第一部 第一章 第3話
飛行艇内部は、金属と魔導装置の美しさが絶妙に調和した、まるで未来の神殿のような空間だった。
外装こそ重厚な軍用艦だが、内部には精緻な術式機構と最新の魔導構造が張り巡らされ、無機質でありながらもどこか温もりを感じさせる。
壁面を走る銀灰色の装甲板には、青白く脈打つ魔導回路が細密に刻まれている。
天井に伸びた魔導結晶管が、窓から差し込む陽光を透かして淡く光り、静謐な祭壇の灯火のように室内を照らしていた。
座席は防振魔革製で、人体の形に沿ってわずかに沈み込み、揺れを吸収するようにできている。
耳を澄ますと、船体の奥から低い魔力の唸りが響いた。
推進炉が始動の準備を整えている音――まだ飛び立つ前の、静かな鼓動。
各席には安全帯が取り付けられ、乗客たちは順に乗り込んでくる。
第十五班に配属された第二騎士団員と魔術師団員、それからアリスとレティアの二人。
全員がまだ少し緊張を纏いながらも、所定の席へと腰を下ろしていた。
アリスとレティアも指定の並列席に着く。
ベルトを締め、装備を軽く整えると、二人の目の前には巨大な防魔ガラスの窓が広がっていた。
その向こうには、まだ地上に広がる王都の街並み。
遠くの尖塔や中央広場がきらめき、そこを歩く人々の姿が豆粒のように見えた。
まるで、これから別の世界へ旅立つような光景だった。
「……うわぁ、思ったより揺れないんだ……」
レティアは肘掛けを両手で握りしめ、緊張を隠しきれないまま窓の外を見回した。
視線はすでに演習地の方向――遠く南方の地平を追っている。
しかし、初めての飛行艇に乗り込んだその胸の内は、期待よりも不安が勝っていた。
アリスは、そんな親友を静かに見つめながら微笑む。
「レティア、顔がこわばってるわよ」
「だ、だって、これから空を飛ぶんだよ!? 地面が離れるんだよ!? お腹が……落ちそう……っ」
レティアは半ば冗談めかしながらも、声がわずかに震えている。
アリスはくすりと笑い、肩を軽くすくめた。
「ふふ、それは君の顔が落ちそうな顔してるからじゃない?」
「な……なにそれ、意味わかんない!」
レティアがむっとしたように頬をふくらませる。
だが、アリスが笑いをこらえながら続けた。
「ほら、今もしてる」
「も、もうっ……!」
「……でも、そういう顔してるレティアも可愛いけどね」
思わず言葉を失い、レティアの顔が一気に赤く染まる。
「な、なに言ってるのよ、もうっ……!」
「ふふっ、冗談よ」
前の席に座っていた若い騎士が思わず肩を震わせ、微笑ましい空気が船内に小さな温かさを生み出す。
「……でも、本当に、アリスが一緒でよかった」
レティアが少しだけ声を落として呟いた。
「学院でもいつも一緒だったけど、こうして外の任務に出るのは初めてだから……心の準備がね」
アリスは静かに頷き、レティアの手にそっと触れる。
「大丈夫よ。ここまで来たのは偶然じゃない。君が選ばれたのは、力があるから――それに、私がいるもの」
「……ふふ、そう言われるとちょっと安心する」
「でしょ?」
そんな言葉を交わすうち、船体の奥から低い音が一段と響いた。
床下を魔力が流れる感覚――推進炉が本格的に稼働を始めた合図だ。
座席の端にある小さなランプが淡く点灯し、「離陸準備」の文字が光る。
外では整備班の指揮声が響き、魔導結晶管が一斉に光を増した。
窓の外の景色が揺れ、陽光が反射して白くきらめく。
今まさに――この巨大な翼が空へと舞い上がる瞬間を待っている。
アリスは小さく息を吸い、視線を遠くへ向けた。
レティアもそれにならって、ぎゅっと手を握りしめる。
二人の制服の裾が、通路を抜ける微風にそよいだ。
その時、ひょいと後方から顔を覗かせたのは、十五班の班長――レオ・バルトだった。
彼は軽く手を上げ、にやりと笑うと、すぐさま冗談を飛ばした。
「落ちるのは顔だけじゃないだろう? アリス、君も顔が真っ青だぞ」
思わぬタイミングに、アリスとレティアは目を瞬かせたが、次の瞬間には二人して吹き出した。
「……班長、変なこと言わないでください」
レティアが小さく笑いながらも恥ずかしそうに目をそらす。
レオは肩を竦め、照れくさそうに笑って頭を掻いた。
「ははっ、悪い悪い。緊張をほぐしてやろうと思ってな」
どこか気取らぬ優しさが滲んでいる。
周囲の班員たちもくすくすと笑い、その軽口が、離陸前の張り詰めた空気を少しだけ柔らかくした。
「さて……そろそろだ」
レオの低い声に、機内のざわめきがぴたりと静まる。
さきほどまで軽い笑いが混じっていた空間が、再び出発前の緊張感に包まれた。
その時――
船内全体に、澄んだ女性の声が響いた。
透明で、どこか鐘の音を思わせるようなアナウンスだった。
「全乗員および搭乗班員の皆さま、こちら操縦室よりご案内いたします。
離陸準備が整いました。これより定刻通りに発進いたします。
各自、座席の安全帯を再確認してください」
アナウンスが終わると同時に、機内がわずかにざわめく。
革製の安全帯の留め具が「カチリ」と鳴る音が、あちこちから響いた。
乗客たちはそれぞれの席で真剣な面持ちに変わり、肩の力を入れ直す。
レオも背もたれに体を預けながら、二人へと視線を向けた。
