第二部 第三章 第6話
――セリーネ・シルヴァリスの最期。
あの時、仲間を護るため己の命を賭して戦い抜いた彼女の姿が、アリスの胸に鮮やかに蘇っていた。
研究室は、深い静寂に沈んでいた。
空調のわずかな唸りだけが、規則的な呼吸のように響いている。
壁一面のモニターには淡い青の光が流れ、解析装置の数値が静かに点滅していた。
無機質な空間の中央、透明な展示ケースの中で――《ワルキューレ》の残骸が、青白い光を帯びて静かに輝いている。
その破片の一つひとつに、戦場の記憶が染みついているようだった。
焦げた装甲、ひび割れた魔力核の残骸。
アリスはそっと手を伸ばし、指先でガラス越しに触れようとした。
その瞬間、胸の奥から、押し込めていた熱が込み上げてくる。
(……あの人は、最後まで……)
呼吸が浅くなる。
抑えきれない感情が、喉の奥で音にならず震えた。
込み上げる想いは怒りでも悲しみでもなく――ただ、限りない痛みだった。
魔力が、音もなく解き放たれる。
制御の枠を離れ、奔流となって体内から溢れ出した。
アリスの周囲の空気が震え、机上の紙片や器具がふわりと浮かび上がる。
髪が逆巻き、淡い蒼光が指先から滲み、やがて白銀へと変わっていく。
「……!」
銀白の閃光が、髪先から指先、足元へと波紋のように広がった。
空間そのものが光の膜に包まれ、研究室の温度が一瞬で変化する。
冷たいはずの空気が、肌に痛いほど熱を帯びて感じられた。
魔力感応装置が警告を発し、甲高い電子音が室内に響き渡る。
天井の魔導灯が断続的に赤く点滅し、照明の影が細かく揺らめいた。
白い壁に映るアリスの影が、まるで別の存在のように脈動している。
「え……?」
クラリスが思わず身を引き、眼鏡の奥の瞳を大きく見開いた。
彼女の唇がかすかに震え、困惑と緊張が混じる。
アリシアは即座に駆け寄り、肩を掴んで呼びかけた。
「アリス、どうしたの? 落ち着いて!」
その声は鋭く、けれど必死に優しさを保っていた。
レティアも魔力の揺らぎを察知し、咄嗟に防御結界を張りながら叫ぶ。
「……これは、魔力暴走……?」
アリスの視界が滲む。
現実と記憶が重なり合い、境界が曖昧になっていく。
目の前の《ワルキューレ》の残骸が、戦場で散ったセリーネの姿に見えた。
爆炎の中で振り向きざまに微笑んだ、あの穏やかな眼差し――。
(もし私が、あの時……もっと強ければ……もっと早く覚醒していれば!)
歯を噛み締める。
光がさらに強くなり、研究室全体が白銀に染め上げられた。
器具の針が狂い、ガラスの振動が微かな音を立てる。
「ああっ、アリス! しっかりして!」
アリシアの声が、霧を突き破るように響いた。
その声に反応するように、アリスの肩がびくりと震える。
息を吸い込む。
肺の奥に冷たい空気が入り、暴走していた魔力がゆっくりと鎮まっていく。
やがて、白銀の光は薄れ、部屋に再び現実の色が戻る。
床に散らばっていた紙片がふわりと落ち、赤い警告灯がひとつ、またひとつと静止していった。
アリスは震える手で胸元を押さえ、浅い呼吸を繰り返す。
「……ごめんなさい。ちょっと、昔のことを思い出していただけ」
声はかすかに震えていたが、その瞳には確かな意志が宿っていた。
その光は、悲しみの奥から掘り出された決意のようだった。
レティアは静かに頷き、そっとアリスの隣に立つ。
アリシアは手を離さず、その肩を優しく支え続けた。
クラリスは距離を保ちながらも、観察者の目ではなく――友としての眼差しで、彼女を見つめていた。
静寂が戻る。
しかし、それは終わりの静けさではない。
白銀の光が消えてもなお、アリスを包む何かが――確かにそこに在った。
それは、セリーネが遺した意志と、アリスの中に息づく“白銀の継承”そのものだった。
だが、それに呼応するかのように――。
「警戒レベル上昇。第二区画、魔力感応異常検知――」
