表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
92/182

第三部 第一章 第8話

 数日後――。


 王立魔導学院の中庭に面した自習棟の一室。

 夕暮れの柔らかな橙色の光が、大きな窓から差し込んでいた。

 机の上にはクラリスから渡された古代魔導構文の断片が散らばり、

 隣では演算補助用の小型魔導プレートが淡く光を放っている。


 静まり返った室内では、三人の呼吸と筆の音だけが響いていた。

 アリス、レティア、フィオナの三人は、それぞれ資料に向かい、

 言葉少なに集中していた。


 アリスは端末に映る複雑な構文断片を凝視し、眉間に皺を寄せる。

「改めて見ると……本当に骨が折れる課題だね」


 その声には、重みと覚悟があった。

 レティアは眼鏡の奥で冷静な視線を巡らせ、ペンを走らせながら答える。


「語順の法則も変則的だし、記号の意味がまったく読めない部分もあるわね。

 これは文法レベルから再構成した方がいいかもしれない」


 その声音は落ち着いていたが、内に燃える知的興奮があった。


 一方、フィオナは静かに資料をめくり、柔らかな声で言った。

「私、古代王国期の経済文書を翻刻するのが趣味でして。

 少しだけ、この時代の構文には馴染みがありますの」


 アリスとレティアはほっとしたように顔を上げ、微笑む。

「さすがね、頼りになるわ」

「本当に助かるよ、フィオナ様――あっ……」


 アリスは思わず敬称をつけてしまい、慌てて口を押さえた。

 フィオナはその様子に小さく笑みを浮かべる。


「もう……“フィオナ様”なんて呼ばないでくださいな。

 ここでは学生ですもの。身分で呼ばれるのは、なんだかくすぐったくて」


 頬を染めたその表情は、王族としての気品を保ちながらも、

 年相応の少女の柔らかさを帯びていた。


 レティアはペンを止めて目を瞬かせる。

「でも……つい、ね。あなたの立場を思うと、自然にそう呼んでしまうの」


「ふふっ、レティアさんの真面目なところ、好きですわ」


 フィオナの笑みに、レティアの頬がわずかに赤く染まる。

 アリスは苦笑混じりに肩をすくめた。


「じゃあ、もう“フィオナ”でいいのね?」

「ええ、ぜひそうしてください。……友人として、ですわ」


 その言葉に、アリスとレティアは視線を交わし、自然と笑みを浮かべた。


「了解。じゃあ、フィオナ、構文の意味解析をお願い。私は構造変換をやる」

「ええ、任せてくださいな」

「アリスは演算式の簡素化と、魔力式の安定検証をお願いできる?」


「うん、得意分野だし任せて。暴走しないよう制御式も見直しておく」

「頼もしい限りですわね」


 フィオナの微笑みに、アリスも頬を緩めた。

「……なんか、王女にそう言われると不思議な感じ」


「だから、今は“学生のフィオナ”ですってば」


 軽口を交わすうちに、張り詰めていた空気がふっと和らぐ。

 レティアは穏やかに笑い、筆を置いた。


「ふふ……本当に、いい時間ね」


 フィオナは頷き、窓の方へ視線を向ける。

「はい。こうして机を並べて、同じ課題に向かって……

 意見を交わしながら過ごす時間。私には、少し夢のようなんですの」


 その瞳には、まっすぐな憧れが宿っていた。


 アリスは優しい笑みを浮かべて答える。

「私も、こうして話せるのが嬉しい。

 クラリスさんもきっと、私たちがこうして関わることを望んでたと思う」


「そうね」

 レティアは静かに頷く。


「こういう時間を持てること――きっと、彼女も願っていたのよ」


 フィオナは少し目を伏せ、心の奥でその言葉を噛みしめた。

「……ありがとう。お二人にそう言ってもらえると、少し勇気が出ますわ」


「勇気?」

 アリスが首を傾げると、フィオナは微笑みながら続けた。


「ええ。王族という立場のままでは、どうしても距離ができてしまうもの。

 でも、こうして“同じ机を囲む仲間”でいられるなら、

 きっと――少しずつ、自分の殻を破れる気がしますの」


 レティアは穏やかに微笑み、短く息を吸った。

「殻を破るより、私たちで広げていけばいい。

 “誰かのため”じゃなく、“自分のため”にね」


「……レティアさん、時々すごく強い言葉を言いますのね」

「そう? ただの本音よ」

「ふふ……本音、ですのね」


 アリスは二人のやり取りを微笑ましそうに聞きながら、

 光のペンで符号をなぞった。


「よし、じゃあ再開しよう。フィオナ、構文の意味解析お願い。

 レティア、符号構造の整合性を頼む」


「了解」

「はい、任せてくださいな」


 再び三人の声が重なり、部屋に静かな緊張が戻る。

 窓の外では陽が沈み、橙が群青へと変わっていく。

