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第二部 第三章 第4話

 トゥリオ丘陵陣地の制圧は、夕陽の残光と共に完了した。


 砦の石はまだ熱を帯び、崩れた胸壁からは焦げた匂いが立ちのぼる。

 伝令が駆け、補給車が軋み、術士は詠唱札を乾いた指で数える。

 風は乾いているが、草は湿った鉄の匂いを吐いた。


 連合軍は隊列を解き、次の進撃に向けて戦力の縄を組み直すところだった。

 この丘陵の南端では、リディア・エルファーレ率いる第二突撃隊が残敵掃討にあたり、レイリスと他のナンバーズも前線の陣地線を追撃していた。


 本陣に残っているのは、指揮を執る軍司クリス・レイス・ロアウと、護衛のセリーネ・シルヴァリス、そして統軍のレティシア・ファーレンナイト――わずか三人のみ。

 戦況は一時の静寂を迎えつつあった。


 だが、その刹那。

 空が音もなく――ねじれた。


 最初に聞こえたのは、耳鳴りに似た低い唸りだった。

 丘の稜線上で陽光が波打ち、青の層が一枚ずつ剥がれ落ちる。

 空気は水のように遅くなり、影は刃のように細く延びた。

 天蓋の一点が潰れ、黒い種子が押し込まれるように沈む。


 次の瞬間、裂け目が内側から外へと反転し、漆黒の霧が溢れた。

 霧は磁石粉のようにまとまり、渦の芯で濃密な魔素が鳴いた。

 そこに降りた影は、重力を拒むかのように沈黙した。

 黒紫の魔導甲冑は光を呑み、輪郭だけが硬質に浮かぶ。


 甲冑の継ぎ目で古代式の刻印が脈動し、紫紺の微光が滲む。

 肩と腰の節には時空干渉機構の薄膜が張り付き、空間が微かに撓む。

 距離の秩序が乱れ、近いものが遠く、遠いものが手前に滲んだ。

 呼吸が重くなり、鼓動は外界の太鼓と拍を合わせる。


「――魔王、現界! 座標、砦背後、東側二〇〇!」


 哨戒陣の叫びは割れ、結界塔の赤灯が連鎖して点いた。

 防衛結界の符術盤は飽和に近く、反応針が震えっぱなしになる。

 クリスが立ち上がり、報告書を机の上に叩きつけた。


「……後方からだと? この座標は完全に防域外だ!」

「防御遮断層を突破して出現……!? あり得ません、軍司!」


 術士官が悲鳴に近い声を上げる。

 砦の外壁に重い振動が走り、硝子のような音が地の底から響いた。

 結界の防層が外側から削り取られていく。


「……まさか。背面転移――完全な逆侵入か」


 クリスの眼が一瞬、鋭く細められる。


「全前線に告ぐ。警戒最大。本陣迎撃陣形へ移行

 外縁部の陣地は即時転位陣を準備、補給隊は中央へ退避させろ」


 声には一切の動揺がなかった。

 命令が瞬時に伝令術式を通じて各隊へと伝わり、砦全体が再びざわめく。


「レティシア、外部通信が途絶する前に出るしかない

 奴は、ここを狙って来た。――本陣の中枢を」

「……ええ。迎え撃つわ」


 レティシアは静かに頷き、椅子の背後に立てかけていた白銀の剣を手に取った。

 その瞬間、空気がかすかに震え、彼女の黒髪が光に包まれて揺らめいた。

 淡い銀の粒子が髪先から流れ込み、一本、また一本と色が変わっていく。


 闇のようだった髪は、やがて白銀の光を宿し、淡い蒼を帯びて波打った。

 その瞳にも、深い蒼銀の光が走る。


 それに呼応するように、背後で低い共鳴音が重なった。

 待機状態にあった白銀の装甲が自律起動へ移行し、拘束符が順に解除されていく。


 背部フレームが静かに浮上し、続いて胸部、肩部、腰部、脚部の各装甲が、あらかじめ定められた軌道に従って展開した。

 光の中から生まれるのではない。

 そこに在った兵装が、必要に応じて動き出しただけだ。


 胸部装甲が前方から接続され、肩、腕、脚部が順に固定されていく。

 金属同士が噛み合う音はなく、魔力制御による低い吸着音だけが重なった。


 装着完了と同時に、装甲表面の符文が淡く明滅する。

 彼女の呼吸と同調するように、装甲全体が静かに安定した。


 最後に背部ユニットが接続される。

 白銀の翼片が展開し、周囲の魔素の流れが一変した。


 《ヴァルキリー》――完全装着。


 白銀の装甲に包まれたレティシアは、すでに迎撃態勢に入っていた。

