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第二部 第二章 第2話

 その日の夕暮れ、屋敷の大扉が静かに開かれ、薄暮の柔らかな光が廊下に差し込んでいた。


 石床に敷かれた長い絨毯は、夕陽の名残を吸い込むように薄く色を変え、壁の燭台にともる火が金の縁飾りをちらりと揺らす。


 その静けさの中、やがてアリスの自室の扉を控えめにノックする音が響いた。

 一定の間を置いて二度。礼節を崩さぬ、屋敷のリズム。


 執事の落ち着いた声が、扉越しに静謐な空間へ届く。

「お嬢様、グエン様がお戻りです。まもなく夕食をお運びいたしますので、食堂へどうぞ」


 アリスはその声に軽く頷き、名残惜しそうにぬいぐるみを棚に戻した。

 指先で優しく撫でると、ふっと幼い頃の記憶が胸の奥に浮かび上がる。


 綿のやわらかな弾み、直してもらった縫い目の感触――それらが、今も確かな温度を持って蘇る。


 部屋を一歩出ると、心地よい木の香りと落ち着いた静けさが彼女を包み込んだ。


 磨き上げられた手すりは指に滑らかで、壁面のレリーフは古い紋章の陰影をやわらかく刻んでいる。


 遠くで食器が触れ合う控えめな音、厨房から届く温かな香りが、今夜の支度が整いつつあることをさりげなく告げていた。


 廊下をゆっくりと歩み、食堂へと向かうと、すでにレティアが席についていた。

 姿勢は自然に美しく、指先は膝の上に揃えられている。


 彼女の瞳にわずかな笑みが宿り、穏やかな夕陽の光がレティアの髪に金色の輪郭を描いていた。

「お先に、アリス」

「うん。待たせた?」


 短いやり取りに、どこかくすぐったいような柔らかさが漂う。

 互いの視線が合い、自然に微笑みがこぼれた。


 間もなく、控えめながら確かな足音と共にグエンが現れた。

 黒の礼服に銀糸のタイ、胸には控えめな家章。肩で呼吸を整えつつも歩みは揺るがない。


 扉口で一瞬視線を巡らせ、穏やかな確かさで二人へと近づく。

「待たせたな。少し遅くなったが、無事に戻った」


 アリスは自然と背筋を伸ばし、明るい笑顔で声をかける。

「おかえりなさい、おじい様」


 レティアも礼儀正しく微笑みを返す。

「お帰りなさいませ、グエン様」


 グエンは二人の挨拶に僅かに微笑み、ゆったりとした声で続けた。

「こうして屋敷で三人そろって食卓を囲むのも、何年ぶりだろうな。まるで……昔に戻ったようだ」


 食卓には、厨房の腕利きが作り上げた温かな料理が並んでいた。

 銀の蓋が静かに外され、香ばしく焼き上げられたロースト肉の香りがふわりと漂う。


 表面の焼き色は薄く飴色に光り、切り口からは澄んだ肉汁がきらりと滲む。

 季節の野菜のグリルは彩り豊かで、紫紺の根菜、橙のかぼちゃ、翡翠の豆が白磁の皿に映えた。


 口当たりの良いスープの湯気がふわりと立ち、ハーブのやさしい香りが鼻腔をくすぐる。

 籠の布をめくれば、焼きたてのパンの芳しい香りが部屋全体に満ち、表面は薄くパリッと、中は湯気の立つやわらかさ。


 テーブル中央には小ぶりな花器。庭の白薔薇とハーブが控えめに彩り、蝋燭の火が水面に小さな星のような反射を作っている。

 銀器は曇りひとつなく磨かれ、クリスタルのグラスは夕陽を受けて淡くきらめいた。


「お席に」

 執事の合図で、アリスはグエンの右、レティアは左へ。


 ナプキンが膝に置かれ、グラスに琥珀の食前酒が一指ほど注がれる。

 グエンは軽くグラスを持ち上げ、二人に視線を渡した。

「無事の再会と、今日に感謝を」


 三つのグラスが静かに触れ合い、乾いた小さな音が広がる。

 最初のスープが供され、匙が器に触れる控えめな音が重なる。


 アリスはひと口含み、思わず目を和らげた。

「……優しい味」

「根菜のポタージュだ。体を冷やさぬようにとな」


 グエンがそう言って微笑むと、レティアは頷き、柔らかに言葉を添えた。

「とても美味しいです。……落ち着いた雰囲気のある屋敷ですね」


