あなたは僕の
穏やかな昼下がりが終わろうとしていた。波の音が優しかった。
カナロールらしい薄曇りの空は強い光を注ぎはしないので、目に溜まるものを必要以上に光らせたりしないだろう。
ライラは「おしまい」と言って草の上に寝転がったアシュレイへ、なんと言葉をかければ良いか分からなかった。
なんだか、今彼の顔を見るのは無遠慮な気がして、気まずい。
少しだけ沈黙が流れた後、硬直して座っていると、腿の辺りを膝でつつかれた。
「おしまいだってば」
「う、うん……大変だったね」
「そうだよ。僕に優しくして」
台無しな発言をするアシュレイに、ライラは動じなかった。
でも、ちょっと厭だ。試されているみたいで。
なんなんだろう、この人、と、思うのはもう何度目だろうか。
心臓の音を聴いて、深い話を聞いたはずなのに、まだ全然遠いように感じる。
「同情なんかいらないでしょ?」
「ライラがくれるものなら、なんだって欲しいよ」
言ってから自分で「ふふっ」と笑うので、ライラは「なによ」と思ったけれど、彼の話の感想を囁いた。
「……素敵なお母さんだったんだね」
「……うん」
アシュレイが起き上がった。柔らかそうな茶色の髪に草の香りを漂わせ、ライラの顔を覗き込んだ。
ライラはようやく彼を正面から見て、柔和そうな笑顔へ目を向ける。
そうだ、この柔和そうな微笑み。
あたしはこれを時たま、直視できない。
「僕は、凄く寂しくて、悲しかったんだ」
ほらだって、微笑みながらスラスラ言うから。
どうしても戸惑う。本心なのか、虚偽なのか。
本心なら泣いて心から苦しみを吐き出してくれればいいのに。
虚偽なら泣いて偽ってくれた方が、こっちだって騙されてあげるのに。
微笑むから。スラスラ言えちゃうから。
痛々しいのがわからないの?
「アンタって、ウナギみたい」
思わず口走って、手で口を塞ぐ。
明らかに意表を突かれた顔で、アシュレイがまごまご答えた。
「え……? えっと……ヌルヌル?」
「やだー、気持ち悪い……もうホント気持ち悪い……」
「僕は気持ち悪いウナギ……」
想像していた展開と違うと彼は大抵こうなるのだが、表情を固まらせて何度か瞬きをした。
へりくつの創造性はあれど、キャパは狭い方だ。
「悪く思わないで」
無理な事を言ってみる。
「う、うん……いや、どうかな……」
「ごめんってば。あのね、寂しかったとか悲しかったとかさ、いつかお母さんに言えると良いね」
「あ、ちゃんと聞いて無かったでしょ? だからウナギなんて出て来るんだ。お母……母さんは消えてしまったんだよ」
「またねって言ったんでしょ?」
アシュレイは困った子供を見るようにライラを見て、薄く笑った。
ライラは彼のその笑い方を見て、この話題に関しては、絶対にコイツを論破してやろう、と、決めた。
「でも消えてしまったんだよ」
「アンタは封魔師なのに、妖魔の不思議さを知らないの? 少しでもお母さんの事を調べなかったの?」
アシュレイが心を閉ざした表情になった。不思議と手に取る様に分かって、ライラは「ハッハッハ」と笑いだしてやりたい気分だ。
「誰が好き好んで傷口を抉りたいっての?」
「あきれた! お母さんとの事は、アンタの傷口じゃない。だって今さっきあたしに聞かせてくれたじゃない」
「君だから……」
「いーや! アンタは例え誰だろうと傷口なんて絶対に見せ無い! へそ曲がりのチキンだから、それはない! くだらない事言って無いで、アンタはお母さんを探すべき!!」
アシュレイの顔が、面白い位にひん曲がった。青くなったり赤くなったりした後に、彼はガックリと項垂れて声を絞り出す。
「なんで優しくしてくれないの……」
「うん、これは凄く不思議なんだけど、あたしはアンタに優しくしたくない。出会った時からずーーーっと、何故だかアンタには優しくしたくないのよ!」
「え、ええええ……!?」
彼の話の妖魔が愛した、茶色い瞳が大きく見開く。
ア―――。と、ライラも目を見開いた。
ついでに口も開いた。
「そう―――そう! アンタ、気持ち悪い! だっていっつもあたしに対して、子供みたいなんだもん! あたしはアンタの『お母さん』じゃないのに!!」
「あわわ……あわ、当たり前だろ!? 君は僕の性的対象……」
色々ショック過ぎてロクでも無い事を口走るアシュレイを、ライラは睨み付けた。
「アンタ……お母さんの特徴を言ってみなさいよ」
アシュレイは答えに行きつく前に厭な予感を察したのか、目を泳がせまくった。
「な、なんで? なんでかな!?」
「いいから!!」
「ぼ、僕達の間に、母さんの事はあまり関係が無い気がするんだ……へへ、へへへ?」
「は や く !!」
アシュレイの瞳に薄っすら涙が見えるのは、きっと気のせいだろう。
だって、母親を失った時の話の後だって、泣かなかったんだから!
