叶った願いは誰のもの
誰だって、一度や二度は思った事があるんじゃないかな。
酷く叱られた夜や、思い描く自由を否定された時なんかさ。
僕にとっては生ぬるい例えだけれど、そういうの。
どうしてこんなに酷い状況なんだろう。
どうしてこの人がお母さんなんだろう。
僕の本当のお母さんはどこ?
なんて。
*
子供はアイリーンが初めて与えた食事を、促されて恐る恐る食べた後、全て吐いてしまった。突然の出来事と環境の変化と緊張で、そうなるのは無理も無かった。
アイリーンは、泣きながらえずく子供の背を撫で、えずきが納まった頃、彼女なりに作った薄いベッドへ、子供を横向きにして寝かせた。
子供は薄っすら目を開けて、アイリーンを見て囁いた。
「ごめんなさい」
空気の中へ消え入りそうな声だった。
アイリーンは首を傾げ、子供の柔らかな髪を指で梳いた。自分に五本の指がある事に、幸せを感じた。
『なにが?』
「もらったのに」
そう言って子供は再び、ごめんなさい、と謝った。
与えられたものを喜ばなかったり無駄にしてしまった時、母親からヒステリーを起されていたこの子供の日常を、アイリーンは知らない。そして恐らく、知ったとしても完全に理解出来ない。
どうして謝るのだろう、と、言う事すらアイリーンは気に掛けなかった。
『おしくありません』
「ごめんなさい」
『あすは、たべやすくします』
アイリーンはそう言って、柔らかい布を子供の身体にふわりと被せ、『煮る、潰す、細かくする……』で、頭の中をいっぱいにする。
夢中で明日の計画を立てていると、子供がぎこちなく身動きした。
『ねれない?』
「……う、うう……」
『かなしいのですね』
蹲って泣き出した子供を、アイリーンは抱き上げた。
子供は短く啜り上げると同時に身体を緊張させて、固まった。
アイリーンは子供を優しく揺する。
地獄の様な場面の中、最初にこの子を抱いたのはアイリーンだった。あの時よりも随分大きくなってしまったけれど、こうしたってまだ悪くないだろう。だって眠れずに泣いているのだから。
『みて、アシュレイ』
アイリーンが夜空に瞬く星々を指差し、ツ、と指先を動かすと、星の幾つかがその動きに従って動いて見せた。
『わかる? きたのそら』
目をぱちくりさせている子供の鼻の頭を優しく突き、子供の視線を捕まえながら再び星空を指差し、星を動かす。星はアイリーンの指先に操られ、何かの形を造って行く。
何かを描いているのは分かるけれど、ハッキリ言って歪過ぎて何かは分からない。
けれど、子供の心を惹きつける事は出来たみたいだった。
アイリーンの指先と、夜空に描かれる星の絵(?)を交互に見詰めていた。
アイリーンは夜空に星で謎の模様を描き終えると、ちょっと得意げに言った。
『さかな』
「……」
『きょうたべた』
絶対に魚に見えなかったけれど、子供はギクシャク微笑んで頷いて見せた。
アイリーンは彼の手を取ると、自分の人差し指に小さな人差し指を沿わせ、夜空へ指を向けさせた。
『おえかきしましょう』
「僕にも出来る?」
『もちろん』
アイリーンが夜空の瞳をキラキラさせて微笑むと、子供はおずおずと夜空へ向かって指先を這わせた。
そうして勝手が解らないなりに、子供は夜空に星屑で子犬の絵を描いた。
『じょうず』
「寝るときに、だっこするの……いつも」
『?』
子犬なんてあの忌々しい屋敷で飼っていたかしら? アイリーンが首を傾げると、子供が哀し気な吐息を漏らして囁いた。
「僕の、ぬいぐるみ……」
ぐす、と、子供はまたぞろ泣き出した。
「ロイ……ロイ……ロイがいないと寝れない」
お気に入りのモノだったらしい。『ロイ』が無いと、この子は安心して眠れないのだ。
アイリーンは彼の持ち物を、屋敷から何も持ち出して来なかったのを悔やんだ。
しかしアイリーンはあの屋敷を連想するモノを、この子の傍に置きたくなかった。偽りの母親からはほとんど無理矢理同意を得たけれど、この子の同意は得ていない。そんなものは必要ないと思っていたけれど、帰りたいと強く願われてしまったらと思うと、アイリーンは怖い。
だから自分との生活を楽しく、快適に思って貰わなければいけない、と、アイリーンは張り切る。
『あす、もってきます!』
「……ロイを?」
『はい』
「おうちに行くの?」
『……』
アイリーンが夜空を見上げ黙り込んだので、子供も気まずそうに黙った。何となく、『帰れない』『帰ってはいけないんだ』と、感じ取っているのだろう。
しばらく、二人共ぎこちない空気の中星空を見上げていると、アイリーンが静かな口調で言った。
『かえりたいですか』
「……僕、外に出て見たかったの」
『かえりたいですか』
「おうちでは、お薬でほとんど寝てて……」
『かえりたいですか』
「お母様は泣いたり怒ったりばかりで」
あの人は貴方のお母様じゃない! と、叫び出しそうになって、アイリーンはグッと堪えた。それを決めるのは、この子だけだ。
『かえりたいですか』
「帰りたいけど、帰りたくない。だって僕は、お外に出たいし、お薬で寝ていたくない。お母様に打たれたくない」
『……あす、ロイをもってきます。こんやだけ、あのロイとねましょう』
アイリーンは夜空に子供が描いた子犬を指差しそう言って、子供を再びベッドへ戻すと、頭を優しく撫でた。子供は、目の位置までかけ布に潜って、
「僕が眠ったら食べる?」
アイリーンは夜空の瞳を、ふ、と、細めた。
『もうねないと、たべます』
* * * * * * *
本当に帰りたいのか帰りたくないのか、僕には解らなかった。
とにかく貴女が怖かったし……ああ……でも、あの頃の僕は大概の事を怖がってたから、気にしないで。
僕、願っていたんだ。
いつか、本当のお母さんが僕を迎えに来てくれますように、なんて。
でも、なんか想像と違ったから、そう願ったのをポッカリ忘れちゃってた。
貴女は『かえりたいですか』と繰り返して僕に聞いた。
僕が選んで良いなんて、初めての事だった。
悲しみのカードを差し出して、僕に選択肢をくれた。
僕の願いは届いてた。
でも、そんな事認めたくなかった。
罪悪感に潰されてしまいそうで、とても怖かった。
母親を乗り換えるだなんて。
なんて事を願ってしまったんだろうって、僕は怖かったんだ。




