第二部 第二章 第8話
リチャード公爵が軽く礼を交わしてゆっくりと退場した直後、グエンは静かにアリスとレティアへ視線を向け、落ち着いた口調で告げた。
「……陛下がお近くにおられる。礼を整えておけ」
その一言は、会場内に流れる柔らかな音楽と談笑の合間を切り裂くように響き、アリスの胸に鋭く刺さった。
思わず呼吸が乱れそうになるが、隣でほとんど動かず微かに頷いたレティアの存在が、まるで岸辺の灯台のように彼女の心を支えた。
彼女たちが見上げる先、会場奥の一段高い玉座席には、ミラージュ王国国王カイル=ミラージュ陛下と王妃エレナ=ミラージュが静かに着座している。
その佇まいは凛とし、場の空気を一層厳かに引き締めていた。
国王の右隣には、端正な表情の第一王子レオン。
彼の鋭い視線は、並ぶ家族の中でもひときわ強い存在感を放っている。
その隣には、優美に微笑む第二王女セリーヌと、しっとりとした威厳を湛えた第三王女フィオナ。
王家の威光が、ひとつの完璧な輪となって輝きを放っていた。
グエンの静かな先導に従い、アリスとレティアは慎重に列の間を進む。
彼女たちの歩みは決して速くはないが、どこか揺るぎない決意に満ちている。
その姿に、会場内の注目が再びふたりに集まった。
期待を含みつつも、緊張と敬意が入り混じる複雑な視線が若い女性二人へと注がれていく。
「グレイスラー侯、よくぞ参った」
国王カイルの低く重厚な声が響き渡る。
空気がさらに引き締まり、その声はまるで場の神聖さを象徴するかのようだった。
グエンは深く一礼し、礼節を尽くす。
一歩身を引いて、いよいよアリスとレティアを正式に紹介した。
「わたくしの孫娘、アリス・グレイスラー。
そして、その隣に立つは、合同魔獣討伐任務にて共に戦い、ファーレンナイト王立魔導学院の学院生、レティア・エクスバルドでございます」
アリスとレティアは揃って正装の裾を優雅につまみ、身を低く折ってカーテシーを捧げた。
洗練されたその仕草は、幼い頃から磨き込まれた所作を物語っている。
カイル王の鋭くも温かい視線が、まずアリスに注がれた。
「……噂は耳にしておる。『白銀の英雄』と称されるお方と聞いておる。
演習中とはいえ、現れた厄災級魔獣を討伐した実績――その若さにして、誠に感嘆に値する」
アリスはわずかに息を吸い込み、礼を崩さず丁寧に応えた。
「身に余るお言葉にございます、陛下。
わたくしはただ、与えられた役目を必死に果たしたまでにございます」
その言葉に、王妃エレナが穏やかな微笑みを添える。
「その誠実な言葉こそ、心の持ちようを如実に示しています」
次に、カイル王はゆっくりと視線をレティアに移した。
「……そして、そなたはエクスバルド家の娘か」
「はっ、レティア・エクスバルドにございます」
レティアは凛とした声で答え、その堂々たる態度が誇りと自信を滲ませていた。
「〈魔導戦の五家〉の名は我が王国にも広く知られており、そなたの働きも見事なものと聞いておる」
「光栄に存じます、陛下。まだまだ未熟者ではありますが、ファーレンナイトの誇りを胸に、精進を重ねております」
その傍らで、第一王子レオンがわずかに頷き、第三王女フィオナがそっと優しい笑みを向ける。
カイル王は再び言葉を続けた。
「グレイスラー侯、そなたの孫娘も、その友も――いずれ両国、否、南大陸の未来を動かす存在となるかもしれぬ。
今宵の出会いは、誠に意義深いものである」
グエンは深く頭を下げ、心より感謝を示す。
アリスとレティアも息を合わせて膝を折り、礼を重ねた。
カイル王は軽く頷き、穏やかな声音で会場へ告げる。
「今宵は歓談の場である。若き才たちよ、己を飾ることなく、静かにその光を示せ」
その言葉はアリスの胸の奥に温かく響き、確かな決意を新たに刻み込んだ。
(逃げないと決めたんだ。ならば……どんなに小さな一歩でも、しっかりと前を向いて進まなくちゃ)
