第二部 第一章 第10話
屋敷の大扉が、ゆっくりと静かに開かれた。
音ひとつ立てぬその動きは、まるで年月をかけて磨かれた儀式のようだった。
広々とした廊下には、整然と列をなす使用人たち。
白と紺を基調とした制服は皺ひとつなく、磨き抜かれた靴が床の光を反射している。
背筋を伸ばし、ひとりひとりの所作に無駄がない。
まるで、時間そのものが静止したような静謐が満ちていた。
柔らかな微笑みを浮かべた彼らは、声をそろえて言葉を紡ぐ。
「「「「「「「「おかえりなさいませ、アリスお嬢様」」」」」」」」
その声が廊下の壁を伝い、穏やかな反響を生んだ。
音の余韻が、まるで祈りのように空間を包み込む。
アリスは深く息を飲み込み、胸の奥にざわめく感情を押さえようとした。
懐かしさ。安堵。そして――わずかな居心地の悪さ。
その三つが複雑に絡まり、胸の奥で静かに渦を巻く。
「これが……ずっと、嫌だったのよね」
ぽつりと漏れた言葉は、自分でも驚くほど小さく、柔らかかった。
隣にいたレティアが、それを聞きとめ、くすりと微笑む。
彼女の指先が軽くアリスの肘に触れた。
「私も同じよ。こういう過剰なもてなしは、案外、気恥ずかしいものね」
その声には、長年の友としての親しみと、理解の色が滲んでいた。
アリスは小さく息をつき、わずかに微笑む。
「……でも、懐かしい。全部が、昔のまま」
火が灯る暖炉のほとりから、薪のはぜる音が聞こえた。
甘く焦げた木の香りが空気に溶け、室内にぬくもりを与えている。
その穏やかな光景の中、年老いた執事が静かに歩み出た。
背筋を伸ばし、しかしその瞳には抑えきれぬ涙の光。
震える声で、彼は言葉を紡いだ。
「5年ぶりのお帰りに……身も心も震えております、アリスお嬢様」
アリスは目を細め、懐かしい声を胸に刻むようにして微笑んだ。
「久しぶりですね、爺や……」
老執事――ローデリック・ハーヴィルは、感極まったように目頭を押さえた。
深く頭を垂れ、その声はなおも震えている。
「お嬢様……またこうしてお顔を拝見できる日が来るとは……
この命に代えても、今日を迎えられたことを誇りに思います」
その誠実な響きが、アリスの胸に優しく広がる。
彼女はふっと息を吐き、微笑を返した。
「そんな大げさなこと……でも、ありがとう
変わらない声が、すごく落ち着くの」
その瞬間、廊下の空気が少し緩んだ。
使用人たちが次々と笑顔を見せ、抑えていた感情が一斉に溢れ出す。
「おかえりなさいませ、お嬢様。背も伸びられて……すっかり大人のご婦人になられて」
「ずっとお待ちしておりました。昔、中庭でお茶を淹れて差し上げたこと、覚えていらっしゃいますか?」
「私はあの時、ぬいぐるみの針と糸を直した者でございます。
今でもあの針を大切にしておりまして……いつでもお修繕いたしますわ」
懐かしい声の数々が、まるで時の壁を越えて流れ込んでくる。
アリスは一人ひとりの顔を見渡し、自然と頬が緩んだ。
「うん、覚えてる。あの紅茶、美味しかった……
それに、あのぬいぐるみ。今でも部屋の棚に置いてあるかも」
言葉に笑みが混じると、使用人たちの表情もさらに柔らかくなった。
彼らの笑顔が重なり、屋敷全体に新しい息吹が満ちていく。
長く閉ざされていた空間が、ようやく目を覚ますように――
廊下の灯りがひとつ、またひとつと明るさを取り戻していった。
その光の中で、アリスは静かに呟いた。
「……ただいま、みんな」
誰もがその言葉を待っていたかのように、廊下の奥まで笑顔が広がった。
その光景に、レティアは静かに目を細め、隣でそっと囁く。
やがて、使用人の列の中から、一人の女性が静かに前へ進み出た。
黒のエプロンドレスに身を包み、銀糸のような髪を後ろで整然と束ねている。
名は――リディアナ・フロスティア。
かつてアリスの専属侍女長を務め、幼少の頃から傍で世話をしてきた人物だった。
その所作は今も変わらず優雅で、足音ひとつ立てずに礼を取り、柔らかな声を発した。
「こちらへどうぞ、お嬢様。お部屋は――昔のままに整えてございます」
その声音には、深い敬意と、どこか母のような慈しみがにじんでいた。
アリスはその一言に思わず足を止める。
「……昔のまま?」
言葉を返した瞬間、胸の奥がざわりと波立った。
喉の奥で空気がひっかかり、息が詰まる。
幼い記憶が、一瞬でよみがえる。
笑い声、泣き声、誰かの手の温もり――
すべてが過去の光景とともに、心の奥底から浮かび上がってくる。
「……まさか、全部……?」
アリスの声は、かすかに震えていた。
目を大きく見開いたその表情は、まるで時が止まったかのよう。
「5年前のまま、ということで間違いありませんか?」
リディアナは静かに頷き、胸に手を添えて答えた。
