第二部 第二章 第9話
その視線のひとつがはっきりとこちらを見据え、静かな声が耳に届いた。
「失礼。少しお時間をいただけますか?」
その一言に、アリスの心臓が一瞬強く跳ねた。
振り返った彼女の瞳に映ったのは、威厳と品格を纏った青年。
黒と藍を基調とする王族の礼装には王家の紋章がさりげなく織り込まれ、端正な顔立ちと鋭い眼差しが強い印象を残す。
彼は――ミラージュ王国第一王子、レオン=ミラージュ。
まばゆい光の中に立つその姿は、まるで夜空を背にした孤高の星のようだった。
「……っ」
突如王族からの呼びかけに、アリスは思わず息を呑み、一瞬たじろぐ。
けれど、隣で静かに一礼するレティアの所作を見て、すぐに気を取り直した。
胸の前で手を重ね、深く頭を下げる。
「初めまして、レオン殿下。……本日はご招待いただき、誠に光栄に存じます」
その声はわずかに緊張していたが、礼の形は完璧だった。
レティアも優雅に一礼し、凛とした落ち着きのある声で言葉を添える。
「学院生の身でこのような場にお招きいただき、恐れ多く存じます」
レオンはその二人の姿を静かに見つめ、穏やかに口を開いた。
「こちらこそ。学院生でありながら、我が国の騎士団が苦戦した魔獣を討ち果たしたと聞き、興味を持たざるを得ませんでした」
その言葉に、周囲の貴族たちがざわめきを見せる。
“王子自ら声をかけた”――それだけで十分すぎるほどの注目を集める事態だ。
レオンの視線は真っ直ぐにアリスを捉え、好奇心と敬意、そして探るような鋭さが混じっていた。
「――あなたが、“白銀の英雄”と呼ばれるお方ですね」
「……はい。まだ未熟者ではありますが、全力を尽くしたまでです」
アリスは視線をそらさず、凛とした声で答えた。
レオンはその答えに満足げに頷き、ふっと口元を緩める。
「その言葉に嘘はないと、すぐにわかります。驕らぬこともまた力の一つですから。……あなたの祖父上に似ておられる」
アリスの頬が少し熱を帯びた。
「おじい様に……? そんな、恐れ多いです」
「いいや、目の奥にある光が同じだ。自分の力を誇るためではなく、守るために使う者の目だ」
(……守るための力。それを、王族が……私にそう言ってくれるなんて)
胸の奥に小さな炎が灯るような感覚。
レオンはわずかに口元を上げ、今度はレティアへと視線を移した。
「そして、あなたがエクスバルド伯爵家のご息女――。なるほど、なるほど。剣と魔術双方に長ける才を、ぜひこの目で確かめてみたいものです」
レティアは堂々と微笑み、軽く会釈する。
「お言葉、光栄に存じます。機会があれば、ぜひ剣を交えていただければと」
「……剣を、ですか?」
「ええ。殿下の剣術は王国随一と伺っています。私も学ばせていただければ幸いです」
レオンの表情がわずかに驚きに変わり、すぐに愉快そうに笑みを浮かべた。
「まさか王族に挑戦状を出す方がいるとは……しかし、嫌いではありません」
アリスが思わず苦笑する。
「レティア、さすがに大胆すぎじゃ……」
「礼儀は守ったわよ? “学ばせていただければ”って言ったもの」
「いや、そういう問題じゃ……」
二人の小さなやり取りに、レオンの笑みがさらに柔らかくなる。
「仲の良いことですね。なるほど、噂に聞く“学院の双翼”というのはこのお二人か」
「そ、双翼……?」
「ええ。ファーレンナイトではいざ知らず、ミラージュではそう呼ばれていますよ。
“白銀の英雄”アリスと、“蒼き理”レティア――。
二人で並び立つ姿は、ファーレンナイト王立魔導学院の誇りだと」
アリスとレティアは顔を見合わせ、同時に苦笑した。
「……知らなかったわね」
「ほんと、初耳だよ……」
「なら、今夜知っておいてください。皆、あなた方を見ています」
レオンは最後に穏やかに言葉を重ねた。
「本日はどうか気負わず、心ゆくまでお楽しみください。
