王の意思は咆哮となる
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目に魔力を集め視覚を強化する。ついでに魔力の流れを見る魔法も掛けておく。こういった二重魔法を行使出来るのは戦闘中ではないからであり、戦闘が始まればせいぜい全身の強化魔法しか使えない。
アリスは自分が未熟であると自覚していた。同時にキルトにとって自分は守られるべき対象で、今は決して隣に立てる存在ではないことも分かっている。母が死んで、父親の顔も知らないアリスにとってキルトは兄弟であり親でもある。
五年前、目の前に現れたキルトは涙を流して謝ってきた。ごめんなさい、そう繰り返し言う彼は今にも潰れそうで、驚くほどに弱々しかった。何に対して謝っているのか、アリスには未だ分からない。
内に抱える罪悪感の重さも、後悔の念もアリスは分かってあげることは出来ないから、せめてキルトの重荷を少しでも自分が肩代わりしてあげたいと思っている。だけど、現実には自分はキルトの重荷になっている。それが悔しくて、情けなくて、泣きたくなる気持ちを必死に抑えながら強くなる努力をした。
誰よりも愛しているから、どんなに辛くても耐え抜く覚悟も出来ている。それが親愛なのか、それとも恋愛感情なのかは重要ではなくアリスにとっての原動力、芯はいつだってキルトの為にある。
だから今、アリスは隠れていろというキルトの言葉に悔しさを噛み締めながら指示に従った。自分が傷付けばキルトを悲しませてしまう。自らを責めて、決して許そうとはしないだろう。
どれだけの愛を注げば、キルトを満たせるのだろうか。差し伸べた手はいつだって空振りで、届くことはない。傷だらけの心を癒せるのは自分しかいない。いや、それしか認めたくはなかった。
いつか救われるのであれば、隣にいるのは自分でなければならないのだ。これは深すぎる愛情からくる依存であり、我が儘だ。物事を知らない子供が抱く感情は純粋でるが故に重く、歪である。
早くに親を亡くしたアリスがキルトに依存するのは当然であり、本人も気付いていない内に心の深層では守られる事に安心感を持っている。強くあろうとする少女の決意は矛盾を抱えながら五年の歳月をかけて成長していった。
ーーもっと、強くなりたい。
だけど、そうだとしてもアリスに残されたのはキルトなのだ。彼が手を差し伸べて、小さな手を掴んでくれたから親を亡くした悲しみにも耐えられた。これだけは絶対に揺るがない事実でアリスにとっての全てだった。
目の前の光景に羨ましいと思うのは、嫉妬を覚えてしまうのはアリスがまだ子供だから。キルトはミコトに対して絶対の信頼を置いている。背を向けながらも、何の躊躇もなく危機的な状況を任せられる相手が妬ましい。
醜い感情を自覚しながらも、しかし憧憬の的であるミコトになりたい、そんな気持ちが強かった。どこまでも揺れない、変わらない強さを持つ精神力と何でも解決してしまう圧倒的な暴力を持ち、キルトから信頼されているミコトは、アリスが望むほとんどを持っている。
ーーああ、羨ましいなぁ。
ゴブリンロードという強者を前にしても余裕を崩さない彼女を、アリスはその動きを見逃さない為に目を凝らす。
ミコトが行っている強化魔法は、きっとアリスが何年経っても到達出来ない域にあった。穏やかな水流のように、だけど魔力が意思を持っているかの如く止まることがない。引き出している魔力も、アリスとは桁が違う。
更に彼女は、右手に持つ剣にまで魔法を使っていた。
全長は一メートル程の、大きく反りの入った片刃の剣。切っ先の辺りは両刃になっており、断ち切る事だけではなく突くことも出来る。異国のクムスルアルス共和国で見られる刀剣で、卓越した技術を持つ剣士が持つ事でも知られている。
柄から切っ先まで、強化魔法の要領で魔力を流しており、何らかの魔法が発動を待っていた。また、彼女の使う剣は古代の金属が使われており、驚異的な耐久性を誇る。売ればちょっとした財産になる剣を何気なく使っている辺りは彼女らしい。
ゴブリンロード相手に二重魔法を使うという事は、ミコトにとって二重魔法がそれほど難しい技術ではない。やろうと思えばそれ以上の事も出来ると知ったアリスは、初めてミコトの非常識さを理解する。