「はい。お嬢様が大切にされていたぬいぐるみや書物、小物に至るまで、皆で心を込めてお手入れをいたしました。
埃ひとつないよう、細心の注意を払い――ずっとお待ちしておりました」
その言葉に、アリスは息を詰めた。
背中に冷たい汗が伝う。
表情には感謝と戸惑い、そして――居たたまれないほどの照れが入り混じっていた。
「はは……そう、なのね……」
小さな笑いが漏れた。
だがその声は、どこか湿った金属のように震えていた。
リディアナが一歩下がり、静かに頭を垂れる。
再び案内が始まり、三人は長い廊下を歩き出した。
壁には古い肖像画や、家紋入りの燭台が並び、足元の絨毯は深紅の毛並みを誇りながらも、長い年月の重みを感じさせる。
歩くたびに、アリスの胸の奥では幼い日の記憶が少しずつ揺れていった。
父に褒められた日、母と紅茶を飲んだ午後、初めて魔導書を開いた夜――。
(11歳の頃のあの部屋に、もう17歳の私が泊まるなんて……)
(恥ずかしいというか……ちょっと複雑……)
心の声を振り払うように、彼女は窓の外へ視線を向けた。
夕陽が金色に滲み、屋敷の影を長く伸ばしていく。
その静かな空気を破るように、リディアナがふとレティアへ視線を向けた。
「エクスバルド様の客室も、すでにご用意が整っております。お荷物もすべて――」
その言葉を、レティアが軽やかに遮った。
「その前に……アリスの部屋を先に見せてもらってもいいかしら?」
「え?」
アリスは即座に振り向き、目をぱちぱちと瞬かせた。
「ちょ、ちょっと待って! 見せるような部屋じゃないから!」
「ふふ、いいじゃない。気になるのよ。
あなたがどんな少女だったのか――少しだけ、覗いてみたいの」
レティアは柔らかく笑みを浮かべながら、遠慮なくアリスの腕を取る。
その手は温かく、しかし逃げ場を与えない。
「……もう、なんでそうなるのよ……」
「ね? 少しだけ。ほんの少しだけでいいから」
アリスは観念したように小さくため息をつき、肩を落とした。
「……わかった。少しだけだからね」
リディアナが微笑み、静かに頷く。
三人は再び歩き出し、長い廊下の先――アリスの私室へと向かった。
そして、扉がゆっくりと開かれる。
淡い光が差し込み、かすかな花の香りが漂った。
そこには、少女時代の記憶そのままの、愛らしく温かな空間が広がっていた。
淡いピンク色のカーテンが風に揺れ、ふわふわとしたフリル付きのクッションがソファの上にいくつも重なっている。
壁紙は柔らかなパステルカラー。
小鳥や花、妖精が描かれた絵が丁寧に飾られ、部屋全体に優しい気配を宿していた。
棚の上には、かつてのぬいぐるみたちが整然と並び、その一体一体が今も彼女の帰りを待っていたかのように微笑んでいる。
ぬいぐるみの毛並みは手入れが行き届き、埃ひとつない。
リディアナたちが、どれほどの時間と愛情を注いできたかが伝わる。
魔導ランプのシェードにはレース刺繍と小さなリボンが飾られ、灯りがともると、柔らかな光が天井の模様を照らし出す。
夜になると天井一面に星空の映像が映し出される仕組みで、今でも小さな魔導結晶が淡く瞬いていた。
「……わぁ……」
レティアは思わず息を呑み、手を胸に当てた。
その瞳は驚きと感嘆に満ちている。
「これが、あなたの部屋……? すごい……まるで物語の中みたい」
「や、やめてよ……!」
アリスは顔を真っ赤にし、慌ててソファのクッションを抱えた。
「だから見せたくなかったのよ! こんなの……恥ずかしいじゃない!」
「ふふ、かわいらしくて素敵よ。
それに……きっと、この部屋もあなたを待っていたのね」
レティアの言葉は優しく、まるで春の風のように穏やかだった。
アリスは顔を背けたまま、小さく唇を尖らせる。
「もう……からかわないで」
「からかってなんていないわ。本当に、そう思ってるの」
その言葉に、アリスは小さく息を呑み、視線を落とした。
頬を染めながら、少しだけ微笑む。
「……ありがと」
その時、リディアナが前に進み、レティアへ丁寧に声をかけた。
「エクスバルド様の客室もご用意しております。ご案内いたしますので、こちらへどうぞ」
レティアは軽く頷き、アリスの方を振り返った。
「じゃあ、アリス。またあとでね」
「うん……部屋、少し片づけておくから。……もう、入ってこないでね」
「ふふ、どうかしら?」
「レティア!」
思わず声を上げたアリスの表情に、リディアナも小さく笑みを漏らす。
軽く手を振ったレティアは、優雅に背を向けて廊下へと歩き出した。
その後ろ姿を見送りながら、アリスは息を吐き、ゆっくりとソファに腰を下ろす。
視線の先では、ぬいぐるみたちが静かに並び、変わらぬ微笑みを向けていた。
「……ただいま」
その小さな囁きが、誰もいない部屋にやわらかく溶けていった。