「二人とも、ちゃんと締めたな? 大丈夫だ、最初だけふわっと浮くだけだ」
穏やかに笑いながらも、声には緊張を隠さぬ響きがあった。
少し間をおいて、再びアナウンスが入る。
「現在の時刻は午前十時。
目的地はミラージュ王国領内、大森林の入口付近にございます魔導騎士団防御駐屯地です。
到着見込みは午後三時頃です。
途中、天候の影響を受けることはほとんどありませんが、大森林周辺の気流は不安定な場合がございます。
安全帯の着用をお忘れなく」
澄んだ声が静かに途切れると、続けて乗務員の落ち着いた案内が流れた。
「乗務員よりご案内いたします。後方の出口をはじめ、各乗降口は非常時に使用可能です。
万が一の緊急事態に備え、ご確認ください。
また、魔導装置の使用法は各座席前の符術パネルをご参照ください。
ご不明点は乗務員までお知らせください」
その丁寧な声が消えるころには、すでに誰もが黙っていた。
緊張と期待が入り混じる中、魔導飛行艇の内部には静かな息づかいだけが残る。
アリスとレティアは、それぞれ安全帯をしっかりと締め直した。
レティアは深く座席に身を沈め、少し震える指でベルトの留め具を確かめる。
一方、アリスは何度か経験している余裕から、落ち着いた仕草で窓の外に目を向けていた。
「……ほんとうに飛ぶんだね」
レティアの声は小さく、震えを含んでいた。
アリスはその声に優しく微笑みながら答えた。
「ふふ、大丈夫だよ。揺れないってば。私、三回乗ったことあるけど、すっごく静かよ」
その軽やかな声に、周囲の緊張がわずかに緩む。
「え、いつ? どこへ?」
レティアが思わず身を乗り出すと、アリスは少し照れくさそうに笑った。
「おじい様と一緒に、ミラージュ王国にあるお屋敷へ行った時よ。
三回ともそのときの往復でね。ちなみに整列していた時にも、この話をしたけど?」
レティアは驚きに目を丸くした。
「え? 覚えてないや……
ミラージュにあるグエン様のお屋敷に? それで飛行艇に乗ったことがあるのね?」
「ええ。最初はちょっと緊張したけど、意外と快適だったの。
でも、やっぱり離陸の瞬間だけは、何度乗っても慣れないかな。
急に浮き上がる感じがね、どうしても苦手で……」
アリスが肩を竦めながらそう言うと、レオが振り返り、からりと明るい声で割り込んだ。
「おいおい、みんなちょっとドキドキしてるな。でも大丈夫だって。
飛行艇の技術は最高だし、空に浮く感覚――慣れたら病みつきになるぞ」
「そうなんですか?」
「おうとも。最初のふわっとだけ耐えれば、後は景色を楽しむだけさ」
気さくな言葉に、レティアの表情が少し緩む。
小さく息を吸い直し、背筋を伸ばして再び窓を見つめた。
操縦室から、再度アナウンスが流れる。
「それでは、これより離陸いたします。
最初の数分間は若干の揺れを感じるかもしれませんが、すぐに安定いたします。
全員、安全帯の再確認をお願いいたします」
その瞬間、船内の空気がさらに引き締まる。
床下から、低い唸りのような魔力駆動音が広がり、金属の骨格を伝って座席に微かな震えが伝わった。
推進炉の脈動に合わせ、青白い光が通路の両端を走る。
レティアは小さく深呼吸をし、アリスは軽く頷いて窓の向こうを見つめた。
外では、整備兵たちが手を振り合図を送っている。
王都の発着ポート全体が、まるで一つの大きな心臓のように息づいていた。
そして――
「……っ、動いた!」
レティアの小さな声。
次の瞬間、船体がわずかに震え、静かに浮上を始めた。
低く響く魔力音が次第に高まり、床下から伝わる振動が足元を包み込む。
まるで、空そのものが彼らを抱き上げているかのような浮遊感。
「……ふわってした……!」
レティアが思わず声を漏らし、背をシートに預けた。
しかし心配していたような大きな揺れはなく、むしろ羽の上を滑るような滑らかさだった。
窓の外――地上がゆっくりと遠ざかっていく。
王都の街並み、中央塔、屋根の列、川の輝き……すべてがみるみる小さくなり、陽光の中に溶けていく。
「……すごい……こんなに静かなんだ……」
レティアの声には、純粋な驚きと感動が入り混じっていた。
アリスはその隣で、小さく微笑みながら答えた。
「ね? これなら、落ちる心配なんていらないわね」
その言葉に、レティアは息を呑んで頷く。
窓の外には、雲の切れ間から覗く青空が広がっていた。
まだ上昇中だというのに、すでに空の色は深く、澄みきっている。
「……きれい……」
レティアが夢見心地で呟く。
アリスはそっと目を細め、その青を確かめるように見つめた。
その瞳に映るのは、どこか懐かしい色――三百年前、王祖が見た空と同じ蒼だった。
そんな二人を見ながら、レオが肩を竦めて笑う。
「魔導飛行艇の真骨頂はこの安定感だ。空に浮いてるってことを忘れるくらいだろ?」
「はい……すごいです、班長!」
二人の無邪気な声が響く。
その笑顔には、幼い日の憧れと、これから始まる冒険への期待が混ざっていた。
そして――
銀翼は、ゆるやかに、確かな軌道を描きながら空へと昇っていった。
王都の光景はすでに雲の下。
彼らの旅は、いま始まったばかりだった。