 ローストの皿が運ばれ、香り高い肉汁が温かなソースに混ざり合う。

 アリスはナイフを入れ、刃が肉を滑る感触に小さく瞬きをした。


 咀嚼の間、沈黙は不自然ではなく、食堂の空気は満ち足りている。

 食器の小さな触れ合い、パンの裂ける音、遠い時計の短い打音――屋敷の時間が、静かに歩を進めた。


「王宮から使者が来たそうだな」

 グエンが穏やかに切り出す。


 アリスとレティアは視線を交わし、頷いた。

「ええ。晩餐会の正式な招待状が」

「内容は後ほど詳しく聞こう。今は――まず、食べなさい」


 その声音には、戦や政から二人を一歩だけ遠ざける配慮が宿っている。

 アリスは小さく微笑み、フォークを持ち直した。

「……いただきます」


 温かな香りが再び立ち上がり、体の芯までほどけていく。

 レティアは静かにグラスを傾け、柔らかく笑った。

「アリスのおじい様らしいですね。言葉に重みがあるわ」


 アリスは頬をゆるめ、視線を落とした。

「うん。……でも、そういうところ、少し安心する」


 グエンは何も言わず、ただ一度、満ち足りたように目を細めた。

 窓辺では夕陽が最後の光を投げ、蝋燭の火が受け継ぐように揺れる。


 外には夜の気配。内には湯気と笑みと小さな音。

 ――かつての日々に似ていて、しかし確かに今の彼らの夕餉だった。


 静かな時間が流れていた。

 スープ皿の縁を伝う湯気がゆらりと揺れ、銀のカトラリーが微かに光を返す。


 窓の外では、薄暮の空が群青に沈み、遠くの木々の影がゆるやかに夜へ溶けていく。

 その穏やかさを切り取るように、グエンが静かに口を開いた。

「……アリス」


 短い呼びかけ。その一言だけで、空気がわずかに張り詰める。

 アリスの背筋がぴんと伸びた。


 彼女は手元のナイフを静かに置き、正面のグエンの瞳をまっすぐに見つめる。

 その瞳には、家長としての厳しさと、家族としての温かさが同居していた。


「君が“逃げない”と口にしたあの時――私はそれを信じている」

 グエンの声は穏やかで、深く響く。

「だが……覚悟というものは、一度言ったから終わりではない。

 戦場だけでなく、時に“言葉を交わす場”でも、己を示さねばならない時がある」


 ゆっくりとした口調の中に、重ねた年月の重みが滲む。

 語られるたび、炎のように揺れる蝋燭の光がグエンの横顔に陰影を落とした。


 その眼差しは柔らかくも鋭く、アリスを真正面から捉えて離さない。

 そこには、若き頃の自分を重ねるような――静かな期待があった。


「たとえば、明後日の晩餐会のように――目立ちたくなくとも、避けて通れぬ場がある。

 そういう時にこそ、お前の覚悟が問われるのだ」


 アリスは息を詰めた。

 胸の奥で何かが小さく疼く。


 スープ皿の表面に映る光が揺らめき、淡い金色が瞳の奥を照らした。

 ゆっくりとスプーンを置き、アリスはその光を見つめながら小さく息を吐く。

「……逃げないって決めたはずなのに、こういうのは……まだ苦手なんだよね」


 その声はわずかに震えていたが、目を逸らさずに言葉を紡ぐ。


 その姿を見て、グエンの唇にやわらかな微笑みが浮かんだ。

「それでいい」

 穏やかな声が、まるで遠い昔の子守歌のように静かに響く。

「大事なのは、“逃げないと決めた”その意志だ」


 アリスは小さく頷き、長い睫毛の影が頬に落ちた。

 静かに息を吸い込み、胸の奥で小さな決意が音を立てる。

「晩餐会……参加します。正直、気は重いですけど。行かない理由にはなりませんから」


 その言葉を口にした瞬間、室内の空気がふっと和らぐ。

 レティアがカトラリーを静かに置き、柔らかな笑みを浮かべた。

「そう言ってくれて安心したわ」

 少し頬を傾けて、からかうように続ける。

「……それに、ああいう場でドレス姿のアリスを見る機会なんて、滅多にないもの。

 私もちょっと楽しみにしてるのよ」


 アリスは思わずむくれたように頬をふくらませ、眉を寄せた。