 その姿は、次に来るものを静かに迎え入れる覚悟そのものだった。


 隣ではすでに、セリーネ・シルヴァリスが《ワルキューレ》を纏っていた。

 翠の光が彼女を包み、杖型ユニットを握る手はすでに詠唱動作へと移っている。


「セリーネ、護衛結界を。ここは一刻ももたない」

「了解。精霊陣、展開開始――全層同調、安定」


 床に刻まれた魔導陣が光を放ち、圧縮された風が砦を震わせた。

 そして、わずかな遅延ののちに背後の壁が内側から弾けた。


 黒い霧が奔流のように流れ込み、石片と魔素が混ざり合って弾ける。

 音も光も、まるで内側から喰われたように飲み込まれていった。

 レティシアは即座に体勢を低くし、霧の奥を見据える。


「全防御層、前方へシフト。侵入体を識別――!」


 その言葉と同時に、セリーネの展開した結界層が彼女の前方へ滑るように移動する。

 霧の圧が押し返され、金属を軋ませるような魔力音が鳴った。

 魔素が炸裂し、黒い霧が流れ込む。


 空気の温度が一瞬で十度下がり、視界の端が暗く染まる。

 アズマール・ベル=ノクト。

 漆黒の霧の中から、ゆっくりとその輪郭が現れた。


 仮面の奥で目だけが笑い、声が空間に重なる。

「――ようやく会えた。

 守りの層を削るより、心臓を突く方が早いと学んだのだ。

 そして、君たちが守る秩序を壊すために、私はここへ来た」


 レティシアは剣を構え、低く息を吐いた。

「……なるほど。背後から現れるとは、卑劣さも王級ね」


 クリスが隣で符術盤を操作し、迅速に戦況報を再配信する。

「外縁部にはリディア隊がいる。こちらの防衛時間は最長で十五分……

 それまで、どうにか保たせる。お前の判断で撃て」

「了解したわ、クリス。――行くわ、セリーネ」

「はい……」


 白銀と翠光が重なり、砦本陣の床石を照らす。

 霧の奥で魔王の仮面がわずかに傾き、愉悦を含んだ声が響いた。


「さあ、君たちの伝説が、ここで終わるかどうか……見せてみろ」


 レティシアは一歩前へ進み、ヴァルキリーの翼部を広げた。

 蒼白の粒子が一斉に散り、白銀の光が砦の内部を満たしていく。

 同時に、セリーネの《ワルキューレ》が彼女の右へ並び立つ。

 翠光の結界層が前面へと展開し、二人の輪郭を包み込んだ。


 砦の空気が震え、金属と魔力の音が重なる。

 二人の戦女神が、闇の王を迎え撃つ――その瞬間だった。


「……これはこれは。白銀の戦乙女、レティシア・ファーレンナイト殿」

「……アズマール・ベル=ノクト」

「初対面だが、名は重く届いていた」

「名乗らずともわかるわ。戦場の気があなたを示していた」

「なるほど。初手から殺気が整っている」


 仮面の内側で、乾いた微笑がほんの少しだけ軋んだ。

 その笑みには嘲りも侮蔑もなく、ただ純粋な好奇の色があった。


 衝突は語より速い。

 レティシアはヴァルキリーの加速系を三段で噛み合わせ、慣性の襞をずらす。

 踏み込みは半歩、刃は一歩分の届きを得る。

 肩、腰、背――連続の三斬は一点の円弧で繋がれ、残光だけが三重に遅れて揺れた。


 だが、黒紫の腕が片手で受け、肘関節の硬化が白銀を弾く。

「ほう。切れ味は見事だ。だが、重すぎる」

「口を慎みなさい」


 レティシアは即座に軌道を切り替え、右旋回へ角度の糸を投げる。

 背面に展開した闇の障壁が薄膜のように膨らみ、刃は滑る。

 重力偏向、遮断結界、闇干渉波。

 三層の防御は互いの欠点を埋め、衝突面で損耗を最小に抑える。


 距離を開き、構成を再編。

 左腕ユニットが流線型の砲塔へ可変し、詠唱は口ではなく手順で行う。

 対魔障壁貫通型の光子斬が閃き、黒紫の装甲を斜めに裂いた。

 表層の膜が焼け、内部の古代式導路が露出する。


 紫紺の火が血潮のように噴き、熱はなく、ただ匂いだけが甘く苦い。

 魔王は首だけを傾け、損傷を観察するように沈黙した。

「良い。戦乙女と呼ばれるに相応しい」


 掌に闇が凝集し、粒は光を背にしてなお黒い。

 奔流は矢ではなく穴で、空間を一枚ごと掻き毟る。

 警戒通信は届かない。

 波形が探知術式の目を避けるように編まれ、伝令管の中で音が死ぬ。


 レティシアは一拍だけ遅れて察知し、胸元へ防壁を引き寄せた。

(まずい――)


