私はあなたのママじゃない。
どこの世界でも、男ってこんなもの。
「話があるの」
私は冷ややかな眼差しを携えて言った。
ささやかな自宅の小さなダイニングテーブルに着いて、対面には私の愚夫が、やれやれまたか、と言いたげな薄ら笑いを浮かべている。
「――なんだぁい?」
彼は頬杖をつきながら、溜め息交じりに言った。
白い肌に黄金色の頭髪と眉毛と睫毛、シャープで親しみ深いフェイスラインとさっぱりした鼻筋。しかし、その眩さの内で、いま私に向ける淡緑の瞳だけが、ひどく濁って映る。どのような光も反射しない。宛ら古びたプラスチック製の宝石のおもちゃのようだ。見下されているのだ。明確に、飢餓状態の薄汚れた老犬でも見るように。
可能なら、いまここで魔法を使用し街の中央広場にでも瞬間移動させて、彼のこの瞳と表情を衆目に晒してやりたい。これがあの勇者様のお顔なの? と誰しもが深い失望を抱くだろう。
ただ残念ながら、私は純粋な魔法力で彼に及ばない。恐らくは、発動する前に悉く打ち消されてしまうだろう。実に悔しい。
さて、彼と私について、ここで端的に説明しなければならないだろう。
彼は先ほど触れた通り、この世界の勇者様だ。世界でも五本の指に入る魔法剣の使い手。数年前に魔王の脅威から世界を救い、いまはその恩賞を定期的に受け取りながら、王都の街から少し離れた湖畔で何不自由ない暮らしをしている。
そして、私は彼が結成した魔王討伐パーティー(私を含めて計4名)のヒーラー・付与術師として、彼や他のメンバーのサポートをしていた。巷では聖女様なんて呼ばれている。
魔王の討伐を果たした後、私と彼は絵に描いたように結ばれて、たくさんの祝福を受けて婚姻した。そして、共にいつまでも幸せに暮らしましたとさ、めでたしめでたし――とはならなかった。
平和な時代がそうさせたのか、あるいは、そういった外的条件にかかわらず絶対的な時間の作用が、彼のひた隠しにしていた本性を引きずり出したのか、切っ掛けと呼べるようなものは何も分からない。ともかく、彼は、いや、この男は変わってしまったのだ。クズ野郎になってしまった。この世界でもこんな思いをしないといけないのか、と私は愕然とした。
実を言うと、私は別の世界からの転生を経験しているのだけれど、このことはまた別の機会に話すことにしよう。
私は言った。「あなた、また家のことを一切やらなくなったわよね? 注意したら少しの間へいへいとやって、またやらなくなる。その繰り返し。しかもその間隔はどんどん短くなる。もーう、限界。堪忍袋の緒が切れたわ」
彼は、あー、とどのような意味も読み取れないような声を出してから、頬杖をやめてこめかみを掻いた。「ごめんごめん、ついつい、ね。今度はちゃんとやるからさ」
「ずっと、まっったく同じ返事よね」と私は答えた。「けど、言葉はどんどん投げやりになってる。私がこれまで、ひとことふたことの注意で済ませてきたから、それでやり過ごせるって学習しちゃったのね。――あなたも大人だから、いつかは分かってくれると思ってそうしてきたのだけど、はっきり間違ってたわね」
私の言動の質がこれまでと大きく異なることに、彼は姿勢と表情を緊張させた。背筋を伸ばして、口許を引き締める。
「なんだよぉ、ちょっと言い方がひどすぎやしないか?」
彼は目許だけを柔らかくしてみせた。私も映し鏡のように目を細めた。
「それがまともな大人同士の会話だったらね」と私は言葉を置いた。「もちろん、一月先の生活も不透明な身の上で、私の衣食住の分まで稼ぐために毎日へとへと、とかだったら、家のことは全部私がやるのでも納得できる。でも、いまの私たちは違うじゃない。生活の全ては王室から保障されてるし、仕事の依頼があってもお互いに月2、3回がせいぜい、あなたはもっぱら街で遊び呆けてるじゃない」
「いやぁでも、勇者が現在深刻な事情を抱えていないって市民にアピールするのも、立派な仕事じゃないかなぁ」と言って、彼は自分の顎を擦った。「これでも結構、無理して明るく努めてる部分もあるんだぜ」