「……夜空の様な、群青色の髪」
チラッとライラを見る。「こっち見るな」の表情で、ライラは顎をしゃくって先を促した。
「星降る瞳」
ちょっと挑戦的な言い方だったが、ライラは許さない。
「色は」
「……群青」
「ちょっと釣り目だったんじゃない?」
「……」
「ホラ、あたしの女の勘が、アンタに優しく応えたら駄目って言ってるんだ!」
お母さんだなんて、冗談じゃない!!
もう手遅れの縋る愛情と、発揮するタイミングを逃して満たされてない甘えと、恐らく自覚していない憧れ。そんなものをぶつけられたら潰れてしまう。だってライラはお母さんじゃない!!
アシュレイが吼えた。
「僕が甘えるのは君だけだ。母さんに甘えた事なんてない!」
なんかゾッとして、それから、ハッともう一つ悟る。甘えに関しては、やり慣れていないから加減が分かっていないんだ。ちょっとしたモンスターではないか。
「アンタはお母さんにしたかった事を、あたしにしてるんだ!」
「えええ……キッショ……そ、そんな訳ないだろ!?」
「自分でも気持ち悪いんじゃない!」
「君の想像の中の僕が気持ち悪いだけだよ! 共通点っつったって、髪と目だけじゃないか!」
哀れっぽい声を出して、アシュレイが立ち上がった。けれども直ぐにまた座った。
ライラの前から、離れる気は無いらしい。
「アンタ前に言ったじゃない。あたしの見た目が好みなんでしょ」
「ぐおぉ……ここでそれを……なんて執念深い子なんだ……」
ライラは溜め息を吐いて、頭を抱えるアシュレイの腕にそっと触れた。
まだ何か言われるのかと不安げな顔を向けるアシュレイに、ライラは囁いた。
「あたしが言った事、違うって証明して」
アシュレイがライラを見た。心底面倒臭そうだった。
面倒臭そうにされても、ライラはじっとアシュレイを見詰めた。
「……君は証明が好きだな……」
「あたしは、アンタがお母さんとまた会えるって証明してあげる」
アシュレイの瞳の中で、微かに光が揺れた。小さな子供の様な、あどけない雰囲気を一瞬纏って、アシュレイが首を傾げる。
「どうやって……?」
「女の勘が言ってる」
「……」
「探そう、アシュレイ。それでさ、お母さんを見つけたら言って。全然違うだろって」
* * * * * *
誰が子供かって、唯一じゃないと我慢ならないあたしが一番子供だね。
アンタが好き。
* * * * * *
ウナギ……気持ちの悪いウナギ……。
確かに君はお母さんなんかじゃない。
僕のお母さんは、僕をウナギに例えたりなんかしない。
そんな事もわからないなんて、君は凄く馬鹿だ。