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第二部 第三章 第11話

 帰国当日の朝。

 グエン邸宅の広間は、朝の柔らかな陽光に包まれていた。


 天井の高い吹き抜けから差し込む光は長いカーテンの隙間を縫い、磨き上げられた木製の床に温かな輝きを映し出している。

 その反射は穏やかな波紋のように壁を滑り、白い柱や額縁の金装飾を静かに照らしていた。


 春の風はまだ冷たさを残しながらも、窓辺のカーテンを軽やかに揺らす。

 そのたびに朝の光がふわりと室内を撫で、テーブル上の食器やグラスの縁をきらりと輝かせた。

 遠くの庭園からは小鳥のさえずりが優しく響き、出立の朝であることを忘れさせるほど穏やかな時間が流れている。


 アリスたちは朝食の余韻を残しつつ、慌ただしくも丁寧に荷造りを進めていた。

 リディアやレティアが持参した鞄を整え、書類を革製フォルダーに差し込み、魔導具をひとつひとつ確かめながら収納していく。

 広間の空気には緊張と静寂が同居し、木箱の蓋を閉める音や衣服を畳む布擦れが、まるで時の拍子を刻むように響いていた。


 窓の外では春の緑がやわらかく芽吹き、朝露に濡れた芝生が陽光を受けて淡く光っている。

 庭園の噴水は静かに水を落とし、その音が微かに広間に届いて心を落ち着かせた。


 玄関ホールへと続く扉の向こうでは、執事長ローデリック・ハーヴィルを先頭に使用人たちが整然と列をなし、身なりを正して並んでいる。

 制服はよく磨かれ、襟元には朝の光が反射して小さく輝いていた。

 表情には長く共に過ごした者への惜別がにじみ、中には目元を赤くして涙をこらえる者の姿も見える。


「本当に、もうお帰りになるのですね……」

「またすぐ、おいでくださいませ……!」


 繰り返される言葉の端々には深い愛惜と敬意が込められていた。

 その声が広間の空気に溶け込み、別れの悲しみと希望が入り混じった静かな波紋のように館内を満たしていく。

 アリスは少し照れくさそうに、それでも丁寧に、一人ひとりの前で立ち止まり深く会釈をした。


 手を胸の前で重ね、穏やかな声で言葉を返す。


「……はい。また冬には必ず来ます。約束しますから」


 その優しい声音が響いた瞬間、館内が一瞬だけ静まり返る。

 けれどすぐに小さな息が漏れ、控えめながらも喜びのどよめきが巻き起こった。


「きゃあ……!」

「やったぁ!」


 抑えきれない歓声に応えるように、使用人たちの表情に安堵の笑みが戻っていく。

 冷たかった空気が一気にやわらぎ、まるで春風が館内を駆け抜けていったかのようだった。


 そんな中、アリスは列の中に見覚えのある顔を見つける。

 自分の部屋を担当していた侍女――リディアナ・フロスティアである。

 淡い亜麻色の髪を後ろで結い、いつもの端正な微笑みを浮かべている。


 アリスは静かに近づき、その前で足を止めた。


「すみません、お願いがあるのですが……」


 リディアナは少し首を傾げ、にこやかに微笑みながら落ち着いた声で応じた。


「何なりとお申し付けくださいませ、アリス様」


 アリスの瞳が柔らかさを帯び、ほんの少し安心したように続ける。


「できれば、私が泊まっていた部屋を、十七、八歳くらいの女性が寝泊まりする部屋に模様替えしていただけますか?」


 言葉を選ぶように静かに頼むその声は、大切な思い出をそっと預けるような響きを持っていた。


「はい、かしこまりました」


 リディアナの声は変わらず穏やかで、そこには仕える者としての誇りと温かさが滲んでいた。

 アリスはさらに付け加える。


「あと、ぬいぐるみはそのまま置いておいて構いませんので」


