ヒトソレゾレ。ヒトソレゾレ。
息がしにくいのは、肺が欠けているからでした。
考えが悪いのは頭が欠けてるから。
人を傷つけるのは心が欠けてるから。
作業が遅いのは右手が欠けているから。
欠損部分に目をやれば、自分は、一体どうしてこんなにも醜い体に生まれたのだろうと、一度気づいて仕舞えば、そこにしか目がいかなくなって、では、あぁ、とうとう目さえもダメになってしまったのかと、この身体と生活を共にすればするほど、毎度毎度、懺悔に尽きて、あぁ、やはり人間。私も人間族の一員なのだと、思い知らされるのでした。
いや、私も私のことを人間ではなく、動物界>脊椎動物門>哺乳類網>霊長目>ヒト科>ヒト属>ホモサピエンス、私。とすれば、一切合切の問題は取り払われるのですが、現代ではどうも、ヒトの事を人間と呼ぶ事が常套だそうです。
人間は美しくあろうと必死です。私は、本能的に、その美しさに疑いを感じてしまうのです。
どうやら人間の世界では、道徳染みたココロ、だとか、他人を想う気持ちなんかが美しいモノであるとされるそうです。やはり、私の欠けた心ではどうもそれが理解できませんでした。私は、足りないものがとっても多いですから、私として生き、時に人を裏切るような事があっても、私の欲に正直に生きる事以外に美しい生き方というのが、見当たりません。
そういう考えを言えば、醜い、あまりに極端で人道から外れている。なんて言う人がいるですが、さて、困ったなと毎度悩んだ結果、そういう人間は世間に催眠された哀れな人間なのだ、と、結論づける事にしました。
時々やって来る、哀れな人間の過度に拗らせた義理、人情、上下関係、恩恵、礼儀という類いの常識は私にとって、それはとても厄介なものでした。私は心が欠けているので、そういうものに縛り付けられた人間はやはり、学校教育の矯正の賜物で、ゆくゆく、マスかきして眠り、気づけば人生終わってる。死が迫ってきて、あぁしておけばよかった、こうしておけばよかったと思うのが怖くてたまらないから歳をとった時に、自分はあぁだった、こうだった、と、記憶の改竄の様な愚行で自己を保ち、まるであたかも自分が何かを成し遂げたように錯覚して、時には人生とは輝かしく美しいものなのだと、世間へ吹聴し、時には、今私がしているように、世間はなんだかもやがかっている所が多い、と、話を皆にしたがるのです。表現、発信、と言えば美しく聞こえるかもですが、やはり人によっては一種の不快さを覚える人も少なくないと思われるのです。それに対しては、私は私、と、天上天下唯我独尊をある程度貫けるのですが、他人に向けられる人それぞれ云々の口説きをする人間に、私はどうしても食卓で子や孫に存分尊大な態度をとる父親のように映ってしまい、畏まりましたと、良いざるを得ないのです。これを完璧に拭い払えないのは、私の弱さ、情けなさ、繊細さ故なのでしょうか?