謁見の礼を終え、アリスとレティアが揃って一礼を終えると、カイル王は穏やかな表情を浮かべながらゆっくりと頷き、その視線を静かに続く来賓へと移していった。
玉座の上、その姿はまさしく“王国”そのものの象徴――威厳と包容が同居する静かな力を感じさせる。
その動きに呼応するかのように、グエンも背筋をぴんと伸ばし、二人に控えめながら確かな目配せを送った。
言葉はなくとも、その意図は明確だった。
――よくやった。そのまま、堂々と。
アリスは小さく息を整え、胸の奥の鼓動を鎮めながら微かに頷く。
「……終わったね」
小声で呟いたその声は、緊張から解かれた直後の静かな安堵を帯びていた。
レティアは横目で彼女を見やり、微笑を浮かべながら囁く。
「ええ。完璧だったわ、アリス。あの場で一歩も乱れなかった」
「ほんとに? 途中、声が震えてたかもしれないけど……」
「気づいた人なんていないわ。むしろ、王妃殿下――エレナ様があなたの所作を見て微笑んでた」
「え……うそ……?」
「本当。あなたの礼の仕草、よほど印象に残ったのね」
アリスは思わず息を呑み、顔を伏せて小さく囁いた。
「そんな……私なんかが、王妃様の目に止まるなんて」
「“私なんか”なんて言わないの」
レティアの声が優しくも、どこか強く響く。
「あなたはこの国の客人として、そして――“白銀の英雄”としてここに立っているのよ。胸を張って」
その言葉に、アリスは少しだけ笑みを返し、小さく頷いた。
三人は互いの呼吸を意識し合い、微妙な間合いを保ちつつゆるやかにその場を下がる。
玉座から少し距離を取りながら歩を進める彼女たちの背後で、王族たちの凛とした姿が徐々に遠ざかっていった。
それでも、あの静謐な威圧感と光のような存在感はなお背中を照らし続けている。
その光を感じながら、アリスは胸の奥で静かに呟いた。
(――これが、“王の間”という場所……。空気そのものが違う。息をするたび、覚悟を問われてるみたい)
グエンが小声で振り返り、穏やかに声をかける。
「よくやった、二人とも。礼の所作、完璧だった。少しも臆する様子がなかった」
「ありがとうございます、グエン様」
レティアが丁寧に応え、アリスも慌てて頭を下げた。
「見よう見まねでしたけど……失礼がなかったなら安心しました」
「失礼どころか、見事だったよ。――王も、君たちをしっかり見ておられた」
アリスは息を詰める。
「……陛下が?」
「ああ。君が一礼を終えた瞬間、わずかに口元が緩んだ。あれは“認めた”という合図だ」
「そ、そんな……」
「謙遜しなくていい。あの場で動じなかったこと、それだけで十分だ」
グエンの言葉に、アリスは胸の奥から熱がこみ上げるのを感じた。
レティアも静かに微笑し、そっと肩に手を置く。
「誇っていいわ、アリス。あなたは堂々と、“王の前に立つ者”だった」
「……ありがとう。二人がいてくれたから、ちゃんと立てた」
三人の歩調がぴたりと揃う。
振り返れば、王族たちの姿が荘厳な光に包まれ、まるで遠い天上の存在のように見えた。
場の緊張は次第に和らぎ、音楽が再び流れ始める。
アリスはゆっくりと息を吐き、微笑を浮かべながら囁いた。
「……これが、王国の“心臓”なのね」
「ええ。そして、あなたも――もうその鼓動の一部よ」
レティアの穏やかな声に、アリスは静かに頷いた。
――その瞬間、彼女の中で何かが確かに変わっていた。
恐れではなく、責任と誇りが、胸の奥で静かに灯をともすように。
その和らぎの余韻も束の間、深紅の礼服に身を包んだ壮年の男性がグエンに声をかけてきた。
肩には銀の徽章を光らせ、威厳を漂わせつつも、どこか温かみのある表情をたたえたその人物は、ミラージュ王国軍の参謀長――バルナム将軍である。
「お久しぶりですな、グレイスラー侯。まさか本当にお孫御をお連れになるとは」