天才が強さだけを望んで努力した姿がミコトという人間か。これまで様々な冒険者を見てきたアリスは、もちろん化け物のような強さを持つ者も見てきた。それでも自分には才能があると思っていたし、今もその認識は変わらない。
しかし、目の前のソレを見ると一瞬だけ揺らいでしまう。それは彼女と比べてしまえば自分がただの凡人だと思ってしまうのには十分だった。
「チクショウ……」
漏れてしまった呟きを認識する前に、ミコトとゴブリンロードは動き出した。
巨体を唸らせ、筋力に任せて降り下ろされた棍棒は空を切る。風を叩き付けたような轟音が響いた時には、ミコトは攻撃を回避して反撃の体勢に入っていた。
「遅ェンだよ!」
ゴブリンロードの胴を下から斬り上げる。血飛沫が舞うが、痛みに悶える間もなくゴブリンロードの纏う魔力が流れとなって周りの空気を蹂躙した。
それは、攻撃を受けた事で発動した魔法。
「ひっ……!」
アリスが恐怖を覚える程の禍々しい魔力がゴブリンロードの身体を包んでいる。赤と黒の混じった凶悪な魔力は形となり、鎧のような姿となった。
それを視認したミコトは捕食者の目を愉悦に歪める。
「面白しれェ。けど、まだ足りねェだろォ?」
呼応するゴブリンロードは、空気を震わすように雄叫びを上げた。
「ガアァァァァァ!」
瞬間、強化された目でも追いきれないスピードで棍棒を振り抜く。
「ヒヒッ。遅ェ遅ェ」
それでもまだ、ミコトは上を行く。完全に見切られた攻撃は身体を僅かにずらすだけで避けてしまった。続けて二度、目にも止まらぬ速度でゴブリンロードを斬った。
だが再び、ダメージを感じさせずゴブリンロードの魔力は禍々しさを増していく。
「ダメだよミコト……!」
気付いた。ゴブリンロードが使っている魔法の凶悪さは、アリスの常識を遥かに超えた。
きっと、引き金になるのはダメージを受けた時。発動された魔法の効果は、単純に自己の強化である。それでも、攻撃を受ける度に強くなる魔法はどんな魔法よりも質が悪い。
「あァ、愉しいなァ。もっとーーもっとだ」
しかしまだ足りないと言うミコトは、一体どこまで怪物なのか。
そして初めて、ミコトは自分から地を蹴り攻撃を仕掛けた。
その時、一瞬だけ見えた魔力の流れはアリスを驚愕させる。ミコトが地を蹴った時、ほんの一瞬足に魔力が集中していた。つまり、彼女は凄まじい速度で戦いながらも魔法を切り替えていたのだ。
爆発力を上げる為の部分強化の魔法の弱点は他の箇所
を捨てる事に繋がる。そんな事もお構い無しに、彼女は超人的な魔力操作で強化魔法を使用していた。
状況な応じて使い分ける。棍棒の軌道を見切りたい時には目を、移動したい時には足を、あのスピードの中で行っている。
矛盾しているようだが、あれではまるで全身が常に部分強化されている状態だ。魔力操作をする為には魔力を認識しなければならず、ミコトは既に人間の知覚を超えていた。
あんな事、どれだけ努力しても到達出来ない。考えても、どうやってあんな芸当が出来るのかが分からない。
もうアリスの目には、ゴブリンロードもミコトも大差ない怪物のように見えていた。
ギリギリ、移動しているとだけ分かるスピードでゴブリンロードの懐に入ったミコトは更に斬る。もう強化された目でも、どうやって斬りつけたのかアリスには理解出来ない。
血飛沫が舞う度に、ゴブリンロードの赤黒い魔力が濃くなっていく。
どうして倒れないのか。それはゴブリンロード特有の、『王の意思』と恐れられる防御力と精神力が原因だ。人間よりも遥かに優れた身体の強固さ、種族として弱者であるはずのゴブリンが進化した結果得た闘志と防御力は、必殺の攻撃を受けても倒れない。
それでも確実にダメージは負っているはずだ。その証拠にゴブリンロードが流した血の量は足元に溜まる程である。
鈍い銀色の一閃が走る毎に、徐々にゴブリンロードを黒が覆う。
そして、ある一瞬から攻勢に回っていたミコトが飛び退いた。
間を置かずに、ゴブリンロードの立っている地面が抉られた。色は完全な黒に染まり、既に原形を保ってはいない。
ーー咆哮が、森を揺らした。