皇女様とお嬢様と……③
ダイアナは、ライラの歌声を聴きながら目を開けた。
ライラは暖かそうな暖炉の前の絨毯の上に座り、ハミエルを膝に乗せ歌を聴かせている。
ライラのすぐ傍、暖炉と向き合って置かれた古いソファには、アシュレイが寝転んでた。彼は、気持ち良さそうにうつらうつらしながら、ライラを優しい目で見つめている。
当のダイアナは、彼らのすぐそばにポカンと立っている。それなのに、ライラたちは全然彼女の存在に気づいていない様子だった。
「え、え、なにこれ?」
確か、皇女様と追いかけっこをしていて捕まって……。
その後、急に視界がパチパチ光りながら歪んで、一瞬意識がなくなって、ライラの歌が聴こえたから目を開けたら、こうだ。
「ライラ? ねえ、ライラったら」
近寄って呼びかけても、ライラたちは反応しない。触れようとすると、手がスカッと身体をすり抜けてしまった。
「えええ、やだやだ、なんなの?」
幽霊にでもなった気持ちでオロオロしていると、スカートをクイクイと引かれた。
振り返れば、自分によく似たレイリンくらいの女の子が、こちらを見上げている。
「あ、あんたは、私の事見える?」
というか、ダレ?
不気味だったが、話しかけられる相手はこの女の子しかいなさそうだ。
女の子はコクンと頷くと、「あなたが見えるわ。ダイアナ」と、名前を呼んできた。
「なんで私の名前知っているの? あんたはダレ?」
「私は、あなた」
「ああ……夢か……」
ダイアナは目を閉じた。
ライラがアシュレイと合流して、幸せそうにしている夢を見ているんだ。
暖炉にぬくぬくあたり、優しく見つめられたりして、こんな風にライラが幸せに暮らせるといいなって、私は願っているから。
再び薄目を開けてみる。
けれど、相変わらずライラは暖炉にあたって歌っているし、アシュレイときたらとうとう眠り始めていた。
そして、女の子もダイアナのスカートの裾をつまんでいる。
「あのね、せっかく人間をしていたのだけど、カナロール皇女の中に入ってしまったから、それが暴かれてしまっているの」
「ふ、ふぅん…?」
「わからないわよね、ダイアナ。そのままで良いと思っていたのに。そのまま一生を終えればどれだけ良かったか。けれど、あなたはここまで辿り着いてしまった。多分もう逃れられない」
「……変な夢」
ダイアナが呟くと、女の子は「ふふ」と笑った。
「そうね」
「いつ覚めるかな」
「愛情が冷めたら、そうなるかしらね」
ダイアナはカインの顔を思い浮かべる。北の地では、ちゃんと厚着をしているかしら?
「しばらく冷めそうにないよ」
「そうね。愛すれば愛する程湧きたって、応える、ああ……海、空、風、数多に実る大地……」
ダイアナは肩を竦めた。
変な子。夢だから仕方がないか。
女の子は熱に熱に浮かれされたように、未だ囁いている。とても愛しそうに。
「地を駆ける獣たち、水を往く魚たち……」
「……カモメ」
思わずポツンと呟くと、女の子が碧い瞳を輝かせた。
「空と海両方と仲良しの器用な鳥」
「……波」
「打ち寄せる度、大陸の物語を交換する」
「砂浜」
「ああ……大好きよ。届く物語の、優しい受け皿」
「海岸線」
「線で表わされた性格、海の自己紹介」
「灯台」
「目に見えるものしか信じられない、人間たちのあどけない灯」
驚いた。自分の中に「物語」とか「海が自己紹介」とか、そんな考えがあるとは。
これは夢は夢でも、お告げめいた夢なのかもしれない。と、ダイアナは不思議がった。
「……」
「潮風?」
ダイアナが黙ると、女の子が聞いてきた。何か答えるべきだろうかと考えて、頭の中で知っている詩をひっかき回した。
「こ、心を届けるとか?」
女の子の唇の間から歯をちょっとだけ見せて、笑った。
「そうね。あ、」
女の子が天井を見上げる。
ダイアナもつられて天井を見上げた。そこは室内だというのに、黒い星空が渦巻いていた。
ゆっくりと渦巻く琥珀色の星々から、ディアナ皇女の声が聴こえて来る。
『ダイアナ、出て来て』
女の子がふわりと浮き上がって、ダイアナの方を見た。
「行かなきゃ」
「目が覚めるんだね」
ダイアナは女の子と一緒に自分も浮き上がれるのだとばかり思って、飛び跳ねてみた。
思惑通りふわりと浮かぶ。けれど、どんどん上昇していく女の子に追いつけない。
「ダイアナ、こっちよ」
「ま、待って。それ以上いけない。引っ張ってよ」
女の子が戻って来て、ダイアナの腕を引く。けれど、いざ渦の中へ入ると女の子の姿は消え、ダイアナだけ渦を突き抜け、ライラたちがいる家の屋根の上へ出てしまった。
「え」
月夜に浮かぶ、見慣れない村の雪景色に、しばしぼんやりとして辺りを見渡す。
辺りは静まり返っている。
*
ディアナは人払いをした自室で、小さくなって頭を抱えていた。
ダイアナを捕まえた時の感覚、あれは封魔だった。
