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第三部 第一章 第3話

 大講堂の重厚な扉をくぐると、すでに多くの生徒たちが着席していた。


 ざわめきが波のように広がり、やがてそれは徐々に沈静していく。

 壇上では複数の教師たちが並び、資料の最終確認に余念がない。

 ページをめくる音、ペンの先で軽く机を叩く小さな音。


 その一つ一つが、講堂全体に静かな緊張感を満たしていた。

 磨き上げられた木材の香りがほのかに漂い、天井の高窓から差し込む光が机の上をやわらかく照らす。

 光はまるで、古い教会のステンドグラスを通したように温かく、荘厳な空気が広がっていた。

 アリスは深呼吸をひとつして、周囲を見渡した。


 背筋を伸ばして前を向く生徒、緊張で肩をすくめる者、資料にすがるように目を通す者――どの顔にも“新しい学年”への期待と不安が入り混じっている。

 空いている席を見つけ、レティアと並んで腰を下ろす。

 二人の間に、ほのかな木の匂いと紙の感触が漂った。


「いよいよ五年生って感じだね」

 その声には、未来を見据える決意と、少しの緊張が入り混じっていた。


「うん。講義だけじゃなくて、実技や演習も本格的になるって聞いてる。カリキュラムの組み方、ほんとに慎重に考えないと」


 アリスはペンを指先でくるくる回しながら小さく笑う。


「もう“慣れるための授業”じゃなくて、“責任のある訓練”って感じだね」


「そうね。私たち、もうすぐ卒業が見えてくる年だもの。学院も、学生じゃなくて“準戦力”として見るようになるはず」

 レティアの言葉は静かだが、どこか誇らしげでもあった。


「責任か……」

 アリスは少し視線を落とし、自分の手のひらを見つめた。


「前の演習で感じたけど、力を持つって、それだけで覚悟を求められるんだね」


 レティアはその横顔を見つめ、柔らかく微笑む。


「でも、それを分かってるあなただから大丈夫よ」


「……ありがとう」


 その時、壇上に司会の教師が静かに登壇した。

 会場の空気が一気に引き締まり、ささやき声がすっと消えていく。


「これより、第五学年カリキュラム・オリエンテーションを始めます」

 低く落ち着いた声が講堂に響く。

 その一言で、室内の空気が完全に“講義の場”へと変わった。

 教師たちは整然と並び、資料を手に一斉に視線を上げる。


 説明が始まると、ページをめくる音が幾重にも重なった。


「今年度より、実技演習および学外協力課題を拡充します。選択講義の履修については、各自の得意分野と将来計画に基づいて判断するように……」


 その言葉を聞きながら、アリスは心の中で自分の選択を反芻していた。

 講師の声は穏やかだが、一言一言が重く響く。


 “責任”“将来計画”“実践”。

 その言葉たちが、まるで試練のように心に刻まれていく。

 アリスは配布されたカリキュラム一覧表に目を落とした。

 びっしりと並んだ講義名と演習科目。

 戦術魔導学、戦場解析、魔導理論応用、対人訓練、符術工学、結界実技、戦術補佐――。


「結構、選択肢多いんだね……」


 小さく漏らした声には、期待と迷い、そして少しの不安が混じっていた。


「ほんとに。どれも魅力的だけど、時間割のバランス考えると悩ましいわ」


「午前中の講義が重なるのも多いね。演習Ⅱと魔導応用、両方取るのは無理そう」


「そうね……私は符術戦術の方を優先したいけど、あなたはどうする?」


「うーん……実戦型の演習は外したくないな。いざという時の対応力を磨いておきたいし」


 アリスの指が一覧の端をなぞる。

 その横顔には、真剣な光が宿っていた。


「でも、講義だけで週五日ぎっしりになると、補講がきつそうね」


「補講は……できれば避けたいかな」

 アリスが苦笑しながら呟くと、レティアも小さく笑った。

「去年もそう言って、結局一番多かったのはあなたでしょ」


「うっ……記録残ってたんだ」


「当たり前。学院のデータベースは全部残るのよ?」