室内の感応装置が断続的に警告音を響かせ、天井の赤い魔導灯が激しく点滅し始めた。
低い警報音が床を震わせ、壁面の魔力計が波打つように数値を乱す。
金属製の扉のロックが自動解除音を立て、わずかに遅れて重厚な扉が勢いよく開いた。
光沢のある黒装甲をまとった警備兵が二人、緊迫した面持ちで駆け込んでくる。
胸部には魔術技術局の警備紋章。肩の通信装置が赤く点滅し、術式盾の輝きが薄く滲む。
「特別研究室にて魔力異常を検知。状況を確認する!」
張り詰めた声が響き、瞬間、研究室の空気がさらに硬く凍りついた。
アリスは未だ息を整えきれず、アリシアがその肩を支えたまま身構える。
レティアの手は反射的に杖の柄へと触れていた。
しかし、静かに前へ出たクラリスが、落ち着いた仕草で片手を挙げる。
白衣の袖がふわりと揺れ、その声音は揺るぎなく冷静だった。
「ご安心ください。誤報です」
「これは研究対象との魔力共鳴による一時的な波動増幅であり、すでに処理済みです」
その説明は、理知的で整然としていた。
言葉の端に、指揮権を持つ者の確信と落ち着きが宿る。
警備兵たちは一瞬、アリスの方に視線を向け、互いに小さく頷き合うと、静かに敬礼をして退室した。
扉が閉まると、警報音も止み、赤い光が次第に収束していく。
「……ふう、驚かせないでよね」
アリシアが胸に手を当てて、安堵の息をついた。
先ほどまでの緊張が解け、ようやく空気が動き始める。
その横で、レティアはアリスの顔を覗き込み、柔らかい声をかけた。
「アリス、無理しすぎじゃない? 少し休んだ方がいいわ」
アリスは小さく息を吐き、かすかに微笑もうとした。
その笑顔はいつもの穏やかさを保っていたが、頬にはうっすらと疲労の影が浮かんでいる。
「……うん、大丈夫。気持ちが昂っただけだから。ごめんね」
その声には、ほんのわずかな震えが混じっていた。
アリシアは何も言わず、そっと手を離しながら視線をクラリスに向ける。
「クラリス、休憩できる場所はある?」
クラリスは端末を操作して警報解除を確認し、小さく頷いた。
「ええ、すぐ隣に簡易の休憩室があります。案内しますね」
白衣の裾を揺らしながら、クラリスは静かに歩き出す。
その背中を見送りながら、アリシアとレティアは互いに目を交わし、黙って頷いた。
アリスは最後にもう一度、ガラス越しに《ワルキューレ》の残骸へと視線を向ける。
そこにはもう光はなく、ただ青白い残滓だけが静かに漂っていた。
(……やっぱり、そうなのね)
その想いは、声にならなかった。
胸の奥で静かに燃えるように灯り、彼女だけが知る痛みとなって沈んでいく。
白銀の輝きが去っても――。
アリスの周囲には、確かに“何か”が残っていた。
それは空気のわずかな揺らぎ、見えない魔力の残響。
誰も言葉にはしなかったが、そこに在ると、全員が感じていた。
まるで、セリーネ・シルヴァリスの意志そのものが、まだアリスの傍に留まっているかのように。
案内されたのは、研究棟の一角に設けられた職員用の休憩室だった。
部屋の扉を開けた瞬間、ひんやりとした空気と共に、落ち着いた木目調の家具と静かな照明が迎え入れる。
重厚な木製のテーブルを囲む椅子はしっかりとした作りで、長時間の疲れを癒やすための配慮が感じられた。
窓辺には数鉢の観葉植物が静かに置かれ、無機質な研究施設における貴重な“緑”として空間に柔らかな彩りを添えている。
外から差し込む朝の柔らかな光が、カーテン越しにやさしく室内を満たし、静謐な空間の一角に穏やかな安息をもたらしていた。
アリスはゆっくりと椅子に腰を下ろし、まだ少し震える呼吸を整えようと胸元に手を当てる。
彼女の表情は、緊張から解き放たれた安堵と、それでもなおどこか遠くを見つめているような複雑な思考が入り混じっていた。
隣に座ったレティアは、静かに彼女の肩に手を添え、穏やかなまなざしで背中をそっとさすった。
