違い
四角い空は、今日も灰色。
彼女が見上げる様になるずっと前から、それは決まっている。
だから、彼女は広く青い空というものをあまり見た事が無い。
彼女は四角く間取られた殺風景な中庭で小さく息を吐く。
さらりと伸びた黒髪が美しく、小作りで整った顔は虚弱そうで、風に吹かれたらふらふらと飛んで行ってしまいそうな程頼りない。
そっと設けられた美しい女神像の翼に綺麗な白い手を添えて、寂しげな瞳を伏せていると、視界に入れていたハーブの郡にサッと影が走った。
彼女はそれを見とめるとパッと顔を輝かせて、空を見上げる。
「よぅ、相変わらず辛気臭ぇな」
そう言って四角の空からひゅんと飛んで来たのは、銀色の小さな狼だった。
彼女は驚きもせず微笑んで、狼が傍に着地するのを待った。
「ハティ」
小さな狼が地面に四本足を付けると、彼女は屈んでその背を撫でた。
「くすぐったい」
「ハティ、会いたかった」
身をよじる狼に、彼女は縋る様に抱き着くと、ほっとした様に表情を緩めた。狼は狼のくせに仏頂面めいた表情をして、ふわりと黒く発光すると子供の姿になった。銀の髪の、十二前後の綺麗な男の子だ。
濃くて冷たい鉛色の瞳は大きく、だが、目尻はとても鋭い。
―――でも、彼女はその瞳を綺麗だと思う。
化けきれないのか、頭からはにゅっと大きな狼の耳が突き出ている。
―――でも、彼女はこれが可愛いと思う。
両手両足も人間の手にしては野蛮そうな造りで、爪が黒く鋭い。
―――でも、彼女はこの両手が世界で一番優しいと思う。
その不思議に恐れるでも無く、彼女は彼の回してくれた両腕の中で微笑み、それからじわりと泣き出した。
「会いたかった」
「ディアナ、どうしたの?」
ハティと呼ばれた少年は、頭から飛び出している大きな耳をシュンと伏せて彼女を覗き込んだ。
「ほら、耳触ってもいいぜ。どうしたんだよ」
彼女は鼻を啜って、目に涙を一杯溜めながら、ハティの耳…頭の上のやつ…に手を伸ばす。
「くすぐったいから、ちょっとだぞ」
ハティの警告に吹き出して、彼女は彼の耳…頭の上のやつ…にそっと触れた。見た目以上に柔らかくないけれど、彼女はこの耳に触れるのが好きだ。外側は暖かいのに、内側は冷たい。いつもは嫌がられるのだけれど、今日は自分の為に許してくれたと思うと心が和んだ。
「ん~、ん~、はいお終い。もうムリ」
「もう少し」
「ダメ」
サッと彼女からハティが離れて、地面に座った。その隣をポンポンと叩いて「なんで泣いてたか言って」と言うので、彼女は未練がましく彼の耳…頭の上のやつ…を見つつ、彼の隣に座った。
「ハティ、セイレーンは見つかった?」
「いんや。今はディアナの話だろ」
「……明日は満月でしょう? また、罪の無い歌子が集められるの」
「……」
「わたくし、厭なの。でも、レイヴィンが止めてくれない」
近くの草をちぎってそれを聞いていたハティは、フンと鼻を鳴らした。
「アイツよりディアナの方が偉いだろ? なんで止められない?」
「わからないの……。あの人に止めて欲しいと言うのだけれど、あの人は止まってくれないの。笑って『大丈夫ですよ』って言われると、わたくしは頷いてしまうの」
ハティは鋭く横眼で彼女を盗み見て、顔を歪めた。
「ディアナは弱い」
彼女は素直に頷いて、またぞろ泣き出した。
ハティはそうなると弱ってしまって、また耳を伏せると彼女の肩をおずおずと抱いた。初めてそうした時は、彼の片腕にすっぽりと収まっていた彼女はもういない。背丈も座高も、いつしか彼女の方が少しだけ高くなっていた。ハティはちょっと寂しい気持ちで、それでも彼女の肩を抱く腕に力を込めた。
「ディアナ。俺セイレーンを見つけるよ。そうすれば、ディアナの厭な事は終わるだろう?」
肩を震わす彼女にそう言ってから、ハティは言葉を続けられない。
……でも、そうしたらまた、あんたたちは苦しむのだろう。
* * * * * * * *
ライラはハミエルに鼻先で顔をふんふんされて目を覚ました。
ぼんやりと部屋を見渡して、自分の部屋じゃない事に気付き、慌てて昨日の出来事を思い出す。
窓の外を見るともう日は登っていて、爽やかに明るい光で満たされていた。
「ね、寝過ぎちゃった?」
ライラは慌てて跳ね起きると、手で髪を撫でつけながら部屋を出た。隣のアシュレイの部屋はドアが開いていて、既に整えられた後で彼の姿は無かった。
嘘……。まさか、置いて行かれたりしてないわよね?
