第二部 第二章 第6話
会場内へと歩を進めたグエンたちに、真っ先に近づいてきたのは、堂々たる威容を持つ壮年の騎士と、その傍らで気品をたたえた女性だった。
豪奢なシャンデリアが高天井からゆらゆらと揺れ、暖かな光の粒が会場全体を柔らかく包み込む。
壁面には繊細な金糸刺繍のカーテンが垂れ、白金と紺を基調とした王家の紋章があちこちに煌めいていた。
来賓たちは絢爛な礼装をまとい、談笑やささやき声を交わしている。
遠目に見てもその視線は確かに集中し、緊張感のある空気が静かに漂っていた。
「グエン閣下、ようこそお越しくださいました」
壮年の騎士は深く礼を取りながら、確かな声で言葉を交わす。
その姿には威厳と風格があり、白金を基調とした近衛騎士団の礼服が、彼の地位と責務の重さを静かに物語っていた。
「近衛騎士団長、アルフォンス殿。王家からのご招待に、私ども一同、深く感謝しております」
グエンは穏やかな笑みで応じる。
互いに短いが確かな握手を交わし、その間に漂うのは長年の信頼と敬意だった。
「陛下も、あなたのご帰還を心から喜ばれております。……そして、噂の“孫娘殿”にも」
アルフォンスがわずかに微笑み、視線をアリスへと向ける。
「お会いできて光栄だ。あの討伐の報せは、私の耳にも届いている。
――王都の誰もが誇りに思っているよ」
「も、もったいないお言葉です。私は……まだ、そんな……」
アリスが小さく身を正しながら答えると、アルフォンスは満足そうに頷いた。
「謙虚さは立派な美徳だ。だが、功績を軽んじる必要はない。
君の剣と魔導の働きは、数多の命を救った――それを誇ってよい」
その言葉に、アリスの胸の奥が温かくなった。
「……ありがとうございます、団長閣下。いただいたお言葉、心に刻みます」
アルフォンスはわずかに笑みを深めた。
「まっすぐな瞳だ。……グエン閣下の血を引いていることが、ひと目で分かる」
「はは、やはりそう見えますか」
グエンが静かに笑うと、周囲の空気が一瞬和らいだ。
その傍らの少女――アリシアが一歩前に出て、アリスたちに笑顔を向けた。
「アリス、レティア。二人とも、来てくれて嬉しいわ。とても素敵よ」
その声は澄んでいて、場のざわめきを和らげるように柔らかい。
アリスは丁寧に一礼し、レティアも流れるような所作で頭を下げた。
「こちらこそ、お招きありがとうございます。アリシアさんも、お美しいですね」
「恐縮です、レティアさん。……でも、今日はあなたたちが“主役”みたい」
くすりと微笑んで、アリシアが小さく囁く。
「主役、ですか……そんな、私はただ同行しただけで」
アリスが戸惑いを見せると、アリシアは悪戯っぽく片眉を上げた。
「いいえ。皆があなたを見てるのよ、アリス。あなたが歩くだけで空気が変わるの。
それに、あの呼び名までついているんでしょう?」
「呼び名……?」
アリシアが笑みを深める。
「“白銀の英雄”――そう呼ばれてるって聞いたわ」
その一言に、アリスはわずかに目を瞬かせたが、すぐに微笑み返す。
「……その呼び方、まだちょっと慣れなくて。背中がむずむずします」
「ふふ、そう? でも誇っていいと思うわ。
あなたが戦った結果で、今の平穏があるんですもの」
レティアが静かに口を添える。
「そうね。あの呼び名が軽く聞こえるなら、それはまだ“次”がある証拠よ」
「次?」
「ええ。あなたはまだ途中。だからこそ、“英雄”という言葉があなたを追いかけてくるの」
「……レティアまでそんなこと言うなんて」
アリスが苦笑をこぼすと、アリシアとレティアは顔を見合わせて笑い合った。
「注目の的ね。特にアリス――“白銀の英雄”様?」
アリシアが冗談めかして言うと、アリスは軽く肩をすくめた。
「そう呼ばれても、まだ実感がないのよ。