多分、抱き着いたからだ。捕まえようとして触れたのもいけなかった、と、思い至って頭を抱える。
「なんて事を……それよりも、どうしてダイアナが?」
心臓が激しく鼓動して、自問自答を止めなくては、と強く予感する。
けれど、もう答えが分かりかけてしまって考える事を止められない。
「セイレーンの矢……」
レイヴィンが今、カナロールを離れていて本当に良かった。
「とにかく、話をしなければ。してくれるかしら」
ディアナは両こぶしを抱いて、大丈夫、と、呟く。
「もう封魔したのだから、答えさせるわ……」
そう言って、ディアナはダイアナを呼ぶ。召喚という形でいいのか迷いつつ、いつも封魔した妖魔たちを呼び出す時の様にした。
「ダイアナ、出て来て」
見つめれば封魔出来る。思うだけで召喚できる。そんなディアナだったが、ちゃんと封魔師の印がある。彼女の印は、代々伝わる円形で、右手に宿っている。どうやらダイアナは、名高い妖魔同様、きちんと印を使わなければ応えてくれない様子だったので、右手の印に集中した。
琥珀に光る手のひらの印に、再びディアナは呼びかける。
「ダイアナ、出て来て」
すると、金色の髪の女の子がふわりとディアナの正面に現れた。
ディアナは瞬きをして、女の子を見つめた。ダイアナをレイリンくらいの齢に戻したら、きっとこの子の様だろう。彼女の妖魔に触れる勘が、ダイアナだけど、ダイアナではない、と、女の子を見抜いた。
「ああ、ダイアナ……あなた……」
「ごめんなさい。私は、ダイアナではないです」
ディアナは頷き、涙を零す。足が震えて、立っていられない。ディアナには分かる。こんな時だけ、カナロールの皇女だ。
「……セイレーン?」
「ええ」
「ああ!」
膝から頽れて、ディアナは床に手をつきうずくまる。
存在していて欲しくなかった。人間などの手の届かないところにいて欲しかった。きっとそうだと思っていた。いつかレイヴィンは諦めて、自分はその頃にはもう少しマシになっていて―――そう思っていた。しかし、今、対峙してしまった。ハティがずっと探していたのに。妖魔たちの全てなのに。人間の自分が、いとも容易く手中に入れてしまった。
もしもこの事が、レイヴィンに知れたら?
きっと悪用する。そしてわたくしは逆らえない―――国の為だから。
嫌だ。人間の一国すら、こんなに重たく恐ろしいのに、世界中の妖魔たちまで背負えない。
ああ、なんて事だろう。どうしてわたくしなの?
お父様が生きている時ではいけなかったの?
小さな嗚咽が、部屋に空しく響いた。
女の子はユラユラと金の髪を揺らめかせて、ディアナの前に膝をつくと、彼女を撫でた。
「泣かないで、カナロールの皇女」
「あの時せっかく逃げられたのに、どうして戻って来たのかと、不思議だったのです。わたくし共の<セイレーンの矢>のせいで、お仕事に困ってしまったのだと思ったの……けれど、違ったのですね!?」
「ダイアナがどうしてここへやって来たのかは、もっと別な理由でしょう。ダイアナは何も知らなかったの。許して」
「……何を成しにいらっしゃったのです?」
「何も」
なにも?
と、ディアナは泣き顔で首を傾げた。
「わたしは転生せずに人から生まれたものだから、まだ未完成なの。実体はあれど、ほとんど声だけの存在なの」
「何を仰っているの?」
「生まれ方が必要な魔力に適していないの。もう少し時間がいるの。せめて人の一生分くらいの。それで、人間として生きるのはどんなのかしらって、少し憧れていたから人間を選んだのよ」
ディアナは頬に幾筋も涙を流し、女の子を見上げた。女の子の瞳は碧い。ダイアナと同じだ。
頭の中が混乱して、何も聞こえない。どうして自分はいつもこうなのだろうと、唇を震わせた。
けれど、ちゃんとしなくては。ちゃんと理解して、判断しなければ。今この時は一生に一度あるかないかの大事な時に違いないのだから。
「魔力がないから……隠れていたのですか?」
「そういう訳じゃないわ。ただ、時満るまで、人間として生きてみたかったの」
「どうして!」
ディアナは立ち上がり、声を荒げた。
「どうして? ハティは……妖魔たちはあなたを必死で探しているのですよ」
「皆へ、与えられる魔力がないの」
「それでも、姿を見せてあげるべきだわ! 彼らがどれだけ安心するか……」
ディアナの言葉に、女の子は悲しそうな顔をして笑った。
「あなたと一緒よ」
「!」
まだ力がないから。誰にも何かを与えられないから。既にこの世にいない王の影に隠れて、か弱い女の子の様に―――。
絶句して、唇を噛む。きりりと強く噛んだけれど、裂けるほどは怖くて噛めない。感情に任せて自傷する度胸すらない。
「あ、あなたはセイレーンです」
「あなたもカナロール皇女よ」
「わたくしは……」
「いいの。お願い。私たちをそっとしておいてくれないかしら」
「……あ」
どうしたらいいのだろう?
