた顔は、穏やかで静かだ。でも、少し厳しい。
これは、仕事(封魔師)の顔だ、とライラは思った。
ライラも、ステージでする顔と日常の顔を使い分けているから、なんとなく判る。
アシュレイは、森でパリゼットを封魔した時も、こんな顔だったのだろうか。
沈黙が怖かった。
アシュレイ、早くあたしに「大丈夫」って呑気な顔をして。
* * * * * * * *
強がっているのはわかっていた。
恥ずかしがる事なんてないのに。
酒場で君は「見つけて」って歌ってたね。
想像以上に寂しがりやだった君が
もうこれ以上、何か危険なものに
「見つかった」りしない様に
僕が傍にいてあげる。
そう思ったんだけど。
……問題は、それを君が許してくれるかって事。