本当の英雄って、きっと……人を導ける人のことを言うんだと思うから」
その言葉に、アリシアの瞳が少し柔らかくなる。
「謙虚ね。でも――そんなあなたを見てると、周りが自然と動き出すの。
そういう人を“導く人”って呼ぶのよ」
アリスは小さく目を伏せ、囁いた。
「……慣れてないけど、逃げずに立ちます」
アリシアは満足げに頷き、目を細めて言った。
「その調子。あまり硬くならず、楽しんで。ここは式典じゃなくて、晩餐会なんだから」
「……楽しむ、か。うん、そうだね」
アリスはふっと息をつき、少し肩の力を抜く。
「……アリシアがいてくれてよかった。知ってる人が一人でもいると、ちょっとだけ、安心できるから」
その言葉にアリシアはわずかに目を見開いたあと、優しく笑った。
「そう言ってもらえるなんて嬉しいわ。
でも、今夜のあなたを支えてるのは――あなた自身よ。私はほんの少し、背中を押すだけ」
レティアは静かにアリスの肩に優しく視線を向け、ほのかに微笑む。
「心強いわね、アリシアさん。あなたがいれば、アリスも心配いらない」
「ふふ、そう言ってもらえるなら安心したわ」
アリシアは軽く肩をすくめ、視線を柔らかく交わす。
背後ではアルフォンス団長がグエンと静かに言葉を交わしていた。
「――彼女たちの歩みは、これからファーレンナイトにとっても大きな意味を持つでしょうな」
「ええ。まだ若いが、彼女たちはすでに“未来”を映している」
グエンの声には、穏やかで確かな確信がこもっていた。
アルフォンスはうなずき、わずかに目を細めた。
その視線は娘――アリシアへと向けられる。
その目に宿るのは、ただの父親の眼差しではない。
政と軍、そして次代を見渡す者の、確かな洞察だった。
やがてグエンたちは一礼し、さらに会場奥へと歩を進める。
その動きに合わせるように、周囲の視線が一層強く注がれた。
「……あれが“白銀の英雄”?」
「グレイスラー閣下の孫娘だそうだ」
「隣の少女も只者じゃない。あの立ち居振る舞い……」
「――エクスバルド家の次女か。なるほど、納得だ」
ささやきはひそやかだが、確かに熱を帯びていた。
視線はまるで波紋のように広がり、ひとり、またひとりと、注目の輪が大きくなる。
「なんて落ち着いた態度なんだ……」
「表情一つ乱さずに歩くなんて、まるで舞台の上の貴婦人のようだ」
「でも、あの緊張の微かな震え……見逃さないよ?」
そんな声も、どこか敬意と好奇心が混ざっていた。
アリスはその空気を感じ取り、思わず背筋を少しだけ伸ばす。
(うわ……視線すごい……! 全員が、こっちを見てる)
唇の端を小さく引き結び、心の中でそっと呟いた。
(でも、ここで自分がどれだけ動揺しても意味がない。覚悟を決めたんだ。自分が逃げたら、あの人たちが悲しむかもしれない)
見られることには慣れていない。胸の奥がそわそわとして、手先に微かな緊張が滲む。
深呼吸を一つし、目を伏せてから前を見据えた。
「アリス、肩の力を抜いて」
隣から、穏やかで澄んだ声が届く。レティアだった。
その声音は耳に届くよりも早く、心に落ち着きをもたらすような響きをしていた。
「わかってる……でも、こんなに見られるの、人生で初めて」
「当然よ。あなたは今夜、この場にふさわしい人なのだから」
「ふさわしい……私が?」
「そう。あの戦場をくぐり抜けた“あなた”が、いまここに立っている。
――それだけで、誰よりも胸を張る理由になるわ」
レティアの声は静かだったが、確かな強さを帯びていた。
アリスは思わず彼女を見つめ、少しだけ笑みを浮かべる。
「レティアって、時々すごくずるい言い方するよね」
「ふふ、褒め言葉として受け取っておくわ」
そう返すレティアの表情には余裕があり、堂々としたその態度は見る者を惹きつけて離さない。