 霧が震えた。

 次の瞬間、音が消えた。

 アズマールの右腕がわずかに動いただけで、空間が潰れた。

 真空の断裂が床石を斜めに切り裂き、砦内部に奔流が走る。


 石壁が波のように沈み、地面から噴き上がった塵が逆流した。

「来る――!」


 レティシアは一歩も退かず、白銀の刃を正面に構えた。

 ヴァルキリーの光子翼が反転し、推進流を一瞬で逆転させる。

 翼から散った蒼白の粒子が宙に軌跡を描き、空気の流れを掴んだ。


 刹那、視界の端に閃光。

 黒紫の槍が、空間を滑るように直進する。

 空間干渉による直線攻撃――回避不能の軌道。


 だが、その瞬間、翠光が割って入った。

「防壁、展開――三層制御!」


 セリーネの《ワルキューレ》が応答し、前方に幾重もの光膜が浮かぶ。

 第一層が衝撃を吸収し、第二層が圧を拡散、第三層が反動を反射する。

 光が波のようにうねり、闇の槍と正面衝突した。


 砦全体が震えた。

 光と闇の境界が弾け、床の符術陣が一斉に発光する。

 爆発音は遅れて響き、天井から粉塵が雪のように降り注いだ。


「まだだ、下がらない!」


 レティシアが叫び、ヴァルキリーの推進翼を全開。

 彼女の身体が風を裂き、白銀の残光が黒の奔流を切り裂く。

 斬撃はまるで光そのもの。

 速度は音を超え、刃が軌道を描くより早く衝撃が走った。


 アズマールは片手で受け止めた。

 黒紫の装甲が火花を散らし、摩擦熱で空気が軋む。

 だが、その甲冑の縁がわずかに割れ、銀光が貫通した。

「……ほう。これは、面白い」


 仮面の奥の声は低く響く。

 次の瞬間、アズマールの掌に闇が集束した。

 螺旋状の魔素が凝縮し、黒い球となって回転を始める。


 セリーネが息を呑む。

「……高位干渉波! 全員、遮蔽を――!」


 しかし放たれた衝撃波は、音ではなく質量だった。

 空間そのものがねじれ、周囲の構造を変形させながら押し寄せる。

 レティシアは前進を止めず、逆に飛び込んだ。

「セリーネ、右後方を頼む!」

「了解!」


 翠光が弧を描き、白銀の影を包み込むように寄り添う。

 結界の層が二重三重に重なり、斬撃の軌跡と同期した。


 光と闇が交錯した。

 瞬間、世界が白と黒に割れた。

 爆発。

 風圧。

 衝突の閃光が砦を丸ごと包み込み、音は遅れて戻ってきた。


 轟音と同時に、レティシアの身体が後方へ弾き飛ばされる。

 白銀の翼が防御膜を形成し、衝撃を相殺しながら砦の壁面に激突――粉塵と瓦礫が弾け飛ぶ。

 ヴァルキリーの装甲が火花を散らすが、致命傷はない。


 砦の中央部が半ば崩落し、天井の魔導灯が一斉に落下する。

 粉塵の向こうで、セリーネが前方に踏み込み、結界を再展開していた。

 翠光の層が広がり、白銀の光と交わる。


 セリーネは右腕の装甲を押さえ、荒い息を吐いた。

「防御層、第五まで崩壊……出力、残り六割……」

 レティシアは振り向かずに応じる。

「十分よ。ここからは――押し返す番」


 ヴァルキリーの背部が開き、光の翼が再び展開する。

 その光は、闇を押し返すように周囲を満たした。

 圧縮された魔力が空気を震わせ、床の符術陣が淡く再点灯する。


 砦全体が軋み、魔力の脈動が内側から膨張していく。

 だがその刹那――闇の中心で何かが脈打った。

 黒紫の残光が再び明滅する。


 アズマール・ベル=ノクト。

 彼はゆっくりと姿を現した。

 黒紫の甲冑は傷ひとつなく、彼の周囲だけが静止している。

 時間の流れが切り取られたように、風も光も動かない。


「やはり――君たちの力は美しい」


 その声は低く、しかしどこか陶酔を帯びていた。

 次の瞬間、仮面の奥で光が走る。


「だが、秩序とは脆いものだ。崩すのは、たやすい」


 右掌がゆっくりと掲げられた。

 その動きと同時に、砦の空気が裏返る。

 黒い環が掌から放たれ、波紋のように広がった。

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