そうに違いないと、心と頭の欠けた私は、あまりに偏った、ペシミズム的な、自惚れとも思える結論しか浮かばないのでした。やはり、ニーチェは超人でした。
ある日、私は街中で散歩しているリールに繋がれた犬を見かけました。その犬はダックスフンドでした。とても可愛らしく、すれ違う私を不思議げな目で眺めるのでした。私はずいぶん珍しい行動をする犬だなと感心して立ち止まり、しゃがみ込んで目を覗き、問いかけてみました。
「おい、犬。お前はどうしてそんなに可愛いのだ。お前はその可愛らしさを駆使して生きる事に恥じらいなどはないのか。」
私の頭上で飼い主はムッと顔を顰めているのが分かりました。ですが私は犬から目を逸らしませんでした。犬も私の顔をじっと見ていました。
すると、ふと犬は目を逸らしました。背後にあった八百屋の方を向いて、ハッハッと息を吐き、顎をあげ首を斜めに傾げて、それが人であれば、あなたには興味がないと読み取れる行動をとったのでした。
まるで、私達犬にそういう考えを、もう人はしなくなりました。私達の作戦勝ちです。私は可愛いから狩猟せずとも食っていける、そういう生き物になりました。そう言われた様な気分でした。
犬は、可愛らしさという遺伝子を残し、ヒトという最高位の生物と共存する術を見出したのです。なんと狡猾で強い生き物なのでしょうか。やはり私は、トイプードルだとかチワワといった、馬鹿で、可愛らしい生き物に羨望の眼差しを向けるのでした。
私の勤める会社は仕事をこなした数に比例して給料が上がるという、完全歩合制でした。私は成績が優秀ではなかったので、金もなく、優秀な人間との付き合いの内で、飯を奢られるといった些細な恩恵を受ける事が多々ありました。私に恩恵を与えた人間は「いい、いい。」と、自惚れた顔を隠して、私に飯を与えてくれます。私は、その善意の合間に見え隠れする優越感に漬け込んで、やはりずる賢い人間として、犬のように媚び諂いながら生きるのでした。ルサンチマンで飯が食えたのでした。
私はある決心をしました。その決心とは、欠損部分の身体を補填する。という事でした。それまで私がそうしてこなかったのは、私のどうにもできない信仰、に似た、どこから芽生えたのやら分からない美的感覚に反したからでした。希望、と言っても良いかもしれません。人工的なモノを人為的に身体に取り入れるのは美しく無い。人の考えさえも人工的なものとして、取り込むのを拒否しました。全ての万物を作った神々は、各々に適した存在を与えてくれているはずだ。という類のものでした。
私は人間に成り切るではなく、ヒトの範疇を超えない人間であり続けたかったのでした。
ヒトが自然と生産したモノは、一般に汚いものとされます。糞や、尿、垢、汗、などもそうです。ではヒトが造るのは美しいものだけでしょうか?そう言った疑問を抱く事に私は疲れたのでした。そして、人間が言う、流行りの、人にはそれぞれの考え方。という言葉に見え隠れする本音に幻滅するのに疲れたのでした。かと言って、本音で激論して、喧嘩して、語り合う事も諦めました。孤独にも疲れたのでした。
私にとって、世の中に蔓延る考え、というのも結局は人工のモノなのでした。
ですから、私はそれを決心という、ポジティヴな言葉を使って、足りない部分を補ってまた、私も私を催眠するのでした。
その、なんと呼べば良いのやら分からない人工的で不思議なモノは、私のあらゆる、欠損した臓器や、部位を満たしました。
以前、片側しかなかった肺は強靭になり、シュポシュポと忙しく動いています。今では息がしにくいなんて微塵も思わず、季節の変わり目の空気が美味しいと思うようになりました。凸凹だった頭の形は、満月のような綺麗な丸になり、逞しく器用な右腕もできました。
そうして私も、この、なんと呼ぶのか分からないこの不思議なモノを”ゲット”して、立派な身体と立派な心を持つ立派な人間として、一種の、子供が仮面をつけて遊ぶように、選挙ポスターの政治家が笑顔を取り繕うように、私もまた、仮面をつける感覚で、社会を生き抜いていくのでした。
その日は雨でした。電車という、人間社会をより効率よく回す乗り物に私は乗っていました。車内の深緑色の床は濡れ、泥で汚れ、手入れのされていない沼地のように思われました。その上を、1人の老婆がカタカタと震えた手で杖をつき、転ばないように慎重に歩いていました。けれども電車はあまりに揺れ、とうとう老婆は転んでしまうのでした。
丁度その時私は座って、太宰の小説を薄笑いで読んでいましたから、あぁ、この老婆もまた、かつての自分のように弱者なのだな、と判断するのでした。