グエンがちらと後ろを振り返り、柔らかな声で言った。
「いいぞ、その調子だ。――王都の連中が何を言おうと、気にするな。お前たちはもう立派に“ここ”の一員だ」
「はい、おじいさま」
アリスは頷き、胸の奥で小さく息を整える。
彼女はゆっくりと歩みを進めながら、横目でレティアを見る。
レティアはまったく動じていない様子だった。
背筋を伸ばし、視線はまっすぐ前へ。堂々とした足取りには、迷いも戸惑いもない。
その気品と落ち着きが、かえって周囲の視線を強く引きつけていた。
数歩離れた場所で、若い貴族の青年が息を呑むのが聞こえた。
「……あの気配、まるで舞踏会の女王のようだ」
「いや、それ以上だ。剣を持っても似合うに違いない」
(……すごい。やっぱり、レティアってそういう人なんだ)
アリスは一瞬、自分と彼女との差を実感しつつも、すぐに気持ちを切り替える。
(でも……逃げないって決めたんだから)
「アリス」
「ん?」
「顔を上げて。あなたの瞳の色は、誰よりも強い。隠すのはもったいないわ」
「……うん。ありがとう」
アリスは小さく笑い、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳に映る光は、恐れではなく、確かな覚悟。
レティアが小さく囁く。
「あなたが歩く一歩は、もう過去のあなたじゃない。今のあなたが、未来を示してる」
「……そんなこと言われたら、緊張が倍増するよ」
「じゃあ、堂々と倍に輝きなさい」
アリスは思わず吹き出し、緊張の糸がほんの少し緩む。
その笑みを見たレティアも、満足そうに微笑み返した。
そして、会場奥――
重厚な黒の礼服を纏った男が、一行の到着を待ち受けていた。
その礼服には銀縁の飾緒が精緻に施されており、光の反射を抑えた漆黒の布地が堂々たる威容を際立たせている。
男の体躯は逞しく、ゆったりとした佇まいに凛とした威厳が漂っていた。
柔らかな間合いで歩み寄りながら、低く重厚な声を響かせる。
「グレイスラー閣下。お久しぶりですな。こうしてまた公の場でお会いできたこと、何より嬉しく思います」
その声には、礼を尽くしながらも、王国の中枢を支える者としての確固たる自負が滲んでいた。
彼の名は――ルシアス・カルディナ。
ミラージュ王国中央議会の議長を務める現役の侯爵である。
王国政務の要を握り、王家との関係も深い名士として知られ、会場内でもその存在感は圧倒的だった。
彼が言葉を発するたび、周囲の来賓たちはわずかに息を潜め、空気が緊張の糸で張りつめる。
グエンは落ち着いた表情で軽く頭を下げ、静かな微笑を浮かべた。
「カルディナ侯、こちらこそ。お変わりなく何よりです。……このような盛会にお招きいただき、光栄に存じます」
侯爵の目が細まり、懐かしげに口元がほころぶ。
「いやいや、光栄なのはこちらですぞ。王国に尽くされたあなたがこうして再びお姿を見せられる――
もはやそれだけで、この晩餐会の格が一段と上がったように感じます」
「過分なお言葉を……」
グエンが穏やかに笑うと、場の空気が少しだけ和らいだ。
その傍らに控える二人の若き女性に目を向け、グエンが丁寧に紹介する。
「本日は同行者が二名おります。――こちらは私の孫、アリス・グレイスラー。そして、もう一人は、エクスバルド伯爵家のご息女、レティア・エクスバルドです」
カルディナ侯の瞳がゆっくりと細まり、じっと二人を見据える。
その視線は決して圧ではなく、政治家としての鋭さと、未来を見据える者の眼差しが共存していた。
「ほう……なるほど、なるほど。お噂は王都にも届いております。“白銀の英雄”としてその名を知られ始めたお嬢さんが、あなたのご令孫だったとは」
「……お噂、ですか」
アリスがわずかに瞳を瞬かせ、姿勢を正した。