親しみと驚きが入り混じった声色に、将軍としての重厚な存在感が加わる。
「おや、将軍閣下。こちらこそ変わらぬご壮健ぶり、何よりでございます」
グエンも穏やかな笑みを返しながら応じ、二人は静かに握手を交わした。
その手のひらに宿るのは、長年にわたって戦場と政治を共に歩んできた者同士の確かな信頼。
「それにしても……」
バルナムは一歩引いて、アリスとレティアに視線を向けた。
その瞳が、穏やかに、しかし鋭く彼女たちを測るように細められる。
「お二人が……噂に名高い“白銀の英雄”殿と、エクスバルド家のご息女でいらっしゃるか」
アリスは緊張しながらも姿勢を正し、一歩前へ出て深く一礼した。
「アリス・グレイスラーです。お目にかかれて光栄です、将軍閣下」
声はわずかに震えていたが、目はまっすぐ彼を見ていた。
将軍は口元を綻ばせ、柔らかな笑みを浮かべる。
「礼儀正しい。――なるほど、確かに噂に違わぬ若き英傑ですな。
未来を担う者たちとは、こうも眩しいものか」
アリスは思わず頬を赤らめ、言葉を探すように視線を揺らした。
「い、いえ……まだ未熟者です。ですが、恥じぬよう努めてまいります」
「その謙虚さがあれば、伸びる一方でしょう」
バルナムは軽く頷き、満足げに笑った。
次にレティアへ視線を向ける。
「そしてあなたが、エクスバルド伯爵家のご息女――。
先の戦役で見事な采配を見せられたと聞きましたぞ」
「恐縮です。私など、ただ与えられた役目を果たしただけです」
「その“果たしただけ”が難しいのだよ。
あの場にいた者なら誰もが知っている、あなたの判断力と胆力を」
バルナムの声に揺るぎはなく、まるで一将として、戦場に立つ者への敬意を示しているようだった。
レティアはわずかに息を吸い、静かに微笑む。
「ありがとうございます。ですが、私が今ここに立てているのは――支えてくれた仲間のおかげです」
その言葉にアリスが思わず顔を上げ、レティアと目を合わせる。
二人の間に短い沈黙が流れ、次の瞬間、アリスは小さく頷いた。
バルナムはその様子を見て、満足そうに笑う。
「うむ……実に良い。互いを立て、共に歩む。
――そういう関係が、国を動かすのだ」
「ありがとうございます。将軍閣下のお言葉、胸に刻みます」
アリスの声は、もう震えていなかった。
一方、グエンとバルナム将軍が軍務の話題を交わす中、アリスとレティアはやや控えめな位置にいても、視線は絶え間なく周囲から注がれていることを感じ取っていた。
アリスは胸に手を当て、軽く息をついた。
(ふう……緊張したけど、ちゃんと礼は尽くせた……よね?)
隣のレティアは周囲を冷静に見渡しながらも、一瞬だけアリスの方へ目を向けて柔らかな微笑みを浮かべた。
「うまくやれてたわよ。あなたの想いは、確かに届いていた」
「……ありがとう。レティアがいてくれて、本当に助かった」
アリスの声には、ようやく張りつめていた糸がほぐれるような安堵が滲む。
レティアは穏やかに首を振り、少し冗談めかして囁いた。
「お互いさまよ。――でも、今夜はまだ“第一幕”が終わっただけ。これからが本番よ」
「えっ……ま、まだあるの?」
「もちろん。晩餐会っていうのは、静かに始まって、静かに駆け引きが始まるの」
「駆け引きって……え、戦闘じゃないんだから!」
「似たようなものよ。相手は剣じゃなくて“言葉”を使うだけ」
「うわぁ……苦手かもしれない……」
「大丈夫。あなたは正直に話せばいいの。嘘をつけない人ほど、信頼されるもの」
その言葉に、アリスは小さく笑い、緊張の中にわずかな勇気を取り戻す。
「……なら、少しだけ頑張ってみる」
「それで十分」
レティアは頷き、そっとグラスを掲げた。
「ほら、息を整えて。まだ夜は長いわ」
「うん」
二人のグラスが静かに触れ合い、わずかな音を立てた。
その透明な音が、晩餐会の喧騒の中で一瞬だけ響き、やがて音楽と人の声の波に溶けていった。