少しだけ不安になって、ライラは宿の待合室へ急いだ。
女将さんが彼女を見つけて、微笑みながら朝の挨拶をくれた。
「おはよう、女将さん。ねぇ、連れを知らない?」
「旦那様なら、朝早くに市場へ向かわれましたよ」
「市場?」
ああ、そうか。馬を手に入れに行ったんだ、とライラは安堵した。
でも、馬なんてこんな小さな村に売っているかしら?
ライラは女将に市場の方角を聞いてから宿を出た。朝食は? と聞かれたので、包んでもらう様にお願いをする。女将は快く頷いてくれた。
小さな村ながら、市場は賑わっていた。朝食時なので、そこかしこで食べ物の屋台が並んで、美味しそうな匂いを振りまいている。ハミエルがソーセージを焼いている屋台の前を通る時にライラの顔を見上げ、くぅ、とないた。
「我慢だよ、ハミエル。財布はどこに行ったのかしら?」
色々な種類の野菜を入れた籠を並べる店や、布地を並べた店を興味深げに眺めながら、ライラはキョロキョロして辺りを見渡した。
見た所、家畜を売っている様子の店は無い。ぐるりと市場を回り終わっても、アシュレイは見つからなかった。
「困っちゃったな……」
宿に一度戻る? それとも、もう一周してみようか?
ライラが立ち止っていると、「お嬢さん」と脇から声が掛かった。
見ると、これから店開きをするのか、ゴザを敷きながら、頭にターバンを被った初老の男がこちらを見てニコニコしている。
「今から店開きなんだ。見て行ってよ」
そう言いながら、ゴザの上に黒い布を広げ、綺麗なスカーフやアクセサリーを並べ出す。
ライラは興味を引かれ、商売人の店開きを傍にしゃがみ込んで見守った。
「まだ朝だからね、こんなものは皆必要じゃないかも知れないけどね。オジサン何だか今朝は早起きしたからサ。でも、お嬢さんに会えて良かった」
そう言ってニコニコしている商売人に、ライラは愛想よく微笑み返した。気分よく売り物を見たかったから、無一文なのは黙っている。
無一文には、品物も見せてくれないでしょうからね。
そう思って、商売人の準備を見ていると、見覚えのあるネックレスがそっと黒い布の上に置かれた。ダイアナが「最後の一つ」と言われて買ったネックレスだった。
ネックレスを着けて、おどけて笑ったダイアナの顔が浮かんだ。
こんな事している場合じゃなかった、とライラはハッとして
「ゴメンね、オジサン、あたし行かなきゃ」
「え、もうかい?まだ全部出してないよ」
「うん、いいの。ありがとう」
立ち上がりかけると、誰かがひょいと横に身を屈めた。見上げれば、アシュレイが呑気そうに「おはよう~」と微笑んだ。
「もう見ないの?」
「アシュレイ、どこにいたの?」
「村長さんの所だよ」
「? 馬は?」
訳が分からない。アシュレイは馬を買いに行ったんじゃないの?
