第二部 第二章 第11話
空気がやわらぎ、四人は丸いテーブルを囲んで再び軽食に手を伸ばした。
テーブルの上には彩り豊かな前菜やフィンガーフードが美しく並び、スパークリングワインの泡が夜の灯りにきらきらと反射していた。
会場の喧騒は少し遠く、ここだけ穏やかな小さな島のような静けさがあった。
アリシアがふと顔をしかめて、笑いながら口を開く。
「もうね、挨拶ばかりでおなかペコペコよ。そろそろしっかり食べないと」
その明るい声に、三人の肩の力が一気に抜けた。
アリシアは手際よくミニサイズのローストビーフとクリスピーブレッドをお皿に盛りつけ、
「いただきます」と小さく呟くと、遠慮のない勢いで頬張った。
ワインの香りと肉の旨みが広がった瞬間、思わず満足げな声が漏れる。
「ん~……やっぱり最高。もうこれだけで報われた気分だわ」
その様子に、アリスとレティアは思わず笑みをこぼした。
「アリシアらしいわね」
レティアが肩をすくめ、軽く笑う。
「でも、確かに……わたしもお腹が空いてきたかも」
「私もいただこうかな」
アリスは柔らかく微笑みながら、フォークでトマトとバジルのカプレーゼをひとつすくい、口に運んだ。
果肉の張りとバジルの香りが弾けるように広がり、舌の上でオリーブオイルの香りがほどけていく。
「このトマト、甘くてジューシー。新鮮で美味しいわ」
アリスの素直な感想に、クラリスが微笑みを返す。
「この時期のトマトは、魔導温室で育てた特別品ですよ。
王宮の厨房専属の農園から直送されるとか……なるほど、納得の味です」
「さすが詳しいですね」
レティアが感心したように言いながら、イチジクとゴルゴンゾーラのオープンサンドを手に取る。
ふわりと香る甘い果実と、青カビチーズの塩気が絡み合い、唇の端が自然にほころんだ。
「甘さとチーズのコントラストが絶妙ね。……これは癖になりそう」
「でしょ?」
アリシアがうれしそうにうなずき、ナプキンで口元を軽く押さえる。
「ここ、いつも演奏会のあとにビュッフェみたいに開放されるけど、実は料理長が裏でこっそり品を増やしてるの。
だから、最初より後のほうが美味しいのよ」
「そんな裏話、よく知ってますね」
クラリスがくすりと笑う。
「あなた、研究者より情報通じゃない?」
「ええ、実地調査は得意だから」
アリシアが胸を張ると、アリスが吹き出しそうになった。
「実地調査って、食の探求のこと?」
「もちろん! 食べて確かめるのが一番正確よ」
レティアが肩を震わせて笑い、アリスも堪えきれずに声を漏らした。
笑い声が自然に重なり、テーブルの上に柔らかな空気が広がっていく。
クラリスがフォークを手に取りながら、少しだけ微笑みを深めた。
「こうして皆さんと食事を囲むのは、いつ以来でしょう……。
普段は研究室にこもりきりなので、こういう時間がいちばん贅沢に感じます」
「わかります」
アリスが頷き、グラスの縁を軽く指でなぞる。
「戦闘訓練や任務のあとは、食事の味をちゃんと感じる余裕なんてほとんどなくて……。
こうして笑って食べられるのが、何よりのご褒美ですね」
「それはきっと、心が落ち着いた証拠よ」
レティアが静かに言葉を添える。
「緊張や責任の時間が長すぎると、味覚も鈍くなるもの。
今のあなたたちの顔、ようやく“学生”に戻ったみたい」
「そう……見えますか?」
「ええ。とても」
アリシアの声に、アリスは照れくさそうに笑った。
和やかな笑い声がテーブルを包み、四人はカリカリのシュリンプトーストをつまみながら談笑を続けた。
海老の香ばしさとハーブの香りが混ざり合い、グラスの泡がまた静かに弾ける。
「これ、止まらなくなるわね」
アリシアが夢中でつまみながら言うと、レティアがくすりと笑う。
「気をつけないと、主賓より先にお皿を空にしそうよ」
「その時は……“戦場で鍛えた食欲です”って言うわ」
「ふふっ、それは通用しないと思うけど」
「じゃあ、“魔導食学の実験中”にする!」
アリスは笑いながら肩をすくめ、クラリスも堪えきれずに笑った。
笑いの波が静かに広がり、緊張の夜にようやく柔らかな灯がともる。