 その一言に、リディアナの目が一瞬だけ優しく細められる。

 彼女は柔らかく微笑み、静かに頷いた。


「承知いたしました。ぬいぐるみも大切に扱わせていただきますね」


 その返答にアリスはほっと息をつき、感謝の気持ちを込めて微笑み返した。


「……ありがとう」


 玄関の外では馬車の音が小さく響き始めていた。

 出立の準備が整い、空気が少しずつ引き締まっていく。


「では、また冬にお越しください! それまでお体に気をつけて!」


 使用人たちはその声に呼応し、温かな眼差しを向けながら一斉に手を振った。

 整列した姿勢のまま、誰もが笑顔で――それはまるで家族を送り出すような優しさに満ちていた。


 アリスは軽く外套の襟を整え、振り返ってもう一度深く頭を下げた。

 その仕草の一つひとつに、感謝と別れ、そして“また帰ってくる”という確かな約束が込められていた。

 外の空は明るく澄み、春風が門の方へ吹き抜けていく。

 鳥の声が重なり、空気の中に朝の香りが満ちていた。


 それは――旅立ちの朝にふさわしい、静かで温かな光景だった。


 玄関前には黒塗りの上級魔導車が静かに待機し、春の柔らかな光を受けて車体は深い艶を放っていた。

 その傍らにはクラリスが立ち、薄手のローブを纏い、春風に揺れる髪を軽く手で押さえながら静かに息を吐いた。


「クラリス……来てくれたんですね」


 アリスの声は安堵と嬉しさが入り混じり、ほっとしたように響いた。

 旅立ちの朝にその顔を見ることがどれほど心強いか――彼女の胸の奥で静かに熱が灯る。


「ええ、最後までお見送りしようと思って」


 クラリスが柔らかな微笑みを浮かべ、頭を下げる。

 朝日を受けて眼鏡が一瞬光を反射し、穏やかな瞳に決意の色が宿る。


「グエン様はしばらく王都に残るとのことですので、私がアリス殿たちを魔導飛行艇までお送りします」


 護衛騎士が静かに告げ、魔導車のドアがゆっくりと開いた。

 その動きに合わせて、冷たい金属の香りと春の空気がわずかに混じり合う。


「ありがとうございます。助かります」


 アリスが護衛騎士に丁寧に頭を下げ、続けてクラリスへと向き直り少し微笑んだ。


「でも、クラリスさんまで……本当にいいんですか? わざわざ見送りなんて」


 その言葉に、クラリスは小さく首を振り穏やかに笑った。


「そんな、送らせてください。……最後まで、ね」


 その声には友としての温かさと、別れを惜しむ静かな情が滲んでいた。


 レティア、アリス、そしてクラリスは順に車内へ乗り込み、最後に護衛騎士が続いた。

 魔導車は静かに動き出し、邸宅の重厚な門を後にする。

 車内は静けさに包まれ、春の柔らかな暖かさと安堵感が心地よく漂っていた。


 車輪の音はほとんどなく、窓の外で木々が流れるように後ろへと遠ざかっていく。


 しばらくして、レティアが穏やかな声で尋ねる。


「それにしても……アリス、昨日の夜はどこに行ってたの?」


 その言葉に、アリスは一瞬だけ視線を泳がせる。

 喉の奥がわずかに詰まり、答えを探すように間を置いた。


「え? ちょっと涼みに外を歩いてただけよ」


 窓の外の柔らかな春景色を見つめる彼女の瞳は、どこか遠くを見ているようだった。

 淡い笑みを浮かべながらも、その横顔にかすかな照れが滲む。


「……ふぅん。クラリスさんと距離が縮まったみたいだけど?」


 レティアの言葉は優しく、それでいて見逃さない観察眼を感じさせる。

 アリスは軽く咳払いをして、そっぽを向く。


「偶然会っただけ。ほんとに」


 声の調子は淡々としているが、耳の先がわずかに赤い。

 その様子を見て、レティアは口元に手を当てながらくすりと笑う。


「偶然ねぇ……ふふ。

