氷の膜の上
ダイアナもカインも、早朝に目が覚めた。
二人は、どちらからともなく無言で起き上がり、寝ぐせのついた髪のまま腫れぼったい顔を見合わせた。
「で? 私は裏口から出ていけばいい?」
「いや、住むところと働き口くらいは世話させてくれ」
ふむ、と、ダイアナは腕を組む。
そのくらい甘えたって罰は当たらないだろう。そもそも、ダイアナをカナロールへ連れて来たのはカインなのだし。
ダイアナは自分からライラの為に立候補した事を棚に上げて、そう思った。
「あんまり難しい事は出来ないよ」
「わかっている。時間が無いので悪いが、二つ返事でお前を受け入れてくれそうな口は二択だ」
「決めやすいわ」
何処だって構わなかったダイアナは、胡坐をかいてあくびをした。
カインはベッドから小さな机へと移り、机の腹に一つしかない引き出しから紙とペンを出す。
机を置くからには、と、部屋をセットした者が用意した物だったが、彼女はちっとも使わなかったので紙もペンもまっさらだ。
「一つはカナロールのレストランの給仕だ」
「レストラン? 私、テーブルマナーとか分からないけど……」
カインは軽く首を振って、微かに笑った。
「そんなに気取った所ではない。学生が通う大食堂だ」
彼の微笑に少し興味をそそられて、ダイアナは詮索した。
「あなたも通っていた?」
「ああ」
それを聞いて、俄然興味が湧いたけれど、すぐに未練たらしいなとも思った。そして、いずれ悲しくなるのは目に見えている気がする。
「見慣れない女がフラッと現れたら、目立つでしょうね」
「お前の踊っていた田舎町と一緒にするな。ここは王都だ。人の出入りなぞ監視し切れん」
「ふん、なんだよその言い方。もう一つは?」
「お前の住んでいた町の二つ先の村に、老夫婦の営む農園がある。年だから、葡萄を踏めなくなってきたとぼやいていた」
「……」
ダイアナは「うーん」と考え込む。
カナロールにいたら、いちいちカインを思い出してしまうかもしれないと思うと、少し大変そうだが葡萄を踏んでいた方がいいかも知れない。胸に渦巻く強い感情に任せて葡萄を踏んだら、気が晴れそうだ。六角塔のある町と、そう遠くはなさそうだし嫌だったら町に戻るのもアリかも。
一体どうしてまた六角塔なんかに、と、ライラに言われそうだけれど、ダイアナは色々なことがどうでも良くなっていた。今夜どこかで一人眠る時には、胸に穴が開きそうな程泣いてしまうだろう。そういう孤独や辛さを紛らわすには、六角塔は丁度よかった。
けれど、一瞬だけ六角塔での日々を思い返し、ライラの顔が脳裏に浮かぶとハッとした。
―――――そうだ私、ライラへ「自分はカナロールにいる」って、言づけをしてくれる様にアシュレイに頼んだっけ。
「どちらの店主とも知り合いだ。人手をいつも探しているし、一筆書けば良くしてくれるだろう」
考え込むダイアナの返事を促す様に、カインが言った。
ダイアナは顔を上げて、カインに答えた。
「私、ライラにカナロールにいるって言っちまったの。だから、レストランにする」
「そうか。では店主に一筆書くから、あんたは身支度を」
カインはダイアナの方を見ずに、紙にペンを走らせ始めた。
身支度と言われたって、与えられたものばかりで何をどう抱え込めばいいやら、と、ダイアナは途方に暮れる。
「持ち物なんてない」
「着るものや身の回りのものは何でも持っていけ」
「いいの?」
ああ、と、手紙に集中したいカインはぶっきら棒に答えた。
ダイアナは彼の邪魔をしない様に、静かに持っていけそうな物をまとめ、シーツに包んだ。
ふと顔を上げたカインが、それを見て声を立てて笑った。まだ遠くない過去、テントから逃げ出そうとするダイアナを見てそうしたように。
彼が笑ったのが嬉しくて、ダイアナも拗ねた様に笑う。
「だって、どうやって運ぶのよ」
「そうだな。トランクを用意する」
カインはそう言ったけれど、ダイアナは碧い目玉をクリッと回してちょっと考えた。
トランクのイメージが『ここから出ていく』という現実を生々しくダイアナに突き付けたし、荷を詰める度に重たい悲しみを詰め込む作業にもなりそうで、嫌だった。
「あのさ、お情けくれるなら、やっぱりお金でちょうだい」
ここを思い出すくらいなら、新生活には別の日用品の方が良い。
嫌悪を顔に浮かべるかな、と、少し心配したけれど、カインはただ真面目な顔で頷いた。その真面目な顔は、彼のただの天然なもので、ダイアナの心境を読み取った末のものではないけれど、ダイアナはホッとした。
「もちろん不自由ない金を持たそう。大食堂には住み込みで働ける様に手紙に書いたが、気に入らなければ金を元手に好きなところに住め」
「何から何までありがとう」
「俺との関わりは、店主以外には誰にも言わないように気を付けてほしい」
ダイアナは少し胸にグサリと来たけれど、それが彼の答えなのだと諦めた。
この人は、自分が夢のようだと感じていた数少ない夜を、同じように思ってくれていなかった、と。
「……うん。あなたの名誉を傷つけたりしないよ」
「そういうつもりで言ったのではない。あんたの方が面倒に巻き込まれると困るからだ」
「どういうこと?」
「俺にも敵はいる」
「……わかった」
カインから紹介の手紙を受け取って、あて名に書かれた文字を見る。
文字の事なんてダイアナにはわからないけれど、初めて見るカインの字は、線が少し細いものの、肉食の鳥が空を駆けているみたいで男らしいと思った。
* * * *
ふーん。あなたにも敵がいるの。別に意外じゃない。
私が多少は、あなたの弱みになると言うなら、少し困ったり心配するところが見てみたいけれど、もしかしたらしないかも知れないし、そもそも愛じゃないならお荷物になるのも心苦しい。
寝ても好きになってくれかった。さよならの手紙すら、送ろうと思いついてくれなかった。
自分宛じゃない手紙に並ぶあなたの文字が、好きすぎて辛い。
一文字だけいいのを紙から剥して、普段は服に隠れている身体の何処かに貼っておければ良いのに。




