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第二部 第三章 第9話

 その名を聞いた瞬間、アリスは息を呑んだ。

 胸の奥に封じていた記憶が、静かに疼く。

 答えを探すように視線を伏せ、月光の揺らめきがその横顔を照らした。


 穏やかな夜風が、運河沿いの静寂を優しく撫でる。

 柔らかな風が二人の髪をそっと揺らし、街灯の光は揺れる水面に淡く反射して、夜の冷たさを和らげていた。


 クラリスはアリスの反応を見つめながらも、しばらく言葉を選んでいた。

 沈黙が夜風に溶け、運河の水音だけが静かに流れる。


「……やっぱり、反応すると思っていました」

 静かに口を開いたその声音には、驚きではなく、確信があった。


 クラリスは一歩、アリスに近づき、視線をまっすぐ向ける。


「あなたが誰なのか、もう確かめる必要もない気がして。

 私の目の前にいるのが――“あの人”なんだって」


 その言葉に、アリスは小さく顔を上げる。

 けれど言葉は出ず、ただ静かにその瞳を見返すだけだった。


 クラリスは短く息を吐き、ふっと笑みを浮かべる。

 その笑みには、長い年月を越えて辿り着いた安堵と、少しの恥ずかしさが混じっていた。


「……本当に、ずっと会いたかったんです

 どうしたら、レティシアさん――あなたに会えるかって、そればかり考えていました」


 クラリスの声は、夜の静けさに溶け込むように柔らかく響いた。

 その瞳の奥には、再会の喜びと、言葉にできない懐かしさが入り混じっている。


 アリスは、何も言わなかった。

 ただ、微かに震える指先を握りしめ、彼女の言葉の一つひとつを胸に受け止めていた。


 ――その沈黙の中で、クラリスはふと我に返る。

 今の自分が、あまりにも自然に“過去”の呼び名を口にしてしまったことに気づいたのだ。


 (……いけない。私は、まだ“名乗って”いないのに)