村長の所へどうして行ったりしたの?サッパリ分からない。
「村長の馬を見に行ったんですか?旦那」
商売人が口を挟んだ。アシュレイが、今ようやく彼に気が付いたという風に目をそちらへ向けて、頷いた。心なしか面倒臭そうだ。
素直と言うか、なんと言うか、良くないと思う。と、自分を棚に上げてライラは思った。
「そうですよ」
「村長は自分ところの馬を、そりゃいつも自慢しているんでサ」
「ええ。噂を聞いたので、お邪魔して来ました」
「良い馬だったでしょう?」
アシュレイはのほほんと微笑んだ。
「ええ。そりゃもう。二人乗って走っても大丈夫そうな」
商売人顔負けににっこり笑うアシュレイに、商売人は今まで顔におもむろに見せていた隙を、温和な表情はそのままにスッと隠した。
「旦那、好奇心で聞いていいですか」
「イヤ、急いでるんだ」
素っ気なくアシュレイが立ち上がった。
「ライラ。欲しい物が無いなら、行こう。馬は宿にいるよ。茶色くて、大きくて、カッコイイんだ」
* * * * * * * *
宿に戻ると、アシュレイの言う通り馬がいた。アシュレイの髪と同じような濃い茶色の馬で、大きくつやつやしていた。
ライラは感嘆の声を上げて馬に駆け寄った。
馬はライラに鼻先を撫でられると、ぶるる、と嘶いた。
「アシュレイ、どうやって手に入れたの?」
アシュレイは馬の鞍の調子を見ながら、「村長さんと交換したんだ」と言った。
「交換?何と?」
「そりゃ、もっと良い馬さ」
そう言ってから、「よしよし、お前も良い馬だぜ」と馬の機嫌を取った。
「もっと良い馬って……」
一体どこに?ますます意味不明だ。一体アシュレイは何をしたのだろう。ちょっと不安になってくる。まさかペテンを働いてないだろうか?
「僕んちで飼ってるやつさ。さぁ、ライラ。馬に乗るのは初めて?」
「う、うん……」
「ここに足を掛けて」
疑問は残ったが、アシュレイはそれ以上話す気は無さそうだった。
想像以上に高い馬の背に、アシュレイに支えて貰いながら何とか乗ると、馬の足元でハミエルがクンと鳴いた。
「ハミエルは、荷物の袋に入ってくれるかな」
アシュレイの言葉にハミエルは「ありえん」と言う様にグルル、と唸った。
「しょうがないだろ。君が小さくて良かった」
そう言ってアシュレイが「おいで~」と舌を鳴らした。思い切り腰が引けていたが、そろりとハミエルに両腕を広げ、ジリジリ近寄る様はなかなか情けなかった。
ハミエルは鼻に深い皺を刻みながらもライラに「ハミエル」と言われると、黙ってアシュレイに抱かれた。顔が「すげぇいや」と言っていた。ハミエルは表情豊かな狼なのだ。
「ハミエル。荷物と一緒だからな。オシッコの時は教えるんだぞ。今しとくか?」
止めておけばいいのに、アシュレイが調子に乗ってハミエルを自分の顔の高さまで上げていったので、いよいよハミエルの毛並みが逆立ち「かみころしてやる」とばかりに唸って「カーッ」と牙を剥いた。アシュレイは「ひえぇ」と言って投げる様に荷物の袋にハミエルを突っ込んだ。
「ちょっと、乱暴にしないで」
「ど、どっちが。ホント、躾した方がいいよ」
そう言いながら馬にひらりと乗って、手綱を手にする。馬がちょっと揺れて、ライラは慌ててアシュレイの背に捕まった。
『六角塔』のステージに登るのにあんなに苦労していた人と、同じとは思えない身のこなしだった。ライラがそう言うと、
「ステージと馬じゃ勝手が違うよ。酔ってたしね」
とアシュレイは笑うと、腹の辺りにあるライラの腕にポンと触れた。
「ねぇ、もっと強く捕まってね」
「分かった」
ライラが言われた通りに彼の背にしがみ付いた。「えへへ」だか「げへへ」だかに聞こえる笑い声を上げて「もっと強くだよ~」と言うアシュレイに、ライラはパッと身体を離す。
「変態!」
「行くよ」
「うわっちょっと、急に動かないで」
アシュレイが手綱を操って、馬を動かしたので、ライラは慌てて再び彼にしがみ付いた。地面は遥か下の様な気がする程遠い。怖い。
アシュレイがちょっと振り返って笑った。
「大丈夫だよ、ライラ。捕まっててね」
* * * * * * * * *
ダイアナ。早く会いたい。
アシュレイは、凄く変な人だよ。
でも、「大丈夫」ってあたしに言ってくれるの。
そうすると、本当に大丈夫な気がして来るんだ。
ダイアナ! 早くあたしに「バカねぇ」って笑って。