相変わらずよく口が回る、と私は思った。そういえば、魔王を討ち果たした時だって、彼の度重なる挑発が勝利を手繰り寄せた側面もあった。私がこれまで感情を抑制し注意の意味内容を正確に伝えることに終始してきたのも、たとえこちらに理があろうとも、彼との舌戦は成果以上の消耗を来すことが目に見えていたからだ。婚姻関係をこれからも保っていくなら、正面からやり合うのはあまり良策に思えなかった。
まったく、同じ方向を向いていた時は頼もしかった性質が、いざ対面すると赤錆びた鋸のようにこちらを掻き乱す。強力さに魅了されている間は、それが反転した際のリスクをポンと失念してしまう。ずーっと、私はそうだった。今度こそと、ずっと宝くじを外してきたのだ。その因果を、今日ここで私は断ち切らねばならない。真に自由になるために。
「その理屈なら、私だって同じよ」と私は答えた。「いつもニコニコしてる聖女様って、人々には見てもらいたいわよ。でも、最近はあなたのせいで業務妨害されているような状況なの。社会的な負担はまったく同じ、むしろ一般市民と比べたらどちらも軽い方なのに、家のことは私ばかり。あなたの心の持ちよう以外に、この不公平さの理由はないじゃない。完全な役割分担にしてみても、すぐ駄目になったし」
「……だってぇ、君の家事がうますぎるからさ、それと比べるとどうしてもプレッシャーが掛かっちゃってさぁ」
「それは前も言ったけど、最初から多くは求めないわよ。あなたは幼い頃から剣術に人生を捧げてきて、そのせいで家事を身につける時間が不足していることくらい、考慮するわよ」
「でも、後から直されたりするの、気分よくないし」
いつもなら大体、これくらいのやりとりをすると、もういいからとりあえずやろう、みたいなことを言って切り上げてしまう。そして、彼も少しの間、拙いながらも掃除や整理整頓をして、いつとはなしにやらなくなる。その繰り返し。
それも、今日までにするのだ。
「――じゃあ、しばらくは全部、あなたのレベルに合わせるわよ。で、慣れてきたら少しずつ元に戻していく。それならプレッシャーも何もないでしょ?」
「いやぁ……それはちょっと」
そう言って、彼は右頬を膨らませた。彼が不満を感じている時に出る癖だ。自分は意地でも家のことをしたくないのに、少しでも埃っぽくなったり、床や水回りが汚れたりしているのは嫌がるのだ。まぁ、私だって、しばらくそんな中で暮らしたくはない。私は彼が了承しないことを見越して言ったのだ。私は線を引いたのだ。彼の限界値を明確にした。くわえて、こちらもある程度血を流す覚悟があれば、恐れることは何もない。
「だったらさ、最初から使用人に来てもらうようにお願いしたらよかったじゃん」彼が腕組みをしながら言った。「そうすりゃ、お互いに嫌な思いをせずに済むんだ。今からでも、王室に要望し直してもいいんじゃないか? ついでに、もっとデカい家を建ててもらってもいい。使用人に来てもらうにしちゃ手狭だし」
なるほど、そっちで攻めてくるか。うん、問題ない。想定範囲内だ。
「あのね、王室からの保障って、もとは税金でしょう? だから、私たちが必要以上に貰う分は、本当に必要な誰かの分を奪うってことなのよ」
「でもさ、そこには雇用と事業が発生するわけじゃん。社会にお金が回るのはいいことじゃん」
「それは復興がある程度達成できていたらの話よ。未だ魔王に破壊された街々の過半数は手つかずだし、病院や養護院も常に人手不足。私がしょっちゅう顔を出してるくらいなんだから。こっちのプライベートのために資材と人手を寄越せ、なんてとてもじゃないけど言えないわよ。これは最初に話し合ったでしょ?」
「――それでも、世界を救った勇者御一行がいい暮らしをすること自体が反感を買うことなんて、あんまりないと思うんだけどな。むしろ、それくらいの大事を成した後でも、ある程度の節度を強いられるって方が人のやる気を削ぐんじゃないのかな」