そうしてあげたい。出来ればハティに報せて―――否、それはそっとしておく事にならない?
そうしたらいけない。セイレーンを手中に置けば、セイレーン狩りは終わる―――そして次は何が狩られる?
他にも……他にも何かある?
どうしたら、どうしたら皆が?
「そっとしておく」とは?
誰か、わたくしの事もそっとしておいて……。
ディアナが黒目をうろうろさせていると、「駄目です」と、強い声が割って入った。
小さく開けたドアの隙間を猫の様にすり抜けて、レイリンが厳しい顔で女の子を見ていた。
「レイリン!」
「申し訳ございません皇女様。ダイアナさんの事をお話したくてコッソリお尋ねしたのです……皇女様、セイレーンを絶対に自由にさせてはいけません。もう、セイレーンの審判など行わなくて済む様に」
ずいずいと部屋を横断し、レイリンはディアナと女の子の間に割って入った。こんなにも強気なのは、元々の性質もあるけれど、ディアナ皇女が既に封魔をしているのを知っているのだろう。かなり初めの方から話を聞いていた様子だ。ディアナはそっと自身の妖魔を召喚して、このような事が無いようにドアの前に見張りを置いた。
「ダイアナさんも、返していただかなくては!」
セイレーンなんてまっぴらだ、と、レイリンは怒っている。
初めはライラを奪われた。そしてそのまま会えなくなった。
次はダイアナ。うんざりだ。きっと、ダイアナに憑りつくなどして図々しくも城へ上がり込もうとしていたのだろう。女に化けて歌子として歌っているより質が悪い!
しかし、鼻息荒いレイリンへ、女の子は静かに言った。
「返してもらいたいのは、私の方よ」
「なんですって?」
「カナロール皇女、あなたの封魔に、ダイアナは絡まってしまって出て来られない」
「なんですって!?」
「この子、うるさいわ」
「なんですって!!」
「レイリン……あの、落ち着いてください」
ぎゅむーっと顔をしかめて、レイリンは顔を伏せ、しずしずと一歩下がった。
代わりに、ディアナが話し出す。ダイアナの危機に、何か切り替わった様子だ。ディアナはやれば出来る子。目前の、自分に出来そうな事くらいには、立ち向かえる……のかも知れない。
「ダイアナをどのように解放すればいいのか、わかりません。人を封魔した事がないので」
「私を解放して」
「……そうすれば、ダイアナを元の場所へ戻せるのでしょうか?」
「試してみないとわからない」
レイリンが毛を逆立ててまた口を挟んだ。
「皇女様、逃げるための口上ですわ。ダイアナさんをそのままにして、自分だけ逃げるかもしれない!」
「……」
ディアナが考えていると、女の子が急に窓から飛び出そうとした。飛ぶ気だ、と、ディアナは瞬時に察して、再び封魔する事を決めた。
「ほ、ほらごらんなさい! やっぱり!!」
「レイリン、静かにしてください」
ディアナは初めて、妖魔相手に余裕を失くした。
封魔している僕だというのに、全く制御が効かないのだ。
見えない鎖を引きちぎる様にして、女の子は窓の外へと飛んで行く。
「どうして!?」
ディアナもこれまた初めて床に踏ん張って、引き留めようとした。レイリンは多分無意味なのだが、ディアナの腰に両腕を回して一緒に踏ん張った。
女の子の身体が、再び繋ぎ止められて宙にピタリと止まる。
「戻って……ください……っ」
「いいえ。あなたは頼りにならない。迷ってばかり。わたしは待っていられない。人間の一生は一瞬だから」
正直な言葉をぶつけられ、ディアナは苦い顔をする。
「……迷うに決まってるではありませんか……!!」
右手の平から琥珀の光が迸り、足元で風が渦巻き始めた。レイリンはドレスのスカートを押さえ、家具は揺れてガタガタと鳴る。
「皆、わたくしに決めさせようとして―――! わたくしが間違ったらどうするのです?」
女の子を徐々に引き戻しながら、歯を食いしばる。
しかし、女の子は突然想像もつかない力でディアナの力を押し込め始めた。
「お願い、行かせて。ダイアナは私の夢なの」
次の瞬間、ディアナは言葉も出なかった。封魔した筈なのに。自分の僕である筈なのに。女の子はディアナの力を唖然とさせられる程の力で断ち切って、矢の様に飛んで行ってしまった。
* * * * *
どこらへんが、魔力が足りない、と?
わたくしは、封魔を破られた初めての王族として後世の笑いものになるでしょう。
それとも、後世など、無いのかもしれない。
カナロールの皇女が。封魔師を統べる者が。
封魔を……。
これは、夢?
夢とはなに?