第三部 第一章 第1話
ファーレンナイト王国への帰国後、アリスたちは王立魔導学院および所属する第二騎士団〈十五班〉に対し、ミラージュ王国での魔物討伐演習において発生した《バロール・ビースト亜種》との遭遇戦について報告を行った。
報告では、演習前日に周辺森林で“人の歌声のような音”が断続的に観測され、翌朝には一帯が不自然な静寂に包まれたこと、続いて古代語術式の魔方陣が出現し、そこから亜種四体が出現した経緯が説明された。
アリスたちは連携戦術によってこれを撃破したことなどの報告を行った。
王立魔導学院はすでに通常授業が再開されており、特別休暇の延長は認められていたものの、翌日からは学院の授業に復帰しなければならなかった。
実技科目は免除されたものの、座学の講義は補講として組み込まれ、放課後には毎日のように授業の遅れを取り戻すための補講に追われる日々が続いた。
「はぁ……やっと午前の講義、終わったわね」
レティアが机に突っ伏し、疲れたように息を吐く。
「眠気との戦いが本気で魔術より難しいわ……」
アリスは苦笑しながらノートを閉じた。
「私も同感。戦場より机の方が根気を使うなんて、誰が想像したかしら」
「でも、あなたは全部きっちり復習してるじゃない。私なんてノートの文字が魔法陣に見えてきたわ」
「それはそれで才能かも」
そう言ってアリスは小さく笑い、視線を窓の外へ向けた。
教室の窓からは初夏の柔らかな光が降り注ぎ、外の緑が鮮やかに揺れている。
穏やかな陽射しの中、彼女の心は疲労と集中の狭間で揺れていた。
重たい教科書やノートに向き合いながらも、アリスは一つ一つの課題を着実にこなし、確実に前へと進んでいた。
それでも、ときおり頭をよぎるのは、あの森で聞こえた“歌声”の記憶。
あれは幻だったのか、それとも――。
さらに夜――
初めのうちは、疲れを忘れたかのように魔導通話機を介して、ほぼ毎晩のようにクラリスと連絡を取り合っていた。
通話越しに聞こえる彼女の声は、どんな疲れも吹き飛ばすように明るい。
『アリス、今日も補講だったんでしょう? 本当にお疲れさま』
「ありがとう。でもクラリスこそ、開発局の方は大丈夫? また徹夜してるんじゃないの?」
『うっ……まあ、否定はできないわね』
小さな笑い声が通信の向こうで弾む。
『でも、あなたが無事に戻ってきてくれただけで、もう充分よ』
「……もう、そういう言い方するの、ずるいわ」
『ふふ、そうでしょう?』
そんな穏やかな時間が続いたが、補講の復習や自習時間が増えるにつれ、夜更かしは難しくなっていった。
やがて通話の頻度は三日に一度へと自然に減り、それでも互いに短い言葉で近況を伝え合った。
「次の学年末試験、落としたら泣くわよ……」
『その時は慰めてあげる。甘いもの持って行くわ』
「……じゃあ、落ちてもいいかも」
『ダメ。そういう発想は危険』
そんな冗談を交わしながら、日々の忙しさを乗り越えていく。
そして迎えた六月。
新学期の初夏の風が学院の中庭を抜ける。
「……やっと、五年生ね」
アリスが静かに呟くと、レティアが隣で笑った。
「ここまで、長かったようで早かったわね」
「ええ。でも、また次がある。――ここからが本番よ」
蒼い空の下、制服の袖を揺らす風は穏やかで、
その中でアリスたちは新たな日常へと歩み出していった。
学院は新たな学年の幕開けと共に、活気に満ちていた。
門前には行き交う生徒の姿が絶えず、制服の襟を直す者、書類を抱える者、初めて訪れる新入生の緊張と期待の声が、春の名残を残した初夏の空気の中で溶け合っている。
王立魔導学院の広い中庭には、朝から香り立つ風が吹いていた。
花壇には色とりどりの花が咲き乱れ、淡いピンクの花弁が風に舞い、芝生の上へとゆっくり降りていく。
木陰では留学生らしき生徒たちが談笑し、魔導端末の使い方を教え合う姿も見える。
年々盛んになる国際交流の波は、今年も例外ではなかった。
王都セレヴィアと同規模の都市から、東方連合、エルファーレ、そしてミラージュ王国――各国から選抜された優秀な学生が、魔導学の理論と技術を学ぶために集っている。
その中に、一際目を引く少女の姿があった。
淡い金糸の髪が陽光を受けてきらめき、整った顔立ちには王族特有の気品が宿る。
ミラージュ王国第三王女、フィオナ=ミラージュ。
あの晩餐会でアリスが出会い、短いながらも深い印象を残した少女だった。
その日、アリスは友人たちと中庭のベンチで昼休みを過ごしていた。
木漏れ日が頬を撫で、心地よい初夏の空気が流れている。
のどかな光景――だが、アリスの視線はふと動きを止めた。
中庭の奥。
学院の中央棟から伸びる石畳の道を、数名の護衛を伴って歩く少女の姿があった。
群青と白を基調とした学院の制服をまとい、その一歩一歩が自然と人々の視線を引きつける。
陽光を受けた金の髪が風に揺れ、その微笑みは見る者の心をほぐすように柔らかかった。
アリスは思わず立ち上がった。
「あれ……フィオナ様?」
小さくもはっきりとした声が漏れた瞬間、周囲の友人たちが一斉に振り返る。
その声に気づいたのか、フィオナも足を止めた。
護衛の一人が前に出ようとしたが、彼女は手を軽く上げて制止し、穏やかな笑みを浮かべる。
その表情は、晩餐会の夜に見せた高貴な微笑みとは違っていた。