恐らく彼は、長期間のストレスによって私が当初否定した選択肢に妥協してくれるかもしれない、と考えているのだろう。もちろん、これからも関係を続けていくことを第一にするなら、それもありだっただろう。しかし、もう私にはその気がないのだ。その決め手は、彼が私のいない場で口にした、ある言葉にあった。
「……確かにそうかもしれない」と私は言った。「でも、そういうのは後が怖いものなのよ。平穏無事が続けば、こちらの優遇を疎んでくる人の方がずっと多くなる。人間って所詮そんなものなのよ」
とは言ったものの、私の本意はもう少し違ったところにある。私と彼の繋がりが、性だけに限定されてしまうのが嫌なのだ。私は、生活というもっと太く強固で温かな鎹を求めているだけなのだ。私たちの間に残るのが寝室だけになるのが嫌なのだ。この点において、私と彼は価値観が明確に異なっていたと、この数年で思い知ってしまったのだ。
彼は口許をいーっと絞って黙ってしまった。押し黙っていればこちらから、もういいわよ! なんて終わらせてくれるのを期待しているのだろうか? 冗談じゃない。もう、ここで終わらせにかかろう。
「ねぇ」と私は口を開いた。「私たち、お互いに別の道を歩むべきだと思うの」
「おぉぃ、ちょっと待ってくれよ!」彼は椅子から立ち上がって叫んだ。その反動で椅子が後ろに倒れて、ガタン、と大きな音が鳴った。「それって別れようって意味かよ!?」
その通りよ、と私は答えた。「このままじゃお互いのためによくないわ」
彼は、ダァン、と両手でテーブルを叩き、そのまま体重を預けた。「ちょちょ、ちょっと待って、悪かった、俺が悪かったって。ちゃんと家事も覚えてうまくなるよ。不満も言わない。約束するよ」
彼の瞳にやっと輝きが戻った。しかし、もう手遅れだ。
「私が別れを切り出す前にいまの言葉をくれなかった時点で、もう駄目なのよ」と私は言った。「それに、本当に心配しているのは、私との縁が切れることじゃないんじゃないの?」
「ど、どういう意味だよ?」
彼はテーブルに体重を預けるのをやめて、姿勢を正した。両手とも軽く握られている。
私は彼の目をしっかりと見据えてから言った。「あなた、服だったりちょっとしたものだったり、片付けるのがめんどくさいなってものは全部私の目に留まりやすいところにわざわざ置いてるわよね。私が無視できないって分かってて」
「いやぁ……それは」彼は視線を右斜め下に逸らした。
「中にはそのまま自分で戻した方がどう見ても楽だろうなんてやつもあった」と私は続けた。「あなたは家のことができないんじゃない、やる気がないのよ。根本的に。いや、もっと言えば、あなたは自分のために甲斐甲斐しく奉仕する女性を眺めてるのが好きなのよ。自分からは何も差し出さないくせにね」
「そ、そんなつもりは」
「つもりはない? あなた、私が何も知らないと思ってるの?」私は立ち上がって、バァン、と右手でテーブルを叩いた。「――3日前、夕方の酒場『ヨーコ』。これくらい言えば分かるかしら?」
気がつくと私は、顔をひどく歪ませながら彼を睨んでいた。歯を食い縛ってこめかみもこわばり、きっと威嚇する虎みたいな容貌になっていただろう。彼は私の言葉からすぐに思い当たったような表情をして、顔面蒼白になった。彼の白い肌は新品のキャンバスのように、その冷え冷えとした色変わりをより明快に表す。
「お、おまえ、あの時近くにいたのかよ」
「……あなたを迎えに行こうとして、ちょうどお店のスイングドアに手を掛けようとした時だったわ」
そう、その日私は養護院に顔を出した後、彼が行きつけの酒場にいると聞いて、最近いきすぎた飲酒が続いていることを咎めに行こうとしたのだ。そして、店の前に立ったちょうどその時、彼の一際大きな声が耳に入ってきたのだ。
『うちには、セックスのできるママがいるんだなぁ!』
そして、男たちがどっと笑った。
私はその場からすぐに走って逃げた。彼の野卑な言葉そのものへの嫌悪感ももちろんだけど、何よりそれが大勢の笑い話として消費されたことがまったく呑み込めなかった。その日から今日の朝方まで、私の頭の中は猥雑として纏まらなかった。灰色の雨雲がずっと頭蓋のうちに垂れ込めているみたいだった。ずっとゴロゴロと鳴っていた。やっと時間がそこに晴れ間を穿って、私はいま、全ての思いを彼にぶつけるに至ったのだ。