そして、我が国の“今”を支える多くの方々との交流を深めていただければ幸いです」
言葉を終えた彼は深く一礼し、その場を静かに去っていった。
その背中を見送る間にも、周囲の視線が一層強くなっていくのを感じる。
アリスはそっと息を吐き出した。
「……緊張した……王子様って、やっぱり圧がすごい……」
「でも、見事に応えてたわよ。堂々としてた」
「堂々なんて……足、震えてたよ……」
「それでもあの方の目を真っすぐ見てた。――それが一番、大切なの」
「……ありがとう。ほんとに、レティアがいなかったらどうなってたか」
「次はあなたが私を助けてね。王妃殿下に声をかけられたら、たぶん私が緊張で固まるから」
「えっ……そ、そんなの……!」
「ふふ、冗談よ。でも、本当にあるかもしれないわ」
その二人の様子を少し離れた場所で見守っていたグエンも、わずかに目を細めていた。
柔らかな灯りの下、その瞳には確かな誇らしさが宿っている。
――孫娘が、堂々と“王族”と対話する日を迎えたのだ。
(……よくやった、アリス)
胸の内でそう呟きながら、グエンは静かにワインを掲げた。
第一王子レオン殿下との会話が終わって間もなく、場内は再びざわめきに包まれた。
柔らかな弦楽器のワルツが奏でられる中、ふわりとしたドレスの裾が優雅に揺れる。
その足取りとともに、ふたりの若い女性が静かにこちらへ歩み寄ってきた。
ひとりは深紅の豪華なドレスに身を包み、知性と気品を漂わせる美貌の持ち主――ミラージュ王国第二王女、セリーヌ=ミラージュ殿下。
もうひとりは銀糸の刺繍を施した純白のドレスに柔らかな金髪を垂らした、無垢でおっとりとした少女――第三王女、フィオナ=ミラージュ殿下である。
周囲の貴族たちが一斉に姿勢を正し、空気がふっと張り詰めた。
アリスも思わず息を呑み、その場に漂う“気品”の重みを肌で感じ取った。
セリーヌ殿下は微笑をたたえながら、まずグエンに礼儀正しく声をかける。
「グレイスラー侯、今宵はご出席いただき誠にありがとうございます」
その声は落ち着いていて、音楽の旋律の上を静かに流れるようだった。
「セリーヌ殿下、お目にかかれて光栄でございます。陛下や王子殿下のお姿から、王家がしっかりと国を支えていることが伝わってまいりました」
グエンの返答には、長年の軍務で培われた威厳と敬意が込められている。
セリーヌは軽く頭を下げ、視線をゆっくりとアリスとレティアへと向けた。
「そちらのおふたりが、“白銀の英雄”と、その討伐任務で共に戦われた方々とお聞きしております。魔術騎士団内でも話題となっていると伺いましたわ」
「恐縮です……そんな大それたものでは」
アリスは頬を染め、わずかに肩をすくめる。
だがレティアは動じず一歩前へ出て、落ち着いた声で丁寧に会釈した。
「恐れながら……噂が独り歩きしているようで、恐縮しております」
その姿勢はまるで舞踏の一幕のように自然で、気品に満ちていた。
すると、フィオナ王女がぱっと目を輝かせ、無邪気な笑顔で続ける。
「でも、本当にすごいのです! この間、魔導騎士団の方から伺いましたの。
まだファーレンナイト王立魔導学院の生徒さんでありながら、ものすごく強くて、しかも礼儀正しいって」
「えっ、そ、そんな……!」
アリスは戸惑いながらも、思わず笑みをこぼす。
「ありがとうございます、殿下……。ただ、まだまだ未熟でして。今日も緊張してばかりで……」
「それでも、しっかり振る舞っている。何よりのことですわ」
セリーヌ殿下は落ち着いた声で優しく頷き、堂々とした眼差しを向ける。
「あなたがグレイスラー侯の孫娘だと聞いたときは正直驚きましたが――なるほど、それでなければこの場にふさわしい姿勢は育ちませんわね」
(……褒められてる? え、これ、褒められてる……んだよね?)