侯爵の言葉の余韻が、静かに胸の奥へと沁み込んでいく。
「王都の者は皆、あなたの話をしておる。“白銀の光を纏い、魔を斬る少女”――その名は既に伝説の端にある。
……して、あなた自身はどう思われる?」
思いもよらぬ問いに、アリスは一瞬言葉を詰まらせたが、すぐに穏やかに微笑んだ。
「……光栄ではあります。でも、私はまだ、学ぶことばかりです。戦いは終わっていませんから」
その真摯な言葉に、カルディナ侯は目を細め、深く頷いた。
「謙遜ではなく、己を知る者の言葉。――若いが、王国の未来を託すに足る器ですな」
隣のレティアが一歩進み、礼儀正しく、しかし堂々とした態度で会釈する。
「レティア・エクスバルドです。お目にかかれて光栄です、カルディナ侯。
私たちはまだ未熟ですが、学びと責務を果たせるよう、全力を尽くすつもりです」
侯爵は軽く頷き、口元に柔らかい微笑を浮かべた。
「その志、確かに受け取りました。……“若き力”とは、ただの言葉ではなく、確かな形で息づいているのですね」
グエンが静かに続ける。
「彼女たちは、私の見る限り、三百年前の“王祖の誓い”を思わせるものを持っております。
純粋で、まっすぐで――そして、何よりも強い」
その言葉に、カルディナ侯の表情が一瞬だけ引き締まり、目の奥に古き誓いの記憶が灯る。
「……王祖の誓い、か。懐かしい言葉ですな。
あの時代に生まれた理想を、今も受け継ぐ若者がいるとは、実に喜ばしい」
アリスはそっと口を開いた。
「理想は、受け継がれてこそ意味があると、そう教わりました。
だから――その灯を絶やさないように、進んでいきたいと思います」
その答えに、侯爵は深く頷く。
「どうか緊張なさらず。晩餐会は確かに“場”ではありますが、それ以上に“器”を試すものでもあります。
……今宵は、その片鱗を楽しませてもらいましょう」
アリスは軽く息を吸い、穏やかに微笑んだ。
「はい。恥じないよう、努めます」
グエンも静かに笑みを返す。
「彼女たちなら、きっと応えてくれるでしょう。私もそれを見届けるために来たのですから」
レティアも静かに頷いた。
「今夜という日が、私たちの“始まり”になるように――そう思っています」
その言葉に、カルディナ侯の表情がわずかに緩み、温かな笑みが浮かんだ。
「実に頼もしい。……グエン閣下、王国は幸せ者ですな」
「ええ。ですが、まだまだこれからですよ」
グエンの声には確信と誇りがあった。
その時――会場の一角から、清らかな音声が響く。
「これより、ミラージュ王国王家の御方々がご入場されます。皆様、拍手をもってお迎えください」
その声は場内に静かに広がり、瞬く間に反響して重厚な空間を満たした。
来賓たちは緊張をはらうように身体を正し、咳払いの音も一瞬途切れる。
次第に拍手が会場内全体に波及していく。
視線は一斉に壇上の大扉へと注がれ、王族の登場を待つ空気が、会場全体をぴんと張りつめた静寂で包みこんだ。
アリスは胸の奥で鼓動が高鳴るのを感じながら、そっとレティアの隣に立った。
「……始まるね」
「ええ。私たちの“役目”が」
レティアの声は静かだが、芯が通っている。
グエンが二人の方に振り返り、低く穏やかに告げた。
「恐れることはない。見る者である前に、“語る者”として立ちなさい。
今日という日は――お前たち自身の物語が、誰かの記憶に刻まれる夜だ」
アリスはその言葉に小さく頷き、深く息を整える。
胸の奥の鼓動が次第に静まり、瞳の奥に白銀の光が宿る。
そして、彼女は感じていた。
自分たちが今まさに、“見られる側”から、“見る側”へと立場を移し、
歴史の一端に加わる瞬間であることを。
――静寂の中、王宮の大扉がゆっくりと開き始めた。
黄金の光が、まるで黎明のように、彼女たちの未来を照らしていた。