立派な人間の仮面を被り、綺麗な丸の形をした頭で考えた美しい私は、弱者救済こそがアートなのだと、以前の私が心の底から嫌悪し、なんとも見当違いで、甚だ烏滸がましいとしていた思考を生み、満たされた立派な心で動き出し、逞しい右腕で老婆を支え、席を譲るのでした。
すると、どうでしょう。なんと、その老婆は私の逞しい右腕を跳ね除けて、なんらかの罵声(私の美しい耳ではそれを人語として聞き取れなかったのです。)を浴びさせ、またヨロヨロと車内を進んでいくのでした。
私はこの老婆の後ろ姿に、醜さを覚えました。よく見れば、醜く歪んだ顔をしているじゃあないか。そして沸々と怒りが全身から沸いてきて、
あれは、ヒトのなれ果てだ。あんなにも醜く生きていくのはさぞかし辛いだろう。と同情し、心も身体も醜い老婆め。と見下し、再び転んで死んでしまえ。と内心唱えるのでした。
そうして、会社に着き、デスクへ向かい、しゃかりきに働いていると、同僚が私へ向かってこう言いました。
「お前はまだまだ作業が遅い。私には利き手の右腕が4本あるのだ。つまり体をいじくるのはどこかしこでも流行っているだろう。私も身体をちょいといじくってな。腕を4本にしたのだ。だから私はお前よりも作業が速い。お前の仕事を巻き取ってやろう。お前も悔しければ身体をいじれば良い。良いぞ、手が4本あるというのは。」
私はとっても怯えました。親切な同僚に、怯えました。それは何故なのかは分かりませんでしたが、私が怯えたのは、同僚の仕事の速さに感服する事で感じる怯えではなく、腕が4本あるヒトの姿でもなく、その、私を捉える、どこへ向けているのか分からぬ恍惚さに潤んだ目に怯えたのでした。
あぁ、私は美しくなっても、ダメな人間だ。やっと両手ができたのに、ダメな人間だ。そう思いました。そして、私も、右腕を3本増やして4本にしようと、また決意するのでした。
それから私は社内で成績トップを収める人間になりました。その時には私の右腕は5本になっていました。人によっては手術が失敗したり、体質に合わなかったりするそうなので、右手を5本にできる人間は世間でもとても珍しかったのです。私はどの女にも言い寄られ、後に入社した後輩達は私を敬い、尊敬し、努力して足を4本にしたり、手を3本にしたりしました。皆が私になりたがりました。
いい気分でした。今の私は、誰よりも美しい。そう思いました。
ある日、全社合同の表彰式がありました。成績優秀な私は皆から羨望の眼差しを向けられ、当然の振る舞いをする。そうたかを括っていました。ですが、違いました。いえ、表彰はされたのです。されたのですが、私はその表彰の証である紙切れを物理的に受け取れなかったのです。長い間、ほとんど左手を使っていなかったので、左手が上がらなかったのです。右手だけで表彰を受け取る事は、マナーを重んじるこの会社では意に反します。それに、私を敬う後輩や、同僚、女が後ろに沢山います。皆から尊敬される美しい私にはそんな事絶対にできません。
なんとか左手をあげようと努力しました。とってもとっても力を込めました。ですが、動きませんでした。私は久しぶりに後悔しました。
利き手だけでなく、生まれた時からずっとあったはずの左手にもっと目をやり、活用すればよかったなと。
とてもとても後悔して、私は惨めな思いでそこから逃げ出しました。便所の個室へ駆け込み、便器に腰をかけ、苛まれない感覚で自己嫌悪に陥りました。すると、2人の人間が入ってきて言いました。
「まぁ、ヒトそれぞれだから。腕を増やすのも増やさないのもヒトそれぞれ。出世したいかどうかもヒトそれぞれ。別にあのヒトの生き方はあのヒトの生き方で、いいんじゃない。」
私は怯えました。恐怖しました。かつて、同僚が私にあの恍惚な目を向けた時よりも、はるかに強く。寒くないのにガタガタと震えが止まりませんでした。
ヒトソレゾレという言葉は現代では魔法の様に唱えられています。とても便利で、効率的で、なんだか素晴らしい。ある人にとっては万能の薬で、ある人にとっては劇薬なのです。
私は右手を5本にする手術には耐えられましたが、その言葉に対しての耐性がなかったのです。いや、無くなったと言う方が正しいのかもしれません。
結局、その2人の顔を見る事はありませんでした。ですが、あの2人が小便をしながら、あの潤いに満ちて、優越感に浸った恍惚な目を見合わせているのが容易に想像できました。
やはり、人間は、恐ろしい。
他者の優越を、ずるずるとストローなどで啜って、栄養にしていかなければ生きていけない。
蚊や、アリクイと同じだ。
あぁ、恐ろしい。そして血や蟻を食って生きる生き物ほどに気味が悪い。
そうして、私は絶望に満ちた気持ちで便所の鏡を見ました。
けれどもやはり、左手が使い物にならないのなら、左手もまたさらに増やせば良いのではないか、という結論にしか至らないのでした。