頬がほんのり熱を帯びる。
一方で、フィオナ王女は微笑みを絶やさず、少しだけ前に出て声を潜めた。
「私もね、あなたたちとお話しできて本当に嬉しいの。とても素敵なドレスでしたし……わたし、いつかあんな風に堂々と歩けたらいいなって思っているの」
「……堂々、ですか」
アリスが小さくつぶやくと、レティアは肩をすくめて笑った。
「実はアリス、最初はドレスを着るのをすごく嫌がってたのよ」
「レティアっ!?」
アリスが慌てて抗議の声を上げる。
「だって……慣れてなかったし、歩くと裾が絡まるし、息が詰まるし……!」
「緊張してるアリスを見たときの仕立て屋の方の顔、忘れられないわ」
「やめてぇ、恥ずかしいからぁ……!」
そのやり取りに、ふたりの王女は息を合わせてくすりと笑った。
「仲が良いのですね」
セリーヌ殿下は妹を見るような優しい眼差しでふたりを見つめる。
「どうか今後も、王国との交流の中で、あなたたちのような若い力が良い風を運んでくださることを願っております。……私たちの未来は、あなたたちのような存在に託されていくのですから」
その言葉には、単なる礼儀を超えた誠意が感じられた。
アリスとレティアは自然に深く頭を下げ、感謝の意を込めて答える。
「ありがたきお言葉、肝に銘じます」
「ありがとうございます。身に余る光栄です」
「がんばってね! またお話ししましょう!」
フィオナ王女が嬉しそうに微笑みかけ、ふと何かを思い出したように両手を合わせた。
「あっ、そうだわ。実はね……わたし、今年の六月からファーレンナイト王国の王立魔導学院に留学することになったの」
「え……!」
アリスもレティアも驚きの声を上げた。
「本当?」
アリスが問い返すと、フィオナは嬉しそうに頷いた。
「うん! ずっと憧れてたの。王都でお話を聞いてからずっと行きたかったのよ。騎士や魔導師を育てる学院がどんなところか知りたくて……」
「殿下が学院に……」
レティアは感心したように目を細める。
「身分を超えて実力が問われる場所です。でも、その志があればきっと素晴らしい経験になります」
「ありがとう。だから、アリスさんやレティアさんにまた学院で会えたらいいなって思ってたの。……もし困ったら頼ってもいい?」
アリスは自然に笑みを返す。
「もちろんです。私たちも最初は不安だらけでしたから。殿下が来られたら、全力でお手伝いします」
「うれしい……! じゃあ今度は学院でね!」
そう言い残し、王女たちはゆったりとした歩みで他の来賓へと戻っていった。
金糸の刺繍が光を受けてきらめき、まるで夢のような後ろ姿が遠ざかっていく。
残されたアリスは頬をほんのり染めながらレティアに囁いた。
「……なんだか、王族ってもっと……怖い人たちだと思ってた」
「王族も人間よ。……でも、きっと“見てる”わ、あなたのことを」
「え?」
アリスが目を瞬かせると、レティアは静かに微笑んだ。
「あなたの姿勢、言葉、そして眼差し――どれも真っ直ぐだった。あの方たちがあなたに興味を持たないはずがないもの」
「……重い言葉ね。でも、嬉しい」
「責任の重さと誇りは、いつも一緒にあるものよ」
「うん……ちゃんと、受け止める」
その会話を遠くから見つめていたグエンは、静かにワインのグラスを傾けた。
柔らかな光が孫娘を包み、まるで一人の“少女”が確かに“女性”へと歩みを進めた瞬間を祝福しているようだった。
――王宮の晩餐会という大舞台の意味が、アリスの胸の奥に、少しずつ確かな実感として迫ってきていた。




