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第三部 第一章 第6話

 その夜。

 学院の中庭は、昼間の賑わいがすっかり消えていた。


 夜空は澄み渡り、満天の星が瞬きながら静かに見下ろしている。

 噴水の水面は月光を受けて銀の鏡のように輝き、水滴が落ちるたびに淡い光の輪が広がった。

 風が樹々の葉を揺らし、葉擦れの音が微かに耳をくすぐる。


 アリスは噴水のそばのベンチに腰を下ろし、少しだけ前かがみになって夜空を見上げていた。

 両手をポケットに入れ、吐く息をゆっくりと白く散らす。

 昼の講義で受けた衝撃が、まだ胸の中で小さく波を立てていた。


 その時、背後から控えめな足音が近づいてきた。

 白衣の袖が風に揺れ、月光を反射する。

 アリスが振り返ると、クラリスが穏やかな笑みを浮かべて立っていた。


「……聞いてないよ、クラリス!」

 アリスは頬をふくれさせ、顔をぷいと背ける。

 その声には、驚きと少しの拗ねが混ざっていた。


「通話では一言も言わなかったよね。講師で魔術学院に来るなんて!」

「しかも初回講義からいきなりサプライズって、心臓に悪いんだけど」

「心の準備くらいさせてよ……せめて“来る”ってだけでも」


 クラリスはその反応に軽く肩を揺らし、申し訳なさそうに微笑んだ。

「ふふ、ごめんなさい。でも、ちょっとだけ驚かせたくなっちゃって」

「ちょっとどころじゃないよ!」

 アリスは目を見開き、声を上げる。

「レティアなんて最初から最後まで口が開いたままだったし、フィオナだって『……あら?』って顔してた! 私も心臓が跳ね上がるくらいびっくりしたんだから!」


 クラリスは唇に指を当て、くすりと笑った。

「そう……やっぱり驚いたのね。ふふ、でもその表情、少し可愛かったわよ?」

「可愛くない! 驚きすぎて変な声出たし……!」


 アリスがふてくされたまま視線を逸らすと、クラリスはそっと彼女の隣へ歩み寄り、白衣の袖で夜気を払いながら距離を詰めた。

「本当にごめんなさい。実はね、正式決定が出るまで言えなかったの。候補の段階で期待させるのはよくないと思って」

「……それでも、ひとことくらい“サプライズあるかも”って言えたよね」

「そうね。そこは私の悪い癖。次からはちゃんと予告するわ。驚かせるにしても、心臓に優しい範囲で」


「約束」

「約束」


 クラリスは小さく息を吐き、ベンチの隣に静かに腰を下ろす。

 ふっと微笑み、手のひらでアリスの頭頂にそっと触れる。

「ほら、機嫌直して。今度埋め合わせに、研究室の特製カカオ飲料をご馳走するから」

「……甘口のやつ」

「ええ。あなたの好きな甘口」

「うん、少しだけ許す」


「でもね、アリス。あれにはちゃんと理由があるんですよ」

 アリスは横目でクラリスを見た。

「理由?」

「ええ。ミラージュとファーレンナイトの交流強化の一環で、講義の講師として研究者を派遣することになっていたの」


 クラリスは夜空を仰ぎながら、穏やかな声で続けた。

「それで、たまたま私に話が回ってきたというわけ」

「つまり……外交の一環ってこと?」

 アリスは顎に手を当て、少し考えるように呟いた。


 クラリスは微笑みながら、首を横に振る。

「まあ、それもあるけれど……本当の理由は、もう少し個人的なものなの」

 アリスは目を瞬かせた。

「個人的?」

「そう。前にあなたたちを研究室に呼んだとき、感じたのよ」


 クラリスの声が少しだけ柔らかくなる。

「レティシアやセリーネとしてじゃなく、“今の私たち”として、もう一度なにかを築きたいって」

 アリスはその言葉を聞き、しばし黙って夜空を見上げた。

 噴水の水音が、二人の間の沈黙を優しく埋める。


「……だから学院で教えることにしたんだね」

 クラリスは頷き、少し照れたように笑う。

「ええ。あちこちに掛け合って、無理やり講師申請を通しちゃったの。

 推薦状や講義計画書を夜なべして何枚も書いたわ。気づけば夜明けになってたくらいよ」

 アリスは吹き出した。

「もう、それ完全に“ごり押し”だよね」


 クラリスは胸を張って、堂々と答えた。

「ふふ、意地と情熱の勝利って言ってほしいわ」

 アリスも笑みを浮かべながら頷く。

「うん……でも、なんか分かる気がする。あの講義、すごく新鮮だった。難しかったけど、私、ちょっとワクワクした」


