第二部 第三章 第1話
翌日――。
朝の柔らかな光が王都アステリアの石畳の街並みに優しく差し込み、グエン邸の広い中庭には小鳥のさえずりが響いていた。
まるで眠りから覚めるように、庭園の木々や花々も朝露をまとって輝いている。
その静寂を破るように、屋敷の門前に一台の漆黒の魔導車が音もなく滑り込んだ。
車体の側面には、近衛騎士団の紋章が誇らしげに銀色の輝きを放っている。
「お嬢様、近衛騎士アリシア様がいらしております」
使用人の報告に、玄関ホールで外套を整えていたアリスとレティアが同時に顔を上げる。
次の瞬間、軽やかな足音とともに扉が開き、朝の光の中からアリシアが姿を現した。
昨日の夜会の華やかなドレス姿とは一転し、今日は騎士団の制服を少しカジュアルに崩した装い――白いシャツに淡いグレーのジャケット、腰に差した小型の符術ナイフが彼女らしい気品と実用性を併せ持っていた。
「おはよう。……ふたりとも、よく眠れた?」
微笑みながら手を軽く振るアリシアの声には、朝の清涼な空気がそのまま乗っているようだった。
「うん。あのドレス、意外と疲れるのよね……」
アリスが苦笑まじりに肩を回すと、レティアも小さく頷きながら髪を整える。
「見た目は優雅でも、実際は鎧より重いものね。しかも視線の嵐」
「ほんと、それ。動くたびに誰かの目線を感じたもの」
三人の間に自然と笑いが生まれ、朝の空気が少し和らいだ。
アリスはふとアリシアの背後にある車を見やり、首をかしげる。
「それにしても、近衛騎士団の魔導車とは……今日は公務?」
アリシアは肩をあげて軽く竦めた。
「んーん、今日は完全に私用。でも、お父様――団長がね」
「おまえがグレイスラー閣下の孫娘とエクスバルド伯爵家の令嬢を案内するなら、公用車を使え」
「えっ……お父様が?」
レティアが驚きの声を上げ、思わず眉を上げた。
アリスも目を瞬かせる。
「王都の顔を歩かせて粗相があったら、騎士団の沽券にかかわる――って、すっごく物騒な顔で言われたわ」
アリシアが両手を広げて大げさに再現すると、レティアは吹き出した。
「……それ、すっごくアリシアのお父様らしいわね」
「まるで王都全体を警備対象みたいに扱うわね……」
アリスが苦笑しながら呟くと、アリシアは得意げに胸を張った。
「でしょ? でもおかげで今日は快適なドライブよ。ほら、車内もふかふかなんだから」
玄関先の陽光の下、三人は使用人たちに軽く礼をしてから魔導車に乗り込んだ。
車内は上質な黒革のシートと木目装飾が施され、静かな魔導駆動音が心地よく響く。
窓越しに流れていくアステリアの街並みは、朝霧に包まれた宝石のように輝いていた。
通りを行き交う人々、開き始めた露店、香ばしいパンの匂い――そのすべてが、王都の朝を穏やかに彩っている。
「それにしても……王都って、どこを見ても整ってるわね」
「建物も道も、全部が計算されてるみたい」
「秩序の街――って言われるくらいだからね」
「この時間帯は衛兵の巡回が終わる直後だから、街全体がいちばん清らかに見えるのよ」
「……なるほど。静けさが品を生んでるのね」
レティアが小さく頷き、窓枠に指先を添える。
「でも、昨日の夜会の熱気とは別の意味で、今日のアステリアは生きてる感じがする」
アリシアは満足げに微笑む。
「その感覚、好きよ。
王都ってね、呼吸してる都市なの。魔導機構も人の流れも、全部が連動してる。だから、朝は必ず穏やかで、夜は必ず騒がしい」
「まるで生き物みたいね」
「そう。だから私、こうして朝の王都を眺めるのが好きなの」
三人の視線の先で、陽光が塔の尖端に反射し、黄金の光を散らした。
やがて、車は王都中心部の大通りへと出る。
ややして、アリシアが予約していた王都でも評判の高いレストラン――白石造りの瀟洒な建物の前に到着した。
外壁に沿って植えられた花々が、柔らかな陽光を受けて淡く輝き、通りを行く人々が思わず足を止めて見入るほどの優美さを放っている。
「ここが今日のランチスポット。オルフェウス亭――王都でもちょっとした隠れ家よ」
アリシアが嬉しそうに言いながら、車のドアを押し開けた。
扉の前には繊細な彫刻が施された木製のアーチがあり、魔導灯が花のように輝いている。
