第二部 第二章 第10話
王族との謁見を終えたアリスとレティアは、ようやく肩の力が抜けたように、ほっと静かに息を吐いた。
その様子を見守っていたグエンが、穏やかで落ち着いた声をかける。
「……そろそろ、少し休むといい。向こうで軽食が振る舞われている。あまり詰め込みすぎないようにな」
アリスは一瞬、はっと顔を上げ、それから微笑を浮かべて深く頷いた。
「ありがとうございます、おじい様……少し、頭が真っ白になってました」
グエンは静かに頷き、目元を和ませる。
「誰でも最初はそうなる。だが、よくやったよ。堂々としていた」
「……そう見えていたなら、よかったです」
アリスは小さく息を吐き、胸元を押さえた。
緊張の余韻がまだ指先に残っている。
レティアも、姿勢を正したまま軽く礼を返す。
「では、しばし失礼いたします。……本当に、貴重な経験をさせていただきました」
二人は一礼を交わし、会場の端――休憩スペースへと歩を進めた。
その一角は、騒がしさから離れた穏やかな空間だった。
白い大理石の柱がゆるやかに弧を描き、間には淡い金糸の絨毯が敷かれている。
彫刻の施された木製テーブルには、美しく盛られた小皿料理が並び、透き通るようなグラスが整然と並べられていた。
「……やっと、呼吸できる」
アリスが胸に手を当てて小さくつぶやく。
「緊張してたけど、なんとか乗り切れたかな」
「ええ。堂々としていたわよ」
レティアは優しく微笑みながら、アリスの肩を軽く叩いた。
「あれだけの視線に晒されて、震えもせずに挨拶できたんだから」
「震えてたよ、ちょっとだけ……ほら、ドレスの裾が揺れてたでしょ? あれ、足が勝手に動いてたの」
「ふふ……気づかなかった。完璧だったもの」
「……それなら、よかった」
アリスは照れくさそうに笑い、ふうっと息を漏らした。
「少し気が緩んできたかも。今なら倒れずに歩けそう」
「よく耐えたわ。王族との対面なんて、そう何度もあるものじゃないし」
レティアは微笑んで、軽く髪を整える。
「でも――今日のあなた、ちゃんと“グレイスラー家の孫娘”だった」
「……そんな風に言われると、余計に照れる」
アリスは頬を赤らめ、つい視線を逸らした。
その仕草に、レティアは思わず小さく笑いを漏らす。
二人は穏やかに笑みを交わし、テーブルへと近づいた。
そこには、彩り豊かな軽食が美しく並んでいる。
小ぶりなベリーのカナッペ、ミニタルト、熟成チーズの盛り合わせ、瑞々しい果実――どれもが宝石のように繊細だった。
「……うわ、綺麗。食べるのがもったいないくらい」
アリスはそっとベリーのカナッペを摘み上げ、口に運んだ。
「……ん、美味しい……甘すぎない、果実の味がちゃんとする」
「このチーズ、軽やかね。熟成が浅いのに風味が深い……やっぱり王宮の料理人は格が違うわ」
「わかる。口の中が幸せ……」
「幸せ、ね。ふふ、そんな表現、あなたらしいわ」
その時、控えめに給仕の一人が声をかけてきた。
「お飲み物はいかがなさいますか?」
「じゃあ……スパークリングワインをお願いします」
「私も同じもので」
やがて、淡い金色の泡がグラスに注がれた。
天井のシャンデリアの光を受け、細かな泡が静かに立ち昇っていく。
二人はその美しさに一瞬見とれながら、軽くグラスを合わせた。
「……乾杯、かな?」
「ええ。“無事に生還”の乾杯よ」
アリスはグラスを唇に寄せ、静かにひと口。
「……これで、少し生き返ったかも」
「まだ夜は長いわよ」
「そうだね。でも――今は、この瞬間くらい、ただ味わいたい」
「いいわね。それが一番、らしいもの」
ふたりの笑みが重なり、音楽と灯の中で穏やかな時間が流れていった。
緊張の糸がほどけ、静かな余韻だけが、王宮の夜に優しく漂っていた。
そして――揺れる緋色のドレスとともに、明るい声が響いた。
「アリス、レティア!」
振り向いた瞬間、アリスの顔に笑みが浮かぶ。
そこには、淡い金髪を優雅に結い上げたアリシアが、満面の笑みを浮かべて立っていた。
背後の光を受けて輝く宝石の髪飾りが、彼女の明るさをさらに引き立てている。
「また会えてよかったわ。さっきは人が多くて、ちゃんと話せなかったから」
「アリシア……こちらこそ」
アリスは自然な笑みで応じる。
緊張の続いた空気が、ようやく少し和らいだ気がした。
アリシアはふたりの隣に静かに立つ女性へと視線を向け、軽く手を差し出した。
「紹介するわ。彼女はクラリス・ノーザレイン。学院時代からの親友なの」
クラリスは淡い藤紫のドレスをまとい、柔らかに波打つ栗色の髪を肩に落としていた。
理知的な灰青の瞳が印象的で、その奥には静かな光が宿っている。
控えめに一歩進み出て、礼儀正しく一礼した。
「はじめまして。ミラージュ王国魔導技術開発局・第二研究室のクラリス・ノーザレインと申します。
アリシアさんから、アリスさんのこと……いろいろと伺っておりました」
その声音には、研究者らしい落ち着きと、どこか親しみの温かさが混ざっていた。
「アリス・グレイスラーです。こちらは、レティア・エクスバルド。どうぞよろしくお願いいたします」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