もっと柔らかく、親しみのこもった笑顔。
「お久しぶりです、アリスさん。まさかこんなに早く再会できるとは思いませんでしたわ」
その声は、まるで鐘の音のように澄んでいた。
アリスの胸の奥で、何かが静かに弾ける。
「こちらこそ。こうして学院でお会いできるなんて、なんだか夢みたいです」
「本当に……。あの晩餐会で交わした言葉が、こうして現実になるなんて」
「私も同じ気持ちです。あの夜はまだ、“違う世界の人”という感じでしたけど……今は、同じ場所で同じ時間を過ごしているんですね」
「ええ。とても不思議で、でも嬉しいですわ」
ふたりの視線が重なり、その間に漂う空気がふっと和らぐ。
周囲の喧騒が遠のき、風の音と花の香りだけが、彼女たちを包み込んでいた。
「制服姿、とても似合っていますね。ミラージュの礼装姿しか見たことがなかったので、少し新鮮です」
アリスの言葉に、フィオナは頬を少し染め、スカートの裾をつまんで軽く会釈した。
「ありがとうございます。最初は慣れなくて大変でしたの。スカート丈も靴も、ミラージュの制服とはまるで違うんですもの」
「でも、よく似合っていますよ。少し大人っぽく見えるくらいです」
「ふふ、そう言われると照れますわ」
その笑顔に、アリスもつられて口元を緩めた。
ほんの短い再会の中に、懐かしさと安堵が混じっている。
「そういえば……まだ護衛が付いているんですか?」
アリスがちらりと後方の騎士たちに目をやると、フィオナは苦笑した。
「ええ、学院でも単独行動は禁止されていますの。王宮では“あなたは自由すぎる”って言われてしまって」
「自由すぎる、ですか?」
「ふふっ、たぶん……気づくと外に出てしまうから、でしょうね」
「それは……なんとなくわかります」
「アリスさんも似てますものね?」
「え?」
「落ち着いて見えるけれど、本当は誰より行動的。そういうところ、ちょっと憧れてるんです」
アリスは一瞬言葉に詰まり、照れたように頬をかいた。
「そ、そんなことないですよ」
「ありますわ」
フィオナは柔らかく微笑んだ。
まっすぐに、真心を伝えるような微笑みだった。
「せっかくの留学ですから、しっかり成績も残したいですし、アリスさんにも負けていられませんわ」
「私も負けませんよ、フィオナ様」
「その言葉、嬉しいですわ」
ふたりの笑い声が風に混ざり、花の香りと一緒に流れていく。
「それに……色々教えていただけたら嬉しいです。魔導技術とか、演習のコツとか……アリスさんは本当に頼りになりますもの」
「頼りになるなんて……そんな」
「謙遜しなくてもいいですわ。あなたの戦い方、演習で見た人たちが今でも話題にしています」
「えっ……嘘でしょう?」
「本当ですわ。少なくとも、私はずっと憧れていましたの」
「……嬉しいです。でも、私もまだ学ぶことだらけですよ。一緒に成長しましょう」
「ええ、約束ですわ」
ふたりの指先が軽く触れ合う。
それは一瞬のことだったが、不思議とあたたかく、心に残る感触だった。
昼の鐘が遠くで鳴る。
学院の屋根越しに光が揺れ、時間の流れを優しく告げる。
「そういえば、私の留学期間は二年間なんですの。秋に一度、公務の関係で帰国しないといけませんけど。留学が終わったら政務に関わる予定ですから、こちらでは〈内政経済部〉に籍を置いています」
「内政経済部……得意なんですね?」
「ええ。兄たちは剣や戦術に長けていますけれど、私は昔から数字や書類の方が好きでして。記録整理が落ち着くんです」
「それ、なんだかフィオナ様らしいです」
「アリスさんこそ、実践派の象徴という感じですわ」
「そう見えるだけですよ。理論は苦手ですし」
「ふふっ、その“苦手”を隠せるくらい努力している時点で、もう立派ですのよ」
「……そう言われると、なんだか照れますね」
「照れた顔も素敵ですわ」
「もう……からかわないでください」
笑いながらも、アリスの胸の奥にほんのり温かなものが灯った。
風がふわりと吹き、花弁が二人の間を横切る。
陽光を反射した花弁が金の光を帯び、ゆっくりと地面へ落ちた。
「今回の留学は“特別留学”扱いで、学年を超えて講義を受けられる許可をいただいていますの」
「じゃあ、五年生の講義も?」
「はい。もし可能なら、アリスさんの講義にも一緒に出てみたいのです」
「もちろん。歓迎します。――きっと楽しいですよ」
「嬉しいですわ。勉強だけでなく、友達としても……一緒に時間を過ごせたら」
「それは私の方こそ」
フィオナの笑顔がふわりと広がる。
その瞬間、護衛の一人が一歩前に出て小声で何かを伝えた。
彼女は小さく頷き、名残惜しそうに振り返る。
「そろそろ時間ですわね。午後のオリエンテーションが始まってしまいます」
「もうそんな時間……早いですね」
「ええ。でも、また後でお話ししましょう?」
「もちろん。講義のこと、楽しみにしています」
「私も、ですわ」
手を軽く振り合い、フィオナは護衛たちと共に歩き出した。
背筋を伸ばし、柔らかく靡く金の髪が風に溶けるように遠ざかっていく。
その背を見送りながら、アリスは胸の奥で静かに息を吐いた。
胸の中に残るのは、春から夏へと移り変わる光のような――温かく、優しい余韻。
国を越えた友情の絆が、彼女の新しい学院生活に確かな彩りを添えていくのを、アリスは確かに感じていた。