ドアマンが恭しく一礼し、三人を中へと案内した。
扉をくぐると、暖色系の照明が落ち着いた空間を優しく包み込む。
レストラン内部は洗練されつつも温かみがあり、壁には地元画家による風景画が飾られている。
穏やかな弦楽が流れ、テーブルの上には淡い金のランナーと季節の花が添えられていた。
「わあ……静かで素敵」
アリスが思わず声を漏らすと、アリシアが得意げに胸を張る。
「でしょ? 王都の喧噪を忘れたいときにぴったりなの」
「うん……まるで別世界みたい」
レティアが微笑む。
案内されるまま、三人は奥の静かな個室へと通された。
部屋には大きな窓があり、外の中庭から柔らかな風が流れ込んでくる。
「……こうしてると、まるで旅の途中じゃなくて、休暇みたいね」
「ふふ、今日は研究前のウォーミングアップってことで」
アリシアがウィンクすると、レティアも頬を緩めた。
「ウォーミングアップでこんな贅沢、さすが王都の人ね」
「でしょ? それが王都流よ」
三人の笑い声が、柔らかな陽光に溶けていった。
「ここ、人気のお店なのよ。特に昼は混むから、グエン様のお名前を使って予約して正解だったわ」
「……うちの名をそんなふうに使うなんて、まったくもう」
アリスは苦笑しながら返したが、その声にはどこか楽しげな響きがあった。
テーブルには上質なリネンが敷かれ、白磁の皿が丁寧に並べられている。
アリシアが席に着くと、給仕が手早くメニューを差し出し、柔らかな声で説明を始めた。
「本日のお勧めは、地元産の旬の食材をふんだんに使ったコースでございます。前菜からデザートまで、すべて手仕込みでご用意しております」
三人は静かにメニューを眺め、やがて全員がランチコースを選択した。
ほどなくして料理が運ばれてくる。
「……すごく綺麗……」
アリスはその美しい盛り付けに目を見張った。
色鮮やかな季節野菜をあしらった前菜のプレートは、まるで絵画のように繊細で、見ているだけで心が躍る。
「野菜の甘みがしっかり感じられて、新鮮そのものね」
レティアは丁寧にナイフとフォークを手に取り、一口味わった。
「期待以上の美味しさだわ。さすが評判のお店ね」
アリシアも同じ皿から一切れを口に運ぶ。
メインディッシュは、ジューシーな仔羊のグリル。
香草と赤ワインのソースが香り立ち、付け合わせのローストポテトと温野菜が彩りを添えていた。
「お肉がこんなに柔らかいなんて……今まで食べた仔羊の中で一番かも」
アリスはナイフをゆっくりと入れ、やわらかく火の通った肉に感嘆の息を漏らす。
「赤ワインソースの深い味わいが、肉の旨味を引き立てているわ」
レティアは香草の香りを楽しみながら、ソースを少しずつ口に含んだ。
「こうしてゆっくり食事を楽しめるのも、久しぶりね。いつもは公務で慌ただしいから」
アリシアはフォークを置き、ふたりを見ながら微笑む。
三人の会話は自然と弾み、穏やかな空気が部屋を満たしていく。
食後のデザートは、濃厚なチョコレートムースとフレッシュなベリーの盛り合わせ。
「甘さが控えめで、ベリーの酸味がちょうどいいアクセントになってる」
アリスは一口頬張り、幸せそうに目を閉じた。
「食事を通じて心まで満たされる感じ。……こういう時間が持てるのって、大切ね」
レティアも紅茶を優雅に口に含み、静かに微笑んだ。
「さて――そろそろ行きましょうか。クラリスが研究所で待ってるはず」
アリシアはカップを置き、手首の魔導端末をちらりと確認する。
窓の外には、昼の陽光に包まれた王都の街並みが広がっている。
アリスはグラスの中の紅茶を飲み干し、穏やかに頷いた。
「うん。……じゃあ、行こう」
椅子を押し引く音が、静かな個室にやわらかく響いた。
再び魔導車に乗り込み、三人は王都郊外の研究地区へと向かった。
車窓の外では、街の喧騒が徐々に遠のき、代わりに緑豊かな並木道と開けた空が広がっていく。
王都の中心街を離れるにつれ、整然と並ぶ研究施設や魔導塔が姿を現し、穏やかな風が頬を撫でた。
「いつ来ても思うけど……王都って本当に静と動のバランスが絶妙ね」
「昼間でもちゃんと余白がある。急かされない感じ」
「うん……人も建物も、呼吸してるみたい」
アリスが頷くと、アリシアはバックミラー越しに微笑んだ。