――気づけば、ワルツの音が少しだけ近づいていた。
遠くのダンスホールでは、貴族たちが軽やかにステップを踏み、煌めく光の中で揺れている。
それでも、アリスたちのいるこの小さなテーブルだけは、別世界のように穏やかだった。
「……不思議ですね」
アリスがぽつりと呟いた。
「同じ王宮なのに、こっちのほうが落ち着く」
「きっと、心地よい人が揃っているからよ」
クラリスがそう言い、グラスを軽く掲げた。
「出会いに、そして――今夜のこの時間に、乾杯」
四人のグラスが小さく触れ合い、澄んだ音が夜に溶けた。
その瞬間、アリスの胸にあたたかな灯がともり、言葉にできない幸福が、そっと形になっていくのを感じた。
クラリスはグラスを片手に、柔らかな微笑みを浮かべながらふと口を開く。
「そういえば、おふたりはいつ頃ファーレンナイトに戻られるのですか?」
アリスとレティアは顔を見合わせ、アリスが答えた。
「明後日です。昼発のファーレン行き魔導飛行艇に乗る予定で……」
「そうですか、それなら滞在もあとわずかですね」
クラリスは軽くグラスを揺らしながら、やわらかく微笑む。
「……先ほどの件ですが、帰国される前に、研究室に一度、顔を出してみませんか?」
「えっ、研究室って……魔導技術開発局のですか?」
アリスは驚きを隠せず、思わず声を上げた。
その目が一瞬、期待と警戒の間で揺れる。
「ええ」
クラリスは穏やかに頷き、唇の端に小さな笑みを浮かべる。
「いくつか興味深い資料や試作機も揃っていますし、特にアリスさんにぜひ見てほしいものがあるのです。
あの古代遺跡での魔力制御、理論的にも大きな発見になる可能性がありますから」
「……でも、私たち、部外者ですよ? 勝手に出入りなんてできないはず……」
アリスの声には戸惑いが混ざる。
クラリスはくすっと笑い、ハンドバッグ型の魔導ポーチを開けると、中から金属の光沢を帯びた一枚の認可証を取り出した。
王家の紋章が刻まれたそれを、軽く掲げて見せる。
「上層部の許可は既にいただいてあります。今日こうなることは――ほんの少しだけ予想していたので」
その声には、自信と遊び心が同居していた。
「えっ、準備が良すぎる……?」
レティアが目を見開いて呆れ顔を見せると、アリスもぽかんと口を開ける。
「もしかして、最初から誘うつもりだったんですか?」
「ふふ、どうでしょうね?」
クラリスはわざとらしく視線を逸らし、グラスをくるくると回した。
その小さな仕草さえ、どこか優雅で計算されているようだった。
そこへアリシアが口を挟む。
「ちょっと待ってよ。私も非番だけど、クラリス、私の分はどうなってるの?」
「あっ、ごめんなさい、アリシア。そっちは……うっかり忘れてた」
クラリスは少し気まずそうに笑い、アリシアは思わず額を押さえた。
「もうっ……行動力は素晴らしいけど、詰めが甘いのよね、クラリス」
「ふふ……でも、申請すればあなたの分もきっとなんとかなると思うわ」
「ほんともう……明日ちゃんと書類回しておいてね?」
「もちろん」
クラリスが即答すると、アリシアはふうっと息をついてワインをひと口。
「まったく……天才肌って、どうしてこう抜けてるのかしら」
「天才は、たまに“現実的な順序”を忘れるものよ」
レティアが笑いながら言い、クラリスが苦笑交じりに返す。
「う……否定できませんね。時間の流れより、興味が先に動いてしまうというか」
四人の間に小さな笑い声が弾け、ワインの泡がほのかに揺れた。
「……でも、アリスさん」
クラリスが改めてまっすぐ彼女を見た。
「本当に見ていただきたいのです。あなたが扱う魔力の“質”は、既存の理論では説明がつかない。
純粋な流動構造――それを、解析できるかもしれないのです」
「私の……魔力の質?」
アリスは思わず息を呑んだ。
レティアがその横で静かに腕を組む。
「つまり、“白銀化”時の魔力流の構造を観測したい、ということね?」
「ええ。ただ観測装置を通して、視覚的に記録するだけです。危険なことは一切ありません」
「クラリス、それを“観測だけ”で済ませるつもり?」
アリシアがやや疑いの目を向ける。