 でも、“偶然”って言葉は、いつも不思議よね。

 だって、そう言いながらも、ちゃんと誰かを思い出してる顔してるもの」


 アリスは反論しようと口を開きかけ、結局言葉に詰まる。

 小さくため息をつき、髪を指で払った。


「……レティアはほんと、観察力が鋭すぎる」


「親友だからよ」


 レティアは微笑み、軽く肩をすくめる。


「ねえ、クラリスさん。昨日、何か……特別な話でも?」


 隣で聞いていたクラリスが少し驚いたように瞬きをして微笑んだ。


「特別、というほどではありません。

 ただ……“研究仲間”として、いろいろ話をしていただけです。

 ――ね、アリス?」


 その言葉にアリスは「うん」と頷きつつも、微妙に視線を逸らした。

 その反応を見て、レティアはわざとらしく目を細める。


「ふぅん……懐かしい話、ね。

 夜更けに運河沿いで星を眺めながら語り合う“研究談義”……なんて、ちょっと素敵じゃない」


「そ、そんなロマンチックな感じじゃないから!」


 アリスが慌てて手を振ると、クラリスは吹き出しそうになりながらも静かに笑みをこぼした。


「ふふ……本当に、レティアさんは鋭いですね」


「だって、アリスのことは昔から見てるもの」


 アリスは観念したように小さく肩を落とし、「もう、好きに言って」と呟いた。

 車内に穏やかな笑いが広がり、春の光がその頬をやさしく包み込む。

 その瞬間、三人の間に流れる空気が、名残惜しさと温もりの両方を含んだ静かな調和へと変わっていった。


 やがて魔導車は魔導飛行艇の発着場に到着した。

 遠くに浮かぶ白銀の船体が朝日を受けて光を放つ。

 車体が止まると同時に、微かな振動とともに心の奥までその音が届いた。

 出発の時が、すぐそこに迫っていた。


 しかし国外への出国手続きのため、アリスとレティアは車を降り、スタッフに案内されて出国管理センターの貴族専用ゲートへ向かう。

 クラリスは手続きに同行できず、ここで二人と別れることとなった。


「ここで失礼します。また出発ロビーでお会いしましょう」


 クラリスは優しい笑顔でそう告げ、魔導車のそばで手を振った。

 アリスは一瞬振り返り、名残惜しそうに微笑む。


「うん……あとで、ちゃんとお礼を言わせてください」


「ええ、待っています。焦らずに」


 その声にレティアも小さく頷き、軽く会釈を返す。


「では、また後ほど。クラリスさんもお疲れさまでした」


「お気をつけて。手続きが終わったら、すぐに合流しましょう」


 二人は案内係の後を追い、重厚な魔導扉の向こうへと消えていった。


 アリスとレティアは必要な書類と魔力認証の確認を受け、スムーズに出国手続きを終えた。

 係官の手際は見事で、特級資格を持つ探索者らしい対応も丁寧だった。

 手続きが終わると、二人は出発ロビーへと戻る。

 春の陽光が差し込む高天井のホールには柔らかな音楽と人々のざわめきが溶け合い、出立の緊張と名残惜しさが同居していた。


 しばらく待つと――


「アリースーっ!」


 小走りに現れたのはアリシアで、その隣には再びクラリスがいた。

 二人はどうやら出発ロビーへ向かう途中の通路で偶然出会ったらしく、アリシアが「一緒に行こう」と誘ったのだろう。

 クラリスは息を弾ませながらも呼吸を整え、アリスの前で立ち止まる。


「間に合った!」


 息を切らせて駆け寄るアリシアに、アリスは驚きと喜びの笑みを返した。


「ありがとう。来てくれたんだ」


「そりゃ来るわよ! 昨日の顔、すっごく疲れてたんだもん。ちゃんと送り出さなきゃって思って」


 そのやり取りを見ていたレティアが、穏やかな笑みを浮かべながら問いかける。


「ところで……クラリスさんとアリシアさんは、どこで一緒に?」


