第二部 第二章 第1話
その日の夕暮れ、屋敷の玄関に静かな足音が響いた。
陽はすでに沈みかけ、外の空は薄紅と藍が溶け合うように混ざり合っている。
磨き抜かれた石畳の上を歩くたび、靴底が微かに音を立て、
その響きが高い天井の下に、鈴のように澄んで広がった。
扉がゆっくりと開かれる。
外気が流れ込み、冷たい風がロビーの絨毯の端をわずかに揺らした。
現れたのは、王宮の紋章が刺繍された正装を身にまとう使者だった。
深い紺に銀糸の縁取りが施された礼装は、淡い夕陽を受けてわずかに光を返す。
肩章には王国直属の使者であることを示す徽章が輝き、背筋を伸ばした立ち姿からは、静かな威厳が漂っていた。
彼の左手には、重厚な封蝋で封じられた一通の手紙。
厚手の羊皮紙の封筒には、ミラージュ王国王室の双翼と宝冠の紋章が刻まれ、赤い封蝋には金の刻印がくっきりと押されている。
それは一目で、ただの私信ではなく正式な勅信であることを物語っていた。
使者は一歩進み出て、深く一礼した。
その所作には一切の乱れがなく、磨き上げられた儀礼の正確さが滲んでいる。
「グレイスラー様、エクスバルド様に――王宮よりお届け物でございます」
低く、澄んだ声が広間に響いた。
その声は静かでありながら、確かな重みを帯びていた。
すぐに玄関脇から一人の使用人が駆け寄る。
控えめな足音とともに、裾を軽く持ち上げて深く一礼した。
「お預かりいたします。お寒い中をわざわざ……どうぞ、こちらへ」
使用人の声は礼節に満ちており、その一挙手一投足が、屋敷の格式の高さを静かに映し出していた。
使者は頷き、胸の前で両手を重ねたまま、再び背筋を正して歩き出す。
廊下を進む足音は、まるで一定の間隔を保つ音楽のようだった。
硬質な床を踏みしめる革靴の音が、壁に掛けられた燭台の火に反射して微かな影を揺らす。
衣擦れの音が混ざり、低く澄んだ金属の鈴音のように響いた。
廊下の両側には、王家や騎士団関係の肖像画が飾られている。
その前を通り過ぎるたび、使者の横顔を映す淡い光が揺れた。
表情は穏やかだが、瞳の奥には職務の緊張と誇りが宿っている。
彼の仕草には一片の迷いもなく、動作ひとつひとつに、訓練された使者特有の静謐さがあった。
やがて、応接室の扉の前で使用人が立ち止まる。
扉の取っ手に手をかけ、静かに告げた。
「こちらでございます。アリス様、レティア・エクスバルド様にお取次ぎいたします」
使者は深く一礼し、ゆっくりと息を整える。
重厚な扉が音を立てて開かれ、暖かな光が漏れ出した。
夕陽の名残を背にした使者の影が床に長く伸び、その手の中の封書が、橙の光を受けて微かに輝いた。
――その封筒が、アリスとレティアの新たな章を告げる始まりとなることを、この時、屋敷の誰もがまだ知らなかった。
数分後。
アリスとレティアは案内を受け、応接室の前に立った。
扉の前で一瞬、アリスは深く息を吸う。
静かな緊張が胸の奥で波のように広がっていく。
レティアはその横顔をちらりと見て、柔らかく微笑んだ。
「大丈夫。たぶん、そう難しい話じゃないわ」
「……ええ、そうね」
アリスが軽く頷き、取っ手に手をかける。
扉が静かに開かれると、淡い香木の香りが流れ込んできた。
室内は、落ち着いた調度品で整えられていた。
深い木目の家具、壁に掛けられた油彩画、そして窓際には金の縁取りのティーテーブル。
西の空から差し込む夕陽が、カーテン越しに柔らかな光を注いでいる。
その光はまるで薄い金の霧のように部屋全体を包み、穏やかで上品な静けさを漂わせていた。
その中央――使者が静かに立っていた。
姿勢は揺るぎなく、まるで時間そのものが止まったような静謐を纏っている。
彼は両手で封筒を抱え、深く一礼した。
「こちらは、王宮主催の晩餐会の正式な招待状でございます。
グレイスラー様、そしてエクスバルド様にお届けいたします」
使者の声は礼節と緊張の中間にあり、低く穏やかに響いた。
言葉の端に込められた重みが、部屋の空気を少しだけ引き締める。
使用人が後方に控え、銀盆の上に小さな封蝋用の刃をそっと置いた。
金属が光を反射し、かすかな音を立てる。
アリスとレティアの前に差し出されたのは二通の封筒。
ひとつには――「アリス・グレイスラー」
もうひとつには――「レティア・エクスバルド」
それぞれの名が王室書体で丁寧に記されていた。
封蝋にはミラージュ王家の紋章――双翼と宝冠が鮮やかに刻まれている。
夕陽の光を受けて赤い蝋が透き通り、金の刻印が淡く浮かび上がった。
アリスは一歩前に出て、両手でその封筒を受け取った。
重みが、まるで言葉にならぬ意味を持って手のひらに残る。
「……確かに、受け取りました」
静かに言葉を紡ぐと、声が小さく震えた。
その隣で、レティアも同じように一礼する。
「ありがとうございます。間違いなく拝受いたしました」
使者は深く頭を下げ、整えられた手の動きで姿勢を戻した。
その表情は変わらず穏やかで、職務の厳粛さを保っている。
「では――私はこれにて失礼いたします」
ゆっくりと一歩下がり、扉の方へと向かう。