「ご、ごめんよぉ。あの時はちょっと気が大きくなってただけなんだよ」
彼は涙を流しながら謝った。テーブルに両手をついて、頭を下げた。
私は一つ大きく息を吐いてから答えた。「私、とても恥ずかしかった。そして、それ以上にあなたに失望した。でも、私もずっと、明確にしないといけない態度を、あなたへ示すのを避けてたところもあった。だから、いまはっきりと言うわ。耳の穴かっぽじってよぉく聞いて」
私は鼻から大きく息を吸った。
「私は! あなたの! ママじゃ!! ないのよ!!!」
私が息を整えている間も、彼はずっと黙って頭を下げていた。一体どんな表情をしているのか覗いてやろうかとも考えたけれど、やめた。私は少し間を置いてから続けた。
「私、このままここを出るから、後のことは自分でしっかりやりなさいよ」
私はそう言い切ってすぐに、部屋の扉の方へ歩き出した。
「……ここを出てどこに行くんだよ?」彼がぽそりと言った。
私は扉の前に着いてから、そのまま振り返らずに答えた。「今日のところは街のホテル。昼のうちにもう予約してあるの。明日以降は知り合いのところにでも厄介になって、早めに新しい家を借りるわ」
彼からの応えがなかったので、私は部屋を出て自室へ向かった。
自室に入ると、私は深紫色のローブを羽織り、予め用意していたトランクケースを持って、速やかに玄関へ向かった。玄関に着くと、彼がその扉の前で待っていた。私がそのまま進んでも、彼は退かなかった。
彼は暗い声で言った。「本当にごめんよ。人前で君のことを持ち出して、セックスがどうだなんて」
目の前の彼の口許から、ほんのりと酒の匂いがした。
「――ええ、そうね。最低だと思うわ」と私は答えた。「でもね、私はそれと同じくらいに、同じ大人からママだの母性だのを要求されるのが嫌なの」
彼は右上に少し視線を送ってから言った。「ごめん。俺、ちっちゃい頃に母を亡くしてるから、母にできなかった甘えるを、君に強く求めてしまっていたんだ」
私はプラスチックのおもちゃのようだと評した、彼の先ほどの瞳のことを想起した。あるいは、「見下し」と「無条件に甘えて構わない」は、紙一重のところにあるのかもしれない。
私は無表情に努めて言った。「あなたの母代わりになりたいという女性も、身近に必ずいるわ。でも、それが私じゃなかったってだけの話なのよ」
沈黙する彼に、私は続けて言った。
「もし、子どもに恵まれていたら、私もあなたも、少しは違ったかもしれないわね。――じゃあね」
私がそう言うと、彼はさっと扉の前から退いてくれた。こういう場面で、膂力任せに相手を従わせることをしないところは、彼の信頼に値する側面だった。
「書類とかは、後日ここに送るから」
私はそう言ってから、玄関の扉を開けてそっと外へ出た。
外はひんやりと肌寒くて、季節が秋から冬へとゆっくり移行しようとしているのが感じ取れた。澄んだ空気、疎らに浮かぶ薄雲、くっきりとした満月、星空以上に瞬く湖面。私は大きく深呼吸した。ローブのポケットから懐中時計を取り出すと、時刻は20時26分だった。
私は玄関ポーチに立て掛けていた箒を手に取って、魔法力を込めた。箒は股下の辺りでプカプカと浮いて、私は箒の先にトランクケースを掛けてから、柄の根元部分に横向きに腰掛ける。そのまま屋根よりも高く浮き上がって、街を目指して飛行した(瞬間移動は自分に対しては使えないのだ)。
20分かけて街に到着し、無事にホテルにチェックインできると、私はローブを脱いでベッドに仰向けになって寝転んだ。5分ほどぼーっと天井を眺めてから、トランクケースからタオルと着替えを出して部屋に備え付けのバスルームで汗を流した。そして、身軽な格好になってスキンケアとヘアドライを済ませ、冷えた水を飲んでから、またトランクケースから小さな水晶球を取り出した。下にタオルを敷いて転がらないようにしてから、手を翳す。すると、プ プ プ と規則的な音が鳴って、少しすると人の声が返ってきた。