 クラリスはその言葉に、満足げな表情を浮かべた。

「そう言ってもらえると嬉しいわ。第二回目からは、もっと面白くするつもりよ。追加課題の発表もあるし」

 アリスは軽く肩をすくめた。

「うわ、それ、ちょっとプレッシャー……でも、頑張るよ」


 二人の笑い声が、夜の空気に溶けていく。

 その静けさの中で、クラリスの瞳が少しだけ真剣な光を帯びた。

「……それとね。実は、私が学院に来たもう一つの理由があるの」

 アリスは顔を上げた。

 クラリスの声色が、ほんのわずかに重みを帯びていた。


「アリス。あなたが“力”を使う時――周りの人たちはまだ、その本当の意味を理解していないわ」

 クラリスは静かに噴水の水面を見つめる。

 月の光がその瞳に反射し、青白い輝きが揺れた。

「あなたの魔力の質も、展開の速度も、制御の精度も……常識を遥かに超えている。

 だからこそ、人によっては“恐怖”や“異質さ”として受け取ってしまうの」


 アリスはわずかに眉を寄せた。

「……うん。わかってる。みんな、なんとなく察してる気がする。

 でも、怖がられたくないんだ。私、ただ普通に……学院の生徒として見てほしいだけなのに」


 クラリスはそっとアリスの肩に手を置いた。

 その掌の温もりが、冷えた夜気に溶けて広がる。

「だからこそ、私はここに来たの」

 クラリスは穏やかに微笑みながら言った。

「あなたが力を使うたびに、“ああ、アリスなら当然だ”って思わせるように。

 “恐れ”ではなく“尊敬”として受け止めてもらえるように、少しずつ印象を変えていくのが目的の一つなの」


 アリスの瞳が揺れる。

「……それって、つまり――私のことを守るために?」

 クラリスはわずかに目を細め、頷いた。

「守る、というより“整える”ためよ。あなたがこれから進む道を、少しでも歩きやすくするために」


「学院の生徒たちは、あなたの力をまだ“結果”でしか見ていない。

 でも講義を通して、あなたが理論や構造を理解して扱っている姿を見せれば――

 “天才的な学生”として自然に受け入れられる。そう思ってもらえたら、それでいいの」


 アリスはしばし黙り、やがて小さく息を吐いた。

「……クラリス、やっぱりずるいよ。そんなに全部考えてたなんて」

 クラリスはいたずらっぽく笑う。

「ふふ、研究者はね、何手先も読むものなの。特に、大切な人のことなら」


 その一言に、アリスの胸の奥がじんと温かくなる。

「……ありがとう、クラリス。私、がんばるね。

 あの時みたいに、自分の力をただの“異質”で終わらせたくない」

 クラリスは頷き、柔らかく微笑んだ。

「それでいいの。あなたはもう、自分の力に振り回される子じゃない。

 どう使うかを知っている。それが、何よりも強さよ」


 アリスは微笑み返し、視線を夜空へ向けた。

「うん。……ねぇ、クラリス。学院にはどれくらいいる予定?」

「ひとまず三ヶ月。〈一クール〉ってところね」

 クラリスは指を折って数える仕草をした。

「もちろん、延長もできるけど。今は試験運用みたいなものだから」


 アリスは頷き、少し寂しそうに笑う。

「三ヶ月か……学期の前半、九月くらいまでだね。

 じゃあ、その頃には私が案内してあげる。ファーレンの街とか、私の故郷のエクスバルドとか」

 クラリスは目を細め、夜風に揺れる髪を指先で押さえながら言った。

「それは楽しみですね。昔は戦場ばかり見ていたから……今の穏やかな街並みを、ゆっくり見てみたいの」


 アリスは優しく頷き、笑みを浮かべる。

「じゃあ決まり。テスト明けの休みに、ゆっくり散歩しよう」

 クラリスも微笑んで頷いた。

「ええ、ぜひ。約束ですよ」


 遠くの時計塔が一度、静かに鐘を鳴らす。

 夜の学院に、冷たい風がふわりと吹き抜けた。

「そろそろ戻ろうか」

 アリスが立ち上がり、軽く背伸びをする。

「ええ。またね、アリス」

 クラリスも立ち上がり、穏やかな笑みで応じた。

「うん。また講義で会おうね、クラリス」


 二人は小さく手を振り合い、月光に照らされながらそれぞれの寮へ歩き出す。

 噴水の水音が、遠ざかる背中を静かに見送っていた。

 夜空の下、光る星々が、まるで二人の未来を祝福するようにきらめいていた。

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