「もう……レティアまで。そういうこと言わないで」


 けれどその声には照れと柔らかさが混じっていた。

 頬を少し赤らめた彼女の横顔に、蝋燭の火が淡く揺れ、金糸の髪が光を受けて細やかにきらめく。


 グエンは二人のやり取りを黙って見守り、静かに笑みをこぼした。

 食卓の上では湯気が立ち上り、スープの香りとパンの温もりがやさしく漂う。

 カーテンの向こうでは、夜の帳がゆっくりと降りていく。


 その後、話題はいつのまにか穏やかなものへと移り変わっていた。


 学院での近況、授業の進捗、最近取り組んでいる術式の工夫――そして、ほんの少しだけ趣味や他愛ない雑談。


 アリスが新しい詠唱式の同期実験について話し始めると、レティアが興味深そうに耳を傾けた。

「詠唱の同時展開……。あなたらしいわね。でも、あの学院の演算室じゃ、魔力の制御限界が低くない?」

「そうなんだよね。だから今はルミナの補助を使って、安定化の仕組みを試してるの」


 アリスが言葉を続けながら、両手で形を描くように説明する。

 その仕草に、レティアの唇がわずかに緩んだ。

「昔からそうだったわ。難しい課題ほど、わくわくしながら突き詰めるの」


 アリスは少し頬を染め、苦笑いを浮かべた。

「好きでやってるだけだよ。でも、思ったより時間かかりそう」


 レティアはカップをそっと口元に運び、香り立つ紅茶をひと口。

 蒸気が薄く上り、淡い香木とハーブの香りが広がる。

「焦らなくていいわ。ああいう研究は、積み重ねの先にしか答えがないもの」


 そのやり取りを、グエンは穏やかに見守っていた。

 テーブルの上で両手を組み、ゆっくりと頷きながら二人の言葉に耳を傾けている。

 時折、目尻に小さな笑みが浮かび、優しい光が瞳の奥に宿った。

「若いというのは、いいものだな」


 その言葉に二人が顔を上げる。

 グエンは軽く微笑み、カップの縁を指先でなぞった。

「考え、迷い、試す――そのすべてが今の糧になる。どんな場であれ、それを忘れなければ道は続く」


 その声は深く、落ち着いた響きを持っていた。

 食堂の空気が少しだけあたたかくなる。

 壁に掛けられた時計が、静かに一度だけ小さな音を鳴らした。


 ――気づけば、夕食の時間はゆったりとした流れの中で過ぎていた。

 パンの籠は空に近く、スープ皿は温もりを残して静かに冷めていく。

 カーテンの向こうでは夜の帳が下り、蝋燭の光が主の役目を引き継いでいた。


 やがて、グエンがナプキンを畳み、静かに席を立つ。

 その動作ひとつにも、無駄のない品位があった。

「アリス、レティア」

 柔らかい声が、蝋燭の灯に混じって響く。

「今日はゆっくり休むといい。明日は昼頃から仕立て屋が来る。晩餐会の装い合わせだ」


 アリスは小さく息をつき、肩の力を抜きながら苦笑した。

「……やっぱり来るんですね」

「当然だ」

 グエンの声音には軽い冗談めいた響きも混じっていたが、その奥には確かな重みがある。

「正式な場に立つには、それなりの装いが必要だからな。君たちの姿が“どのように映るか”――それもまた、言葉のひとつとなる」


 アリスは短く息を吸い、決意を込めて頷いた。

「……わかりました。覚悟します」


 グエンは満足げに微笑み、二人に軽く一礼すると、静かな足取りで食堂を後にした。

 背中を見送りながら、レティアが小さく息をつく。

「明日の準備、手伝うわ。ドレスの合わせなんて、ひとりじゃ落ち着かないでしょ?」


 アリスは苦笑し、頬に手を添えた。

「助かるよ。……ああいうの、毎回どうしても緊張するんだ」

「ふふっ、そうでしょうね」

 レティアの声は柔らかく、どこか姉のような響きを帯びていた。


 食卓に残る灯りが、二人の表情をやさしく照らす。

 その光の中で、互いの笑みがほんのりと重なり合った。


 静かな夜が、ゆっくりと屋敷を包み始めていた。

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