衣擦れの音が微かに響き、磨かれた床に長い影を残していく。
廊下には既に屋敷の使用人が控えていた。
使者は静かに彼らへ頭を下げ、軽やかな足取りで去っていく。
扉が静かに閉まり、部屋にはわずかな余韻だけが残った。
ティーカップの縁をなぞるような音が遠くで響き、
それが途切れた時、ようやくアリスとレティアは互いに視線を交わした。
「……開けてみようか」
「ええ」
アリスが封蝋を見つめ、慎重に刃を取る。
封を切る刃先が蝋を裂く音が、小さく部屋に響いた。
まるでその一瞬が、世界の区切れ目のように感じられるほど静かだった。
淡い光の中、二人は同時に封筒を開き、中から取り出された王宮の紋章入りの紙が、金糸のような輝きを放つ。
風がカーテンを揺らし、薄い光が文字の上を滑った。
それはまるで、新しい運命の扉が今、静かに開かれたかのようだった。
アリスは小さく眉をひそめ、深いため息をひとつ漏らした。
指先で封筒の端を撫でながら、ほんの少しだけ視線を落とす。
「……来ちゃったか」
その声は、ため息と共に静かに消えていく。
夕暮れの光がカーテン越しに差し込み、金色の縁を帯びた光が彼女の横顔を照らしていた。
隣ではレティアが封を見つめながら、淡い笑みを浮かべる。
その表情には、驚きよりも――どこか覚悟と諦めの混ざった穏やかさがあった。
「王宮主催の正式な招待状ね。これは、もう断れないわね」
その言葉と同時に、レティアが指先で封を開けた。
薄く乾いた“パリッ”という音が、静かな部屋の中に響く。
その音が、どこか儀式の始まりを告げるように感じられた。
レティアの声は淡々としていたが、その奥にかすかな愉快さが混じっている。
彼女は封の中から金縁の招待状を引き抜きながら、片眉を上げた。
「やっぱり“あの件”が噂になってるんだよね……バロール・ビーストの討伐」
アリスはゆっくりとソファの背にもたれかかり、封筒を手の中で軽く揺らした。
その動きは無意識のもの。落ち着こうとする心と、逃げ出したい気持ちがせめぎ合っている。
「わたし、そういう目立ち方……ほんと、苦手」
ぽつりとこぼれた声は、夕陽の中で淡く震えた。
レティアは肩越しにアリスの顔を覗き込み、唇の端を柔らかく持ち上げる。
「でも、もう目立っちゃってるわよ? “白銀の英雄”なんて呼ばれてるらしいし」
「ちょ、ちょっとやめてよ、その呼び名……」
アリスは慌てて身を起こし、耳まで赤く染めた。
声の高さが少しだけ上ずる。
その反応を見て、レティアは軽やかに笑い、肩をすくめる。
「気持ちはわかるけど、今さら“目立ちたくない”は無理ね。
王族や中央貴族も注目してるし、正式に招待が来た以上、欠席なんて絶対に許されないわ」
レティアの声は穏やかだが、言葉には現実の重みがあった。
アリスは視線を再び封筒に落とす。
羊皮紙のざらついた質感と、蝋の冷たさが指先に伝わる。
「……せめて、“付き添いの学生です”って顔して隅っこにいたい……」
その言葉には、苦笑まじりの弱さと諦めが混ざっていた。
レティアはくすりと笑い、目を細めた。
「そんな顔してたら、かえって目立つタイプよ、あなた」
「うぐぅ……」
アリスは小さく呻き、唇を尖らせた。
長い睫毛がわずかに震え、光を受けてきらりと揺れる。
彼女は封筒を見つめたまま、小声でつぶやいた。
「どうせなら……もう少し静かに過ごしたかったなぁ……」
レティアはその言葉に、優しく微笑んだ。
彼女は何も言わず、アリスの肩にそっと手を置く。
その掌から、確かな温もりがじんわりと伝わった。
「でもね、アリス」
ゆっくりとした口調で、レティアは言葉を紡ぐ。
夕陽が二人の間に淡い影を落とし、部屋の空気が静かに満ちていく。
「あなた、もう“ただの学院生”じゃないのよ。
覚悟を決める時が来たんだと思う」
アリスは小さく目を閉じ、深く息を吸った。
その胸の奥には、確かに重みがあった。
怖さでも、嫌悪でもない――ただ、静かな覚悟の種のような感情。
レティアは続ける。
「だって、あなた――グエン・グレイスラーの孫娘でもあるんだから」
その言葉に、アリスの瞳がわずかに揺れた。
祖父の姿、あの日の夕暮れの練習場、優しい笑顔が一瞬、脳裏をよぎる。
胸の奥にずっとあった不安が、少しだけ形を変えて溶けていく。
彼女はゆっくりと頷いた。
「……うん、わかってる」
その声には、静かに腹を括ったような落ち着きが宿っていた。
夕陽の光が二人の髪を照らし、橙の色が部屋全体を包み込む。
言葉を交わさぬまま、二人はしばし沈黙を共有した。
時計の針の音と、カーテンを揺らす微かな風の音だけが響く。
やがて、アリスがゆっくりと立ち上がった。
レティアもそれに続き、互いに短く視線を合わせる。
「……行こうか」
「ええ」
応接室を出ると、廊下には夕陽が差し込み、長い影が二人の足元に伸びていた。
オレンジ色の光が床を照らし、歩みを重ねるたびに影が揺れる。
その光はまるで、次へ進む二人の背を静かに押すようだった。
心に抱えた思いを胸に――
アリスはレティアと共に、ゆっくりと自室へと戻っていった。