「ひどい世界だ……」


 二人は顔を見合わせて笑い、緊張の空気の中にほんの一瞬だけ、柔らかな和らぎが生まれた。


「なお、学外協力課題の対象には、ミラージュ王国およびエルファーレとの合同研究班も含まれます」


 その言葉に、教室の空気がわずかにざわついた。


「ミラージュとの合同……やっぱり本格的に始まるんだね」


「ええ。学院としても、外交の延長線上に立たされてるのよ」

 レティアの声は静かだが、その瞳には確かな覚悟が宿っていた。


「私たちも、覚悟を決めなきゃね」


「うん。でも、焦らずいこう。――ね」


「うん」


 二人は短く微笑み合い、視線を資料へ戻した。


 再び、教師の説明が続いていく。

 重ねられる言葉の一つひとつが、これからの一年の重さを告げていた。

 アリスはページの端を指で押さえながら、心の中で静かに誓った。


 ――この一年を、必ず意味のあるものにする。


 その想いが、陽光に照らされた机の上で、静かに燃えるように揺れていた。




 一覧表に記された講義と実技科目は以下の通りだった。確かな予感だった。


 ■《五年次選択講義・実技科目》


 【高密度魔力制御・応用編】

 ──高出力魔法の安定的運用と暴走対策、魔力濃度圧縮技術の演習。


 【多重詠唱演算実習】

 ──複数術式の同時展開を実戦レベルで修得する実技科目。


 【戦術魔導・戦場環境適応訓練】

 ──模擬戦場での展開を通じ、複雑な戦術状況下での判断力と応用魔導力を鍛える。


 【対幻術・対精神干渉技術】

 ──幻惑・催眠・精神支配への対抗技術を学ぶ。


 ・

 ・

 ・


 【古代魔導理論と再構築演習】

 ──旧世代魔導術式の解析と現代への応用技術。

 ミラージュ王国第二研究室監修。


 【精霊との協調演習・高等編】

 ──契約精霊との連携を強化し、魔力共鳴率を引き上げる。


 【術式構築特論・個別研究枠】

 ──各自の研究テーマに沿った独自の魔導術式開発に挑む。

 提出課題あり。


 ・

 ・

 ・


 アリスは指先でゆっくり「高密度魔力制御・応用編」の文字をなぞり、わずかに唇を引き結んだ。


「……この講義は受けたい。どうしても魔力濃度が高くなりがちだから、早めに制御できる技術を身に付けたいの」


 その声音には、過去の失敗と苦労――そして、それを乗り越えたいという強い意志が込められていた。

 かつて暴走しかけた魔力の記憶が、一瞬だけ胸の奥で疼く。


 レティアはアリスの横顔を見つめ、真剣な表情で頷いた。

 そして、手元の一覧から「多重詠唱演算実習」と「戦術魔導・戦場環境適応訓練」の欄に、ためらいなくチェックを入れる。


「私はこの二つは外せないわ。生徒会の模擬演習にも関わるし、演算速度ももっと鍛えておきたいの」


「レティアはやっぱり前向きだね」


 アリスが微笑むと、レティアは少し照れたように肩をすくめた。


「前向きっていうか……負けず嫌いなだけ。あのリヒトに言い負かされたくないし」


「ふふっ、そこがレティアらしい」


 二人の間に柔らかな笑いが生まれ、緊張した講堂の空気がほんの少しだけ和らぐ。


 アリスは小声で囁くように尋ねた。


「ねえ、この『古代魔導理論』って、クラリスさんの研究室が関わってるんだよね?」


 レティアは即座に一覧表を指差し、確認するように頷いた。


「ああ、そう。ミラージュ王国第二研究室監修って書いてある。――アリス、これはもちろん取るんでしょう?」


 アリスの瞳が一瞬、深い光を宿す。


「うん。……取る。間違いなく」


 その声には、静かな決意と確信があった。

 瞳の奥に、遠い記憶――白銀の残骸と、瓦礫の中で見上げた青空――がよぎる。


 “ワルキューレ”。

 彼女にとってそれは、運命と贖罪の象徴だった。


 レティアはアリスの表情の変化に気づき、何も言わずにそっと隣で微笑んだ。


「……ねえ、フィオナ様にはもう話したの?」