クラリスは微笑みを返し、その表情にはどこか柔らかな誠意が滲む。
そして、軽く視線を落としながら言葉を続けた。
「……合同魔物討伐演習でのご活躍、特に古代遺跡での戦闘は、我々技術局でも大きな話題となっておりました。
記録解析や魔力反応の追跡対象にも指定されていたのですよ」
「えっ……技術局で?」
アリスは驚きに目を瞬かせ、思わず肩を強張らせた。
「はい。報告書や映像記録は定期的に回覧されますから。
その中に映っていた“白銀の球体群”――あれは非常に興味深いものでした。
純魔力による多層干渉制御、あの規模を個人で展開できる例は、過去にもほとんどありません」
「し、白銀の……」
アリスはわずかに頬を引きつらせながら、視線を泳がせた。
レティアがその横顔をちらりと見やる。
アリスの指先が、無意識にドレスの裾を握りしめているのに気づいた。
「……記録、残っていたんですか?」
「ええ。映像にははっきりと。――ただ、驚かせてしまいましたね」
クラリスは一歩引いて、優しい声色に戻した。
「そ、それは……あまり大したことでは……
もし“同じことを再現しろ”と言われても、できるかどうか……」
アリスは曖昧な笑みを浮かべ、言葉を濁した。
胸の奥で、何かがざらりと擦れるような感覚が走る。
――あの夜。
意識の深くで、もうひとりの自分が目を覚ましていた。
レティシアとしての記憶が、光の奔流の中で彼女を導いていた。
身体は動いても、心は遠く。
自分が“戦っていた”というより、誰かに“導かれていた”ような錯覚。
その曖昧な感覚を、誰にも知られたくなかった。
だからこそ、アリスは無意識に首を横に振っていた。
あの“力”を、今の自分が名乗ることはできない。
まだ、その意味を理解できていないのだから。
クラリスはその沈黙を察し、詮索をやめた。
わずかに表情を緩め、丁寧に頷く。
「失礼しました。……我々研究者は、つい“現象”に目が向きすぎてしまうのです。
ですが、無理に答えさせるつもりはありません。あくまで興味として、ですから」
「いえ……お気遣いありがとうございます」
アリスは小さく頭を下げた。
その姿に、レティアがやや口元を緩める。
「確かに派手ではありましたが、本人は謙遜しすぎなのです。
実際には、あの場にいた誰よりも冷静に戦っていましたよ」
「ちょ、ちょっと……レティア!」
アリスが小声で抗議する。
しかしクラリスは、柔らかく笑みを浮かべたままだ。
「その“できること”がどれほど貴重で、そして稀有なことか――
私たちには痛いほどわかります。制御できる強さほど、美しいものはありませんから」
アリスは俯いたグラスの縁を指でなぞり、ためらいがちに言葉を継いだ。
「……制御、か。私はまだ、怖いんです。
次に同じことが起きても、同じようにできるのか、わからなくて」
クラリスは一拍置き、まっすぐにアリスを見る。
「“わからない”と口にできるのは、大切な資質です。
不確かさを自覚して、なお手放さない――それが再現性という器を育てるのでしょう」
レティアが、横で静かに頷く。
「だから今日、あなたは無理に語らない。
それでいいの。……成果は、いずれ言葉より雄弁になるわ」
アリシアがそっと肩に手を置き、穏やかに笑った。
「きっと言えるわ。あなたたちなら。
――ねえ、よかったら今度、研究局の見学に来ない? 試験や査問じゃなくて、ただの見学。
今日の“緊張しない空気”を、あっちにも作っておくから」
「見学……?」
アリスは目を瞬く。
クラリスが小さく頷き、いたずらっぽく微笑む。
「お茶と菓子も用意します。
それに、白銀の球体群の“数え方”――記録班が考案した妙な指標があって、ちょっと面白いのです」
「数え方……?」
「ひとつ、ふたつ、ではなく、“位相束”で数えるんですって」
「ふふ……なんだか、研究者の人たちって可愛い」
アリスが思わず笑うと、クラリスも肩をすくめた。
「可愛いかどうかはさておき、皆、真剣なんです。
未知を怖れず、でも軽んじない。あなたの姿勢に、近い人たちですよ」
アリスはわずかに目を細め、静かに頷いた。
「……いつか、胸を張って“そうです”って言えるようになりたいです」
「その“いつか”を、私たちは急かしません」
クラリスが柔らかく応じる。
「ただ、歩幅を測るのは手伝える。
あなたが望む速さで、望む方向へ」
レティアがグラスを持ち直し、淡い泡を一口だけ含む。
「いい申し出だわね。……アリス」
「うん。行ってみたい。
――その時は、レティアも一緒に」
「もちろん」
アリシアが嬉しそうに手を軽く叩く。
「決まり。日取りは後で調整しましょう。
あ、せっかくだから今夜は“楽しむ”ことも忘れずに。
ほら、あっちのテーブル、季節のミルフイユが出てる」
「え、どこどこ」
アリスがきょろりと目を向ける。
レティアが小声で囁く。
「さっきの“幸せ”の続き、ね」
「うん。……ちゃんと味わう」
柔らかな音楽とともに、四人の間に穏やかな笑いが生まれる。
緊張の残響がようやく薄れ、王宮の光の中で――
アリスの心に、ほんのりと温かな安堵が灯っていた。