 淡い光の中で、三人の影が机の上に寄り添うように重なっていた。


 やがて――静かなノック音が響いた。

 扉が開き、フィオナの護衛騎士と学院付きの使用人が姿を現す。


「お嬢様、お時間が遅くなっております。

 どうかご無理をなさらずに」


「アリス様、レティア様も、少しお休みを挟まれては?」


 三人は顔を上げ、互いに視線を交わした。

 フィオナが立ち上がり、柔らかく頭を下げる。


「ご配慮ありがとうございます。ですが、もう少しだけ続けさせてください」


 その声は穏やかで、しかし確かな意志を宿していた。


「こうしてアリスさんやレティアさんと、学生として同じ課題に向き合って、

 意見を出し合って……こんな時間が、とても嬉しいんです。

 こんなふうに過ごすのは、わたくし、初めてで」


 彼女は少し恥ずかしそうに微笑む。

 アリスがその表情に優しく笑い返した。


「もちろん。私も意外と楽しんでた。こういう夜、嫌いじゃないよ」

「そうね」

 レティアが肩をすくめて言う。


「王女様と深夜の作戦会議なんて、滅多にない経験だし」

「もう、ふたりとも……」


 フィオナは苦笑しながら小さく首を振った。

「でも、ありがとう」


 護衛たちは軽く会釈し、静かに扉を閉めて退出した。

 再び静寂が戻り、三人は資料と向き合う。


 時間が過ぎ、扉が再びノックされた。

「お嬢様、皆様。お疲れのところ失礼いたします。

 夕食兼夜食をご用意いたしました」


 使用人が銀のワゴンを押して入ってくる。

 上には湯気の立つスープ、焼き立てのパイ、フルーツサラダが並び、

 香ばしい匂いが部屋に広がった。


「これ、厨房に特別注文したの?」

 アリスが驚きの声を上げる。


 フィオナは少し照れたように笑った。

「ええ。夜更かしになると思いましたから……

 少しでも胃に優しいものをと思って」


「さすがね」

 レティアがスープを口に含み、ほっと息を漏らす。

「この味、優しいわ」


「ふふっ、さすが王女様だわ」

 アリスが笑いながらパンを割る。


「もう……そう呼ばないでくださいな」


 フィオナが照れ笑いし、三人の笑い声が重なった。


 短い食事のあと、三人は再び机に戻る。

 アリスが光のペンで構文の一節を示した。


「ここ、この節点……ループ演算式になってる」

 レティアがすぐに反応する。


「なら、補助演算子に置き換えて無限遷移を止める構造に変えましょう」


 フィオナが静かな声で語る。

「構文の原義……おそらく“境界転写”と訳すのが自然ですわ。

 古代語で“ズィリィ=トゥラグ”――意訳すれば“内から外へ写す”」


「それ……クラリスの論文にあった!」

 アリスが立ち上がり、端末を操作する。


「“転写構文理論”の初期段階と一致してる!」


 レティアが頷き、感心したように笑った。

「やっぱりクラリスさん、そこまで見越してたのね」


「本当に、あの方の先見性には驚かされますわ」

「でも今回は、こっちが一歩先を取ったかもね」


 アリスが冗談めかして言い、レティアが軽く肩を小突く。

「ふふ、珍しくね」

「もう……」


 フィオナはその様子を微笑ましく眺め、

「でも……本当に息が合ってますのね」と穏やかに言った。


 アリスとレティアは顔を見合わせて笑い、頷いた。

 夜が更け、窓の外は深い群青に染まる。

 それでも三人の作業は止まらなかった。


「……出力、安定してきた。魔力伝導率の誤差も許容範囲内」

「構文解析、成功。構造変換も完了よ」

「文意の確定。“一時的境界の超越と術式連結”――間違いありません」


 三人は顔を見合わせ、小さく拳を合わせた。

「やったね」

「ええ、きっとクラリスさんも驚くわ」

「提出が楽しみですわね」


 外の空が淡く明るみ始める。

 レティアが小さなあくびを漏らした。


「……もう夜明けね」

「ほんとだ……朝焼けが見える」


 アリスが窓の向こうを眺めながら呟く。

 フィオナは頬杖をつき、静かに微笑んだ。


「でも……こういう夜、とても素敵ですわ。

 学生として過ごす夜を、こんなに楽しめるなんて思いませんでした」


 アリスが伸びをして笑う。

「レポートはまだ時間あるし、今日は一度休もう」


「そうね。寝不足で倒れたら、クラリスさんに怒られるわ」

「ふふっ、確かに」


 三人は笑い合いながら荷物をまとめる。


「おやすみなさい、アリスさん、レティアさん」

「おやすみ、フィオナ。また明日」

「ええ、良い夢を」


 夜明けの光が窓を満たし、三人の影が伸びて重なった。

 それはまるで、未来へと続く一本の線のように――。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