「ええと、通路で偶然お会いしたんです」


 クラリスが軽く息を整えながら答える。


「書類を提出して戻る途中で、アリシアに声をかけていただいて」


「そうそう! クラリスがいたから、一人で探さずに済んじゃったの!」


 アリシアが嬉しそうに笑い、クラリスもそれにつられて柔らかく微笑んだ。

 会話の流れのまま、クラリスは自然にアリスの隣へと歩み寄る。

 その動きはごく自然で、まるで最初からそこに立つのが当然であるかのようだった。


 アリスが一瞬だけ視線を向けると、クラリスは静かに頷き、目を合わせて柔らかく笑みを返す。

 ――二人の距離が、まるで旧知の友人のように近い。

 その穏やかな空気が、アリシアの勘の鋭さに火をつけた。


「ちょっと待って……なんでアリスとクラリス、そんなに急に仲良くなってるの? まさか昨日あのあとに……!!」


「そ、そういうんじゃないから!」


 アリスが慌てて否定し、クラリスは口元に手を添えてくすくすと笑った。


「ふふ、ちょっと秘密の話をしただけです。ね、アリスさん?」


「……うん。秘密の話、ね」


 アリスの声は静かだったが、その胸の奥には昨夜交わした言葉が深く響いていた。

 クラリスはそれを察したように、優しく微笑みを浮かべる。


 場内アナウンスが響き渡る。


「ファーレンナイト王国王都ファーレン行き魔導飛行艇、搭乗を開始いたします。

 ご搭乗予定のお客様は、出発ロビー十七番ゲートまでお越しください」


 アナウンスに呼応するように周囲の旅客たちが動き出す。

 アリスとレティアは顔を見合わせ、小さく頷いた。


「……そろそろ行かなくちゃ」


 アリスが静かに呟き、クラリスとアリシアの前に立つ。


「短い間だったけど、ありがとう。ふたりとも」


「ううん、こちらこそ。ほんとに来てくれて嬉しかったよ!」


 アリシアは目に涙を浮かべながら大きく手を振った。


「次は私がファーレンに行くからね! 絶対に案内してもらうんだから!」


「もちろん。案内は私に任せて」


 アリスが笑顔で返すと、アリシアは少し鼻をすんと鳴らしながら笑った。

 クラリスはその様子を静かに見つめ、そして一歩前へ出た。


「また、すぐ会えますよ。必ず」


 その声は優しくも確かな意志を宿していた。

 アリスはわずかに瞬きをし、穏やかな笑みで応える。


「うん。またね、クラリス。今度は、ゆっくり話そう」


「ええ。……その時まで、どうかご無事で」


 レティアも軽く会釈した。


「見送り、ありがとうございます。今度はぜひファーレンにもいらしてください。歓迎しますわ」


「ふふ、光栄です。お招きいただけるなら、ぜひ」


 二人は軽やかな足取りで搭乗ゲートへ向かい、姿が見えなくなるまで、クラリスとアリシアは手を振り続けた。

 やがて魔導飛行艇の乗降口が閉じられ、ゆるやかな振動と共に巨体が浮上を始める。

 ロビーのガラス越しに見える飛行艇は、春の穏やかな空気の中、ゆっくりと空へと舞い上がり、蒼穹の彼方へ滑らかに進路を取った。


 アリスは窓際の席に腰掛け、静かに外の景色を見つめていた。

 新緑が芽吹き始めた屋根の向こうに石造りの古い街並みが広がり、煌めく魔導灯の光が透き通る空にやさしく揺れている。

 彼女の胸の奥には、ここで過ごした日々の記憶と、再会した戦友たちの笑顔が温かく残っていた。


「じゃあね……ミラージュ。また来るから」


 その呟きが静かな機内にかすかに響き渡る中、魔導飛行艇は雲の層を抜ける。

 広大な王国の空を越え、ファーレンへの帰国の旅路をゆっくりと進み始めた。

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