アリシアは立ち上がり、備え付けの魔導給水器へと歩み寄った。機械音も静かに、冷水がグラスに注がれていく。
グラスを手に戻ると、無言でアリスへ差し出した。
「ありがとう……」
アリスは震える指先でグラスを受け取り、ほんの小さく微笑む。
しかしその瞳はまだ遠く、過去の記憶と今を行き来しているようだった。
それを見守るクラリスは、ソファのひじ掛けに静かに腰を下ろし、眼鏡の位置をそっと直した。
指先の微かな震えは隠しきれず、そして彼女は誰にも気づかれないように視線を少し下げた。
(間違いない……あの時、反応した魔力は紛れもなく“あの存在”のものだ)
彼女はミラージュ王国魔導技術開発局の第二研究室に所属し、日々戦時期の古代魔導技術の解析に没頭している。
特に、〈白銀時代〉と呼ばれる人魔大戦末期の魔導兵装群「ナンバーズ」の技術解析・再現に関しては、群を抜いた専門性を誇っていた。
過去に膨大な文献資料、映像記録、断片的な魔力波形を見つめ続け、詳細に解析してきたクラリスにとって、今日アリスの身に起こった魔力の揺らぎは、既知のどの記録にも似ていない特異かつ確信的なものだった。
(“彼女”は、本来なら記録の中だけに存在するはず……)
その確信は、研究者としての理屈を超えた直感だった。
そして、目の前の少女が“偶然”であるはずがないという、冷たい予感でもあった。
(……それでも、彼女はここで“普通の少女”として生きている)
一瞬の迷いのあと、クラリスは小さく息を吐き、穏やかに微笑んだ。
そして、アリスたちに向き直り、やわらかな声で告げる。
「ここで少し休んでいてもいいですよ。無理に案内を続ける必要はありません」
「ううん、大丈夫。少し落ち着いたから……もう少しだけ」
アリスはグラスをテーブルに戻し、背筋を伸ばして答えた。
その声には、少しだけ力が戻っていた。
「でも……ごめんね、クラリスさん。せっかく案内してもらったのに、私……」
クラリスは首を振り、穏やかに微笑む。
「気にしないで。あんな風に魔力が共鳴することは珍しくありません
むしろ、落ち着いてくれただけで安心しました」
「……ありがとう」
アリスの声には、微かに安堵が混じっていた。
それを見たクラリスの胸中には、静かに言葉にならない“予感”が芽生えていた。
(やはり……もう少し、彼女と向き合いたい)
(彼女と出会ったことで、何かが――動き出す)
研究者の直感は、確信に近い形を取り始めていた。
静かな休息の中、冷たい水を一口含んだレティアが、そっと問いを口にする。
「ねえ、クラリスさん。さっきのアリスの現象……あれって、魔力暴走みたいに見えたけど、いったい何だったの?」
言葉を区切り、躊躇いがちに続けた。
「それと……展示室にあった、あの残骸のような魔導甲冑。あれは何?」
真っ直ぐな眼差しで問うレティアに、クラリスはゆっくりと目を伏せる。
少しの間を置き、低く抑えた声で答えた。
「……ごめんなさい。この場所では詳しく話せません。あまりにも機密すぎて」
その一言で、室内の空気がわずかに緊張を帯びた。
アリシアがすぐに察し、視線を交わして口を開く。
「クラリス、特別展示室に戻る? それともオフィスの方がいい?」
クラリスは短く考え込み、やがて頷いた。
「できればオフィスが望ましいです。完全に隔離されていますし、外部からの魔力感知も遮断されますから」
「……そうね。さっきのようなことがまた起きたら困るし。オフィスにしましょう」
アリシアが即座に判断し、立ち上がる。
アリスもゆっくりと椅子から身を起こし、再び呼吸を整えた。
「では、ご案内します。こちらへ」
クラリスが扉を開けると、外の廊下には淡い青の誘導灯が伸びていた。
白い床に映る四人の影が静かに並び、彼女たちはその光の先へと歩き出していく。