『もしもし、エマ、どうしたのよこんな時間に』
「ごめんね、キアラ。通話に出てくれて嬉しいわ」
お察しの通り、私は遠距離通話の魔法を使用しているのだ。元の世界で言うところの電話だ。世界が変わっても、生活技術の根底が科学と魔法で異なっていても、人の想像力は収斂していくものなのかもしれない。
キアラは私と彼と共に魔王を討伐したパーティーメンバーの一人で、徒手格闘術のスペシャリストの女性だ。彼女が住む生まれ故郷の海沿いの町は、王都の街からそれなりに離れている。実を言うと、彼女には随分と前から、彼との生活の愚痴を聞いてもらっていたのだ(もともと彼とはパーティーの前衛同士でとても仲が良かったのだけれど、私と結ばれてからはしっかりと線引きしてくれていた)。聞いてもらうのは、いまみたいな通話だったり、王都へ遊びに来ていた時だったりした(3日前に彼が酒場にいることを教えてくれたのも、ちょうど街にショッピングに訪れていた彼女だった)。そして、これまで話に付き合ってもらったけじめとして、私はこの通話で彼と遂に別れたことを彼女に報告した(もちろん、酒場での彼の台詞は彼女に伏せた)。彼女は私を否定する言葉を一切使わずに、よかったね、お疲れ様、と声を掛けてくれた。
「それでね、私が新しい家を見つけるまで、少しキアラのとこで厄介になることってできるかしら? そんなに長居はしないと思うから。家のことで手伝えることは何でもするし、衣食に関しては絶対に迷惑掛けないから」
今日彼と別れる決心をしてから速やかにそれを実行したため、そのあたりの事前の約束はできていなかったのだ。
『ああ~、ごめんね。実は今から家を出てしばらく留守にしないといけない用事があるんだぁ。もしその用事が終わってもまだ家が決まってなかったら、その時は声を掛けてね。力になるから!』
「あら、そうなの。ごめんなさい。忙しい時に長々と通話しちゃって」
『うん、いいのいいの。んふふ。じゃあまた連絡してね』
「うん、ありがとう」
私は通話を終えてから、彼女とのやりとりを思い返した。彼女は最初から最後までずっとご機嫌だった気がする。私に断りを入れている時にもだ。普段から何が面白いのか分からないくらいによく笑う人とはいえ、それほど楽しみにしていた用事なのだろうか。彼女のその楽観的な性格からして、そんな素敵な用なら前々から私に共有して自慢の一つでもするような気がするけれど、まぁ、いろいろとあるのかもしれない。
私は少し考えてから、別の人物に連絡を取ることにした。私と彼の事情をしばらく伏せておいてくれる知人は、もう一人しかいなかった。男と別れてすぐ別の男の家に転がり込むのか? と誰かに突っつかれてしまいそうだけれど、背に腹は代えられない。それに、その男は神にその身を捧げている敬虔な人物だ。そう心配することもないだろう。
『もしもし?』
魔王討伐パーティーの最後のメンバーである僧侶の男は、すぐに私の通話に応えてくれた。久方ぶりの会話だった。事情を手短に説明し、仕事も手伝うと言うと、ひとまずこちらに来い、と返してくれた。
私は感謝を述べて通話を終了した。私は一息ついてから、また冷えた水を飲んだ。そして、一本一本取り外すくらい丁寧に歯を磨いて、ベッドに横になった。明日は忙しくなる。午前中にしばらく仕事を受けられないことを街の役所に説明して、養護院と病院に顔を出したら、僧侶の彼の許へ向かわなければならない。僧侶の彼は箒に乗っても半日以上を費やすほど遠い山の麓に住んでいる。睡眠は十二分に取っておくべきだ。
私は目を瞑った。今度こそ……今度こそ、と呪文のように心の内に唱えながら。すると、泥のような眠りがすぐに私の上に降りてきた。それは夢というキャンバスを、黒く塗り潰してしまった。
この作品は、過去に別ペンネームで掲載していた作品のリメイクです。
この作品はアリアナ・グランデの楽曲、『Break Free』をモチーフにしています。