クラリスは悪びれずに微笑んだ。
「もちろん。……たぶん」
「たぶん、て言いました?」
レティアがすかさず突っ込み、場がまた和やかに笑いに包まれた。
その空気の中で、アリスは小さく息を吐き、そして微笑んだ。
「……少し怖いけど、なんだかワクワクしてきたかもしれない」
その言葉には、かすかな興奮と期待が混ざっていた。
未知への好奇心――それは、彼女の中の“研究者の魂”が静かに反応した瞬間でもあった。
レティアは軽やかに笑いながら肩をすくめる。
「行ってみればいいじゃない。帰国の前日なんだし、ちょっとくらい面白いことしてもいいでしょう?」
「じゃあ、決まりね!」
アリシアが楽しげに手を打った。
「明日はランチを食べながら行きましょう。軽くおしゃべりしてから、研究室へ」
「それ、いいですね。少しゆっくりできそうですし」
アリスが頷き、レティアも笑顔で同意した。
「じゃあ、午前中は身支度して、昼前に合流ね」
「了解。研究見学の前に、ちゃんとおしゃれして行かないと」
「ふふ、それなら白衣の上にでも着てみます? 似合うかもしれませんよ」
「やめて。せっかくのドレス姿が台無しになるから」
アリシアが笑いながら返し、アリスとレティアもつられて笑う。
穏やかで、温かな笑い声が広がる。
クラリスはグラスを置き、真剣な表情に戻った。
「では私は先に研究室で準備を進めておきます。明日の午前中には例の機材も届く予定ですから……お楽しみに」
「例の機材……?」
アリスが小首を傾げると、クラリスは意味ありげに微笑む。
「見てからのお楽しみ、です。――きっと、あなたの魔力を映す“鏡”になりますよ」
「……鏡、ですか」
アリスの心に小さな光が灯る。
それが不安なのか、期待なのか――彼女自身にもまだ分からなかった。
グラスの中で泡が静かに弾け、王宮の夜は少しずつ深みを増していく。
四人の笑顔と約束が、その光の中でゆるやかに溶けていった。
そのとき、場の空気を察してグエンが現れた。
「楽しそうだな。……そろそろ、晩餐会もお開きの時間だ」
その声に、三人ははっと姿勢を正した。
ちょうどその瞬間、会場の一角に設けられた楽団が穏やかな終曲を奏で始める。
続いて、司会を務める貴族が壇上へと進み、澄んだ声で告げた。
「皆様、本日の交流晩餐会は、これにてお開きとさせていただきます。ミラージュ王家より、皆様に深い感謝を申し上げます」
静かな拍手が広がり、会場全体がゆるやかに一つの節目を迎えた。
壇上奥――玉座席に並ぶ王族たちがゆっくりと立ち上がり、来賓一同に向けて緩やかに一礼を捧げる。
王妃エレナは穏やかな微笑みを浮かべ、国王カイルはゆっくりと壇上中央に進み出て、重厚な声で締めの言葉を述べた。
「今宵の出会いと対話に感謝する。われらミラージュ王家は、南大陸の未来に向けて皆と手を携え歩む所存である。
どうか、今日という夜が、その一歩となることを」
厳かでありながら温かみを帯びたその言葉に、会場から改めて大きな拍手が湧き起こる。
王族たちは拍手の中、玉座席の背後にある扉へと静かに退場していった。
先頭を行くカイル国王に続き、王妃エレナ、第一王子レオン、第二王女セリーヌ、第三王女フィオナが一人ひとり優雅な足取りで姿を消していく。
その後ろ姿を見送ったアリスは、ふっと深く息を吐いた。
――晩餐会という華麗なる舞台は幕を閉じた。
だが、胸の奥には何かが確かに動き始めた予感が、静かに脈打っていた。
「さ、戻るとしようか」
グエンの穏やかな声に、アリスとレティアは静かに頷いた。
そのまま出口へと向かおうとした時、アリスはふと振り返る。
「アリシア、クラリス。また明日ね」
「うん、王都観光と研究室見学、両方楽しみにしててね?」
「明日は正午頃にお迎えを手配しておくわ。じゃあ、気をつけて帰ってね」
「ありがとう。ふたりとも、おやすみなさい」
レティアが礼儀正しく頭を下げ、アリスも笑顔で応じる。
まだ余韻を残す来賓たちの間をゆっくりと抜け、彼女たちは夜風の待つ宮廷の外へと歩みを進める。
次なる出会いと、旅立ちの準備が静かに始まろうとしていた。




