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指切り  作者: 湊音
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 その部屋はとても簡素で、丸くて低いテーブルが真ん中に一つ(これはちゃぶ台というのだろうか)壁には大量の本が大きな棚に整然と並んでいる。

 壁は真っ白で窓は一つ。いやもしかしたら、他の部屋には窓が二つあるのかもしれない。だけど、僕はこの部屋しか知らない。見たこともない。見たいとも思わない。

 ここに住んでいるのは「トキタ」という男。白髪交じりの髪に深い皺、顔は昔はきっと格好良かったんだろう、歳をとっていても端整な顔立ちをしている。眼鏡の奥の瞳はいつも物憂げだった。知っているのはそれだけ。下の名前は知らない、知らなくても僕にはなんの支障もないのだから、聞こうという気なんか無かった。

 そして、高校生の僕はこの部屋にずっと通っている。通いだした理由は思い出せない。もう何年も前の話なのだから。ただ覚えているのは、冬の誰もいない公園のベンチに座っていた、この「トキタ」の悲しそうな表情だけ。


 この男の部屋に通って、何かをするわけでもないし、話をするわけでもない。「トキタ」は僕がいないかのように、棚に並んでいる大量の本の中から一冊選んでは、黙々とそれを読んでいく。僕はその姿を見つめる。「トキタ」の本を捲る指がなぜか僕の心をひどく揺さ振るのだ。この骨張っていて長くスラリと伸びた指が一枚、また一枚とページを捲っていく、その動きが、指が、僕は好きなのだ。「トキタ」が好きなわけではない。ただその仕草が、その指が好きなのだ。

 「トキタ」はたまに視線をこちらに向ける。僕も視線をこの男に向ける。「トキタ」はほんの数秒間、僕を確認するようにちらりと見てはすぐに視線を本へと戻す。僕もまた「トキタ」の指へと視線を戻す。

 しかし、何時間もそうしていると、やはり飽きてくる。そうなると僕はこの男の背中に凭れ、この部屋に一つしかない窓から外を眺める。今日の空は晴れていた。綺麗な空だ。「トキタ」は、暇そうに窓を眺める僕に気づいてもなにも言わない。黙々と本を読み進めていく。空の端っこが少しずつオレンジ色に変わっていた。もうすぐ、夕暮れがやってくるみたいだ。




 僕は学校が終わると、今日も「トキタ」の部屋に行った。そして、この男の骨ばっていて長くスラリと伸びた指を眺める。「トキタ」の視線がこちらを向くと、僕も視線を「トキタ」へと移す。眼鏡の奥の瞳が僕を優しく見る。

「いつも、私の手ばかり見ていて暇ではありませんか?」

 ああ、久しぶりにこの男の声を聞いたなと、思いながらも僕は冷静に答えた。

「…あんたの手を見てるのは、嫌いじゃないから」

 すると「トキタ」は立ち上がり、台所から真っ赤な林檎と果物ナイフを持ってきた。それらをテーブルに置き、本棚から一冊の本取り出す。

「どうぞ」

 手渡された本の表紙には『ゆびきり』と書かれていた。現代小説だろうか、パラパラと捲ってみると中身は「トキタ」がいつも読んでいる通りたくさんの活字が羅列していた。「トキタ」は林檎を取り果物ナイフで器用に切り分け、その半分を渡してくれた。僕は先ほどと同じ様に林檎を受け取る。

「その本は私のお気に入りです。あなたに差し上げますからどうぞ読んでみてください」

 にこりと優しげに、しかし、どこか寂しげに微笑んだ「トキタ」を見ながら僕は頷いた。僕はこの男の本を読んでいる姿を(正確に言えば指)を見ているのは好きなのだが、自分が本を読むということはそこまで好きではない。だけどこの本は読んでみたい、そう思った。「トキタ」がくれた本だからなのか、それとも、この本のタイトルに惹かれたからなのか、それはまったくわからない。

 僕は頷いた。すると、「トキタ」は嬉しそうな顔をしながら話す。

「難しい内容かもしれませんが、きっと貴方も好きになってくれると思います。私はもう何度も読み直してしまいました」

 そう、言われてみれば、この本はページの端がボロボロになって折れ曲がり、表紙も色あせていた。

きっと、何度も何度も「トキタ」が読んだからなのだろう。

「優しい気持ちになる物語です」

 そう苦笑いを浮かべ、林檎を齧りながら話す姿を見て、僕はこの男が本のページを捲る指を見ている時と同じ様に酷く心を揺さ振られた。先ほどの発言を訂正しようと思う。僕はやはりこの「トキタ」なる男が無償に好きみたいだ。恋愛なんてそんな邪まな感情ではなくて、人間としてこの男が好きなのだ。その感情は尊敬のような、しかしまた違った。なんとも説明しがたく、心の奥がむず痒くなる感情。

「『ゆびきり』なんてしたのなんて何年も昔の話ですからね。簡単な行為だけど、とても重たい行為です。出来ない約束なんてしてはいけないんです……なんて言ったって針を千本も飲まされてしまうんですからね」

 おどけながら言う「トキタ」の表情は、とても悲しそうで、今にも泣き出しそうに見えた。この男の過去にいったい何があったのだろう。この男の心が知りたい。僕はそう思った。

 それから、「トキタ」は他愛も無い話を始め、僕は受け取ったりんごを齧りながら、この饒舌に話す男の話しに耳を傾けていた。この居心地の良い時間が少しでも長く続けばいい、時間が止まればいいのにと思った。窓の外はもう真っ赤な暮れない色に染まっている。




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