 思考が一瞬、止まる。

 胸の奥がきゅっと縮むように痛んだ。


 ほんのわずかな間の後、クラリスは小さく息を吐き、表情を整えるように視線を運河の光へと向け直した。

 夜風が二人の間を抜け、白翼のモニュメントの影を揺らす。

 その影が、まるで過去と現在を重ねるように彼女たちの足元に滲んでいた。


「……ごめんなさい。少し、言いすぎましたね」


 クラリスは苦笑を浮かべ、そっと髪を耳にかける。

 その声には、かすかな動揺と、どこか遠い懐かしさが混じっていた。


 アリスは沈黙を保ったまま、ゆっくりと彼女を見上げる。

 瞳の奥に映るのは、問いでも、責めでもない。

 ただ、確かめようとする静かな光。


「……クラリスさん」

 その名を呼ぶ声は、穏やかでありながら、まるで心の奥を探るようだった。


 夜風が二人の間を通り抜け、街灯の光がわずかに揺れる。


「さっき――“レティシアさん”と呼びましたね」


 クラリスの肩が、わずかに震えた。

 返す言葉を失い、唇がかすかに動く。

 逃げ場のない静寂の中で、彼女はゆっくりと目を閉じた。


「……気づいていましたか」

 掠れるような声だった。

 けれどその一言には、もはや隠しきれぬ覚悟がにじんでいる。


 アリスは小さく首を振り、優しく続けた。


「いいえ……ただ、今のあなたの言葉に、懐かしい響きを感じただけです」


 クラリスは目を開け、驚いたようにアリスを見つめる。

 その表情には、過去と現在が重なり合うような痛みと安堵が入り混じっていた。


 夜の空気が、静かに震える。

 遠くの塔鐘が、ひとつ、ふたつと響く。


 ――逃げることは、もうできない。


 クラリスの胸の奥で、そう囁く声がした。

 彼女は深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。

 そして、アリスの瞳をまっすぐに見つめた。


「……本当は、もっと早く伝えるべきだったんです。

 でも、どうしても勇気が出なくて」


 その声は震えていたが、どこまでも誠実だった。


「私は――クラリスではありません。

 あ……おかしいですね。今の私はクラリスです」


 小さく苦笑しながら、クラリスは胸に手を当てた。

 夜風が静かに髪を揺らし、淡い月光がその頬を照らす。


「私の前世の名は……セリーネ・シルヴァリス。

 三百年前、あなたと共に戦った、ハイエルフ族の……、エルファーレ王国の魔導士です」


 その言葉は、運河の水音よりも静かに、しかし確かに空気を震わせた。


 アリスの瞳が、わずかに見開かれる。

 月光に照らされたクラリス――いや、セリーネの姿は、どこか懐かしく、そして痛いほどに優しかった。


 アリスの唇が、かすかに動いた。

 けれど言葉にはならない。

 胸の奥に熱いものが込み上げ、呼吸が浅くなる。

 心臓の鼓動が痛いほど響き、夜の静寂の中で自分の音だけが浮き上がって聞こえた。


 ――セリーネ。


 その名を、彼女は確かに覚えている。

 遠い記憶の奥で、無数の戦場を共に駆け抜けた仲間の一人。

 笑い、叱り、そして最後まで背中を預け合った、かけがえのない友。


 アリスの瞳がゆっくりと揺らめく。

 白銀の記憶と現在の記憶が、静かに重なっていく。


「……そう、だったんですね」

 ようやく絞り出した声は、震えていた。

 でもその震えには、恐れではなく――喜びが混じっていた。


 クラリス――いや、セリーネは静かに微笑む。

 その表情は、懐かしさと安堵が入り混じったものだった。


「思い出して、……くれましたか?」


 その瞬間、アリスの瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。

 視界が滲み、月光が滲む。

 抑えていたものが、胸の奥から一気にあふれ出す。

 体が震え、両の掌を顔に当てて嗚咽が漏れた。

 それは三百年分の喪失と再会、そして赦しの涙だった。


 クラリス――セリーネもまた、堪えていたものが限界を越える。

 唇を噛み締め、頬を伝う涙を隠すこともできずに、静かに、けれど止めどなく涙が溢れ出した。

 彼女はゆっくりと歩み寄り、震えるアリスの肩に手を伸ばす。


 アリスもその気配を感じ、顔を上げる間もなく、その胸に抱きしめられた。

 互いの腕が自然に回り、二人の体が強く結ばれる。

 嗚咽と涙の音が、夜の静けさの中に混ざっていく。


 言葉もいらなかった。

 ただ――会いたかった。

 それだけの想いが、すべてを包み込んでいた。


 アリスの喉から、かすれた声が漏れる。


「……セリ、ーネ……」


 掠れるようなその名を、彼女は震える唇で何度も呼んだ。


「……セリーネ……セリーネ……っ……!」


 涙でろれつが回らず、言葉が途切れながらも、その声には確かな想いが宿っていた。


 セリーネの目からも、こらえきれない涙がこぼれる。

 アリスの髪をそっと撫でながら、震える声で返した。


「はい……ここにいます。ずっと……」


 アリスは首を振りながら、子どものように泣き続けた。

 押し殺すこともできず、嗚咽が夜気の中に溶けていく。

 セリーネはそのたびに、優しく、何度も頷いた。


「はい……はい……ここにいます。もう……離れません」


 その言葉に、アリスはさらに腕に力を込めた。

 嗚咽が再び込み上げ、二人の涙が混ざり合う。


 夜風が静かに吹き抜け、月光が二人を包む。

 運河の水面に反射する光が揺れ、まるで祝福するかのように瞬いていた。


 三百年の時を越えて、ようやく交わされた抱擁。

 それは、過去と現在をつなぐ“奇跡”そのものだった。


 どれほどの時間が経ったのか、もうわからなかった。

 嗚咽が止み、涙が頬を伝う感覚がようやく静まった頃、夜風の冷たさが少しずつ戻ってくる。

 アリスはセリーネの肩に額を預けたまま、かすかに息を整えた。

頬には涙の跡が残り、目元は赤く腫れている。

 セリーネもまた、同じように涙に濡れた顔で微笑んでいた。

 ただ、その瞳の奥にはもう悲しみではなく――穏やかな光があった。


 ふと二人は、同じ瞬間に顔を上げた。

 視線がぶつかり、互いに小さく息を呑む。

 そして、少し遅れて――どちらからともなく、ふっと笑った。

 長い沈黙と涙のあとにこぼれた笑みは、あまりにも自然で、あたたかかった。


「……だいぶ泣いちゃいましたね、私たち」


 セリーネが頬をぬぐいながら、照れくさそうに笑う。


 アリスも小さく頷き、指先で目尻を拭った。


「……すみません。みっともないところを」


「いいえ。私も同じです」


 二人は思わず顔を見合わせて、また小さく笑った。

 その笑いには、涙の名残と、再会の実感が混じっていた。


 やがてセリーネが、少しだけ体を離す。

 互いに腕を下ろし、自然と半歩の距離が生まれた。

 けれどその距離は、三百年という時を超えた今、あまりにも近く感じられた。


 夜風がそっと吹き抜け、髪を揺らす。

 運河の水面には月の光が揺れ、静かな波紋が広がっていく。

 泣き疲れた頬に冷たい空気が触れ、アリスはようやく深く息を吸い込んだ。

 その呼吸には、確かな“今”の温度が宿っていた。


 夜風に頬を撫でられながら、二人はしばらく言葉を失っていた。

 泣き疲れた瞳が、ようやく月の光を映し返す。


 やがて、アリスが小さく息を吸い、静かに口を開いた。


「……あの日のこと、覚えていますか」


 セリーネは目を細め、ゆっくりと頷いた。


「忘れるはずがありません

 あれが――私たちの最後の砦でしたから」


 その声には、懐かしさと痛みが交じっていた。


 アリスの脳裏に、白銀と翠の光が交錯した戦場がよみがえる。

 崩れゆく壁、吹き荒れる魔力の嵐。

 彼女の前で、セリーネが立ちふさがったあの瞬間。


「あなたが……私の前に立って、結界を張ったときのこと

 今でも鮮明に覚えています」


 アリスの声がかすかに震える。


「“私が時間を稼ぎます”って、そう言ったのに……。

 あなたは、私を押しのけて、《ラストレイル》を発動した」


 セリーネの瞳が潤み、唇がわずかに震えた。


「……だって、あの時のあなたは、もう限界だったんです。

 白銀の光が暴れて、身体も……ほとんど立っていられなかった。

 それでも前へ進もうとするあなたを、止めたかったんです」


 夜風が二人の間を静かに抜け、遠くで鐘が鳴る。


 アリスは視線を落とし、拳を軽く握った。


「結局、私はあなたを救えなかった。

 あの閃光の中で、あなたが消えていくのを……。

 ただ見ていることしかできなかった」


 セリーネはそっと微笑む。


「でも、あの結界があったから、あなたたちは生き延びた。

 あの日、私の命は……きっと意味を持てたんです」


 アリスの目に、再び涙が滲む。


「……あなたは、いつもそう言うんですね。

 自分のことより、誰かのことばかり……」


 セリーネは静かに首を振り、そっと彼女の肩に手を置いた。


「守りたかったんです。

 それが、私の生きた意味だから」


 その言葉は、夜気の中でゆっくりと溶けていった。

 運河の水面に映る月が、二人の影を重ねる。


 過去の記憶が、ようやく“痛み”から“誇り”へと変わっていく瞬間だった。

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