アイツを、殴りに行こうか
驚愕が体を縛る前に、キルトは動き出した。
ミコトが負けるなど微塵も思ってはいない。たとえ相手が強大な力を有するゴブリンロードでも、絶対の信頼を置けるくらいには彼女の実力を知っている。
だけど、キルトの内に眠っていた呪いは行動を起こした。ここでミコトを助けなければ、キルトはおそらく壊れてしまう。目の前の光景を認めたくない。ならばどうすれば良いかなど初めから決まっていた。
それがミコトに対しての侮辱だと理解していても、動かずにはいられない。おぞましき化け物が自分の中で怨嗟の声を吐いている。罪から逃れようと贖罪を繰り返す愚者を呪う声は、まさしくキルト自身のものだった。
この世界で忌むべき存在は自分だと下卑しているキルトを生かしているのは、過去に交わした約束。
ーー信じたいモノを信じて、守りたいモノを守り抜け。
その言葉に従い、アリスを守ってきたし彼女にまつわる悪意は退けてきた。これ以上、せめてアリスだけは間違った道に落とさない。
誰よりも偽善的で、傷だらけのくせに笑って誰かを守り続けた彼が残してくれた希望の光を濁らせるわけにはいかなかった。
だから、アリスを泣かせる事を認めるわけがない。憤怒と共に、目の前の光景を否定してみせる。これまで間違ってきたキルトだから、この間違っている状況を殴り飛ばし、守りたい存在を守る。
「クソッタレがァァァッ!」
死ぬわけにはいかない、だけどミコトを助ける。つまり、ゴブリンロードという醜悪な怪物を倒し、ミコトの命を助けて自分も生き残れば良いのだ。
ーー簡単な事じゃねぇか。
鼓舞するように心の中で呟いた。もう後戻りは出来ない。罪を拒絶して、決意までしてしまった。これで逃げられないぞ、臆病者。そう自分を叱咤して、強大な存在に向かっていった。
魔力が全身に迸る。停止しているゴブリンロードの懐にいるミコトに強烈な視線を送った。
「どけェェェ!」
その叫びを聞き取ったミコトは、棘を抜くようにすぐさまその場を退いた。
強化された蹴りがゴブリンロードの頭に当たった。進化をしていても、弱点が頭には変わりはない。僅かにダメージを与えられれば僥倖であると割り切った一撃は、ゴブリンロードの巨体を揺らすだけの結果に終わった。
その時にはミコトはで腹部を押さえながらも、構えを取る。ゴブリンロードから離れて、ミコトの横に立ったキルトは違和感に気付いた。
「おい、あれ死んでないか?」
ミコトと衝突した時、彼女の刃はゴブリンロードに届いていたのだ。その証拠に、未だ動こうとはせず完全に停止した態勢である。
しかし、キルトが抱いた違和感はゴブリンロードの体を蠢くように包んでいる魔力。明らかに、魔法は解除されていない。
「下手打っちまったなァ、ザマァねぇよ」
ゴブリンロードの足元に溜まった血液が、意思を持ったかのように動き始める。
「キルト、ちょっと魔力貸せ」
そう言って、了解も取らずミコトはキルトの肌に手を当てた。同時に、キルトはミコトに送り込むイメージで魔力を操作する。彼女もまた、そういう風に魔力を受け入れた。
その間にも血は、ゴブリンロードの体を伝い上っていく。
キルトから魔力を奪っていったミコトは、その分を腹部に流した。止血と、自己治癒の上昇。気休めでしかないが、これでしばらく死ぬ事はない。
「愉快な事しやがってよォ。ビックリしたぜ」
多分、キルトがいなくてもどうにかなっていただろう。キルトがした事は、状況を加速させただけに過ぎない。だからこそ、ミコトは何気ないようにキルトの横に立っている。
「どうするんだよ、ミコト。あれ、まだ何かするつもりだけどよ」
問い掛けに、歯を剥き出して笑う。
「決まってんじゃねェか。ぶっ殺してやる」
血は既にゴブリンロードの体を包み、硬化していた。鎧のような異形、頭からは四本の角が伸びそれと同じものが肩にもある。切断されたはずの箇所には血液で出来た右腕として再生され、初めて見たときよりも大きくなっていた。
この期に及んで逃げ回る無様は晒さないと決めたキルトでも戦慄を隠せない異形から迸る魔力は、先程までとは違い静かに渦を作っている。
記憶の中、その片隅にある知識と異形のゴブリンロードを照合する。普通の人間よりも古代魔法に詳しいキルトが出した結果は、あまりにも非情なものであった。
『王の意思』。あれこそ、ゴブリンロードの特性である『王の意思』が魔法として形になった姿。死を迎える事で発動するそれは、死してなお戦い続ける種族の業を具現化したもの。己を構成する全てを戦闘の為だけに昇華させる『王の意思』は、先程のゴブリンロードとは違う存在だと思った方が良いだろう。