「うん。“どの講義を受けるか決まったら教えてね”って言われてる。だから早めに決めちゃおうと思って」


「それがいいわね。きっとフィオナ様も楽しみにしてる」


 アリスは表情を和らげ、資料をまとめながら頷く。


「“様”ってつけるの、まだちょっと慣れないんだけどね」


「まあ、王族だしね。でも、あの方のことだから、きっと気にしないわ」


「だといいけど……」


 アリスが苦笑すると、レティアもおかしそうに笑った。


「それにしても、フィオナ様は特別留学扱いだから、選択科目ならこの講義も一緒に受けられるわよ」


「ほんと? じゃあ、“高密度魔力制御”と“古代魔導理論”で一緒になるかもしれないね」


「ふふっ、いい組み合わせね。あなたが一緒なら、あの方も心強いはず」


「そうだといいな……。去年から補講続きで、少し遅れを取り戻したいし」


「補講ねぇ。あなた、夜まで残ってたの何回だっけ?」


「十……いや、十二?」


「数えるほど残ってるじゃないの」


「……う、うるさいな」


 アリスが視線をそらすと、レティアはくすりと笑い、肩を軽く叩いた。


「ま、いいわ。二人で受ければ補講も怖くないでしょ」


「うん。……ありがと」


 ちょうどそのとき、講堂上空の水晶スピーカーが淡く光り、司会者の声が響いた。


「カリキュラム登録は、本日午後五時までに学務局へ提出してください。演習枠は定員制のため、希望がある場合はお早めにお申し込みください」


 アリスとレティアは互いに顔を見合わせ、資料を閉じる。


「よし、決まりだね。――行こうか」


 アリスは気合を込めて立ち上がり、胸の前で拳を軽く握った。


「さあ、登録に行こう。明日からもう講義が始まるんだって」


「ほんと、気を抜く暇がないわね」


 レティアは苦笑しながらも、しっかりと資料を抱え直した。


 二人が講義棟を出ると、初夏の風が頬を撫でた。

 柔らかな陽光が石畳を照らし、風に揺れる樹々の葉がきらきらと反射している。


 青空は高く澄み、学院の塔の影が穏やかに伸びていた。

 その広場の中央――フィオナが、誰かを探すようにきょろきょろと周囲を見回していた。

 白い制服の裾が風に舞い、金色の髪が陽光を受けて輝く。


「フィオナ様!」


 アリスが声をかけると、彼女はぱっと顔を上げ、嬉しそうに駆け寄ってきた。


「アリスさん! レティアさんも……よかった、間に合いましたわ!」


 息を弾ませながらも、その瞳には安堵の光が宿っていた。


「講義、決まったよ。これが私たちの登録リスト」


 アリスが講義票の写しを差し出すと、フィオナは受け取り、熱心に目を通した。


「ふふ……思った通りの内容ですわね」


 彼女の頬がほころぶ。


「私もいくつか同じ講義を選びましたの。特に『高密度魔力制御』と『古代魔導理論』は、ぜひご一緒したくて」


 アリスの瞳がぱっと輝く。


「奇遇ね。私たちもちょうどその二つは外せないって話してたところなの」


 レティアが笑いながら肩をすくめる。


「まあ、それは嬉しい偶然ですわね。――きっと刺激になりますわ。アリスさんとレティアさんと一緒なら」


「こちらこそ頼もしいよ、フィオナ様。お互いにいい刺激になると思う」


「ふふ、そう言ってもらえるなんて光栄です」


 フィオナは胸の前で手を組み、ほっとしたように笑った。


「明日から一緒に頑張りましょうね、フィオナ様」


 アリスが柔らかく言うと、フィオナは少し頬を染めながら首を振る。


「ええ、どうか“フィオナ”と呼んでくださいませ。こうして学院で共に学ぶなら、その方が嬉しいですの」


「……じゃあ、フィオナ。よろしくね」


「はい。アリス」


「私も、レティアでいいからね」


「ええ、レティア」


 三人の笑い声が、初夏の風に溶けていく。

 講義棟前の広場には、若葉の匂いと、新しい季節の光が満ちていた。


 それは――これから始まる新たな日々への、確かな予感だった。

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