「さすが観察が鋭いわね。ここ、王都の研究地区は静穏区って呼ばれてるの。
魔力干渉を避けるために、音や魔力の流れまで最適化されてるのよ」
「音まで……? 本当に徹底してるのね」
「そう。昼間の飛行艇航路だって制御されてるの。上空を滑っていくでしょ?」
アリシアが指差す先、白銀の光を残して一機の魔導飛行艇が静かに通過していく。
「音、聞こえない……」
「でしょ? 魔力制御と空間減衰フィールドの合わせ技。
あれもクラリスの研究チームが設計してるの」
「えっ、そうなの?」
「てっきり軍の開発局かと思ってた」
「ほぼ同じよ。彼女、技術局の第二研究室だから。
王宮の防御結界の監修にも関わってるって聞いたわ」
「……本当に多才ね、クラリスさんって」
レティアが感心したように小さく息を漏らす。
やがて、風に揺れる高い草原の向こうに、堂々とそびえる巨大な建物が見えてきた。
ミラージュ王国魔導技術開発局――王国が誇る叡智の中心。
鋼鉄と強化ガラスを組み合わせた近代的な設計で、直線と曲線が織りなす流線型の外観は、まるでひとつの巨大な魔導装置のようだった。
昼の陽光を浴びたガラスのファサードがきらめき、空と森の色を映している。
「うわ……これが研究棟……」
アリスは息を呑み、思わず窓越しに身を乗り出す。
その姿を見たアリシアが笑みをこぼす。
「圧倒されるでしょ? 初めて来たとき、私も口が開いたままだったわ」
「こんな場所でクラリスさんが研究してるなんて、想像以上ね」
レティアが低く感嘆するように言う。
「彼女、こんな大規模な施設の一角を任されてるなんて……」
「うん。研究者というより、もう技術顧問って感じだよね」
アリスの言葉に、アリシアは苦笑しながら肩をすくめた。
「名目上は主任研究員だけど、実際は誰も逆らえないわよ。
王宮直轄のプロジェクトをいくつも掛け持ちしてるから」
魔導車が滑らかに減速し、重厚な正門の前で静止する。
両脇には黒と銀の制服に身を包んだ衛兵が二人、魔導槍を携えて立っていた。
銀糸で刺繍された王家の紋章が朝日に光り、彼らの姿勢は一分の隙もない。
アリシアが車を降り、端末を取り出して衛兵に声をかける。
「アリシア・ラングレー。来客二名。第二研究室クラリス・ノーザレイン主任研究員より、事前許可申請済み」
衛兵は無表情のまま魔導端末を確認し、数秒後に敬礼して門を開いた。
「確認取れました。ご入場ください」
重厚な鉄製の門がゆっくりと開いていく。
その開閉音が、広い敷地の空気を震わせた。
整備された石畳の道の先には、光を反射する大きなガラス扉が待っている。
「クラリスさんが事前に許可を取ってくれていたおかげで、スムーズだったね」
アリスが感心したように声を漏らす。
「ほんとに行動力すごいよね……昨日のうちに全部手配してたのかも」
レティアも笑いながら頷く。
「いや、もう予定が組まれていたとしか思えないくらい完璧だった」
アリシアが冗談めかして言うと、アリスがくすりと笑う。
「偶然を計算に入れてる感じ、クラリスらしいわね」
「そうね。まるで、最初から私たちが来るってわかってたみたい」
三人の間に笑いがこぼれた。
「さて――行きましょうか」
アリシアが軽く手を差し出し、アリスとレティアがうなずく。
巨大なガラス扉が音もなく開き、冷んやりとした空気とともに、魔導炉の微かな脈動音が彼女たちを迎え入れた。
研究棟の内部は白と銀を基調とした静謐な空間。
壁に埋め込まれた魔導灯が柔らかい光を放ち、床には魔力伝導の紋様が流れるように刻まれている。
遠くで聞こえる装置の稼働音が、まるでこの建物全体が生きているかのような錯覚を与えていた。
「……やっぱり、ただの研究所じゃないわね」
「空気そのものが違う。魔力の密度が濃い」
「ここにいるだけで、魔力量が安定する感じがする」
アリスが静かに目を閉じ、空気を吸い込む。
「流石はクラリスさんの設計……本当にすごい」
アリシアは満足げに頷き、前方の案内パネルに視線をやった。
「第二研究室は奥のエリアよ。さ、行きましょう」
三人は並んで歩き出す。
磨き抜かれた床に映る自分たちの姿が、次第に研究棟の奥深くへと吸い込まれていった。