「ハハッ、じゃあいっちょ殺りますか」
後退したがる足を抑えいい放つ。それにしても対して、ミコトは拒絶もなしに剣を構えた。それはキルトを邪魔者でも、守るべき対象としても見ていない、隣に立つ事を許した証だ。
別に彼女としても一対一にこだわる必要はない。戦えれば、強者の血を吸い肉を斬れればそれで良い。
隣にいる怪物と、目線の先にいる異形を相手にどこまで食らい付けるか。助けるからには、傷を負ったミコトの負担にだけはなってはいけない。
「仕方ねぇか……」
同業者の前で切り札を出すのは嫌だが、そんな事を言っている状況でもないだろう。
慣れ親しんだ魔力の全てを強化に回し、更にもう一つ。過去に教えてくれた、古代魔法を解放する。
空を見上げ、『向こう側』にいる存在に向けて言う。
「さっさと力を寄越せよ」
魂を持っていかれるような感覚の後、膨大な魔力が周りの空気から供給される。異物が体内を蹂躙しているような不快感の後に、金属同士を擦り会わせたような幻聴がキルトを苛む。
ーーいいか、あいつらは基本的に性格が悪い。
過去に聞いた事のある言葉が頭の中で反芻する。呻き声を上げてしまう程の苦痛が、『向こう側』の存在からもたらされたものだと悟り、憎々しげに顔を歪めた。
だが、先に待っていたのは本来ならキルトが扱えない量の魔力と、青く変色し可視化された自分のものではない魔力が煙のようにキルトから出ていた。
「テメェ、何しやがった?」
明らかに変わってしまったキルトに、ミコトが疑問を投げた。
「説明は後だろ。今はアイツに集中しようぜ」
「後で答えてもらうからなァ」
「ああ。さぁてーーアイツを殴りに行こうか」
首肯。
まるでそれが合図だったかのように、ゴブリンロードが動き出した。
▲▲▲
今から八年前、キルトはやっと魔力の操作を覚えて魔法を修得しようとしていた。
「じゃあ、今から古代魔法を教えてやる」
「えぇ!? 強化魔法とか、物質化魔法とか、もっと基本的な事は!?」
「そんなん後だよ後。それに、古代魔法は凄いが扱いの難しい魔法じゃないからな。お前でも使えるようになるさ」
「いやいや、簡単に出来たら誰も苦労しないって」
彼の言葉を微塵も信じてはいない。彼は時おり、こうしてキルトをからかって遊ぶ。今もおそらくそうなのだろうと、懐疑的な視線を向けた。
彼が古代魔法の達人だとは知っている。だけど強化魔法といった基本的な事から学ぶのが定石だとキルトでも解っていた。魔力操作の技術と魔法の理解を高め、初めて深層へ進んでいけるのが魔法だ。
「冗談を言ってるわけじゃねぇよ。今からお前に古代魔法を使えるようにしてやる」
「アンタの頭がこんなにも悪かったなんて……」
「またそれかよ! お前はちょっとくらい年上を敬え!」
「オッサンまじうぜぇ」
「本当に失礼な奴だな。お前は二年前からクソ生意気なガキだなぁ」
二年前。彼に拾われて、共に旅を始めた時からキルトは成長していない。生きる術や魔法の腕は上達していても、精神は未だに子供のままだ。十七という年齢は、まだまだ子供なのだと痛感する。
もっとも、そんな考えを表に出すことはない。恥ずかしい、と同時に彼を意味なく喜ばせるのは癪であった。
きっと満面の笑顔で頭を撫でてくるであろう事は想像がつく。
「話が逸れちまったな」
冗談みたいな事を真顔で言うそっちが悪い、とは言わずに目線だけで話の続けを促した。
「とにかく、古代魔法は格好いいから覚えておけ」
「そんな理由かよ。早く強化魔法を教えてほしいんだけど」
「おいおい、俺がそんな馬鹿な理由だけで教えるとでも思ってるのか?」
「もちろん、思ってる」
まさに即答。考える間もなく、肯定の意を表した。
「分かってるじゃねぇか。俺は嬉しいぞ」
意図せず彼を喜ばせたようだった。何が嬉しいのか、結局は頭をわしゃわしゃと乱暴に撫でてくる。
「九割は格好いいからで、残りの一割は切り札になるからだ。切り札を最初に覚えておいて損は無い」
それに、と真面目な顔を作って指を立てる。
「古代魔法なんて、今の魔法とは全然違うものだからな。お前の覚えたがってる強化魔法に何の悪影響もない」
「じゃあ教えて」
また嬉しそうに笑い、最初に古代魔法についての根本となる事から話し始めた。
「今から、神に会ってくる。お前だったら絶対に気に入られるはずだ」
空を指差し、彼は魔力を全身に流した。その魔力は彼のものではなく、青空のような色の魔力だった。
ーーそして、キルトは人間から神と呼ばれている存在と、二度目の対面を果たした。