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第二部 第一章 第9話

 ミラージュ王国第一魔導騎士団の本部事務所の長い廊下を、一行は静かに進んでいた。

 アリスとレティアにとって、ここは未知の領域。緊張と好奇心が入り混じった細い糸が、胸の中でたわむように揺れている。


 建物は王都の中心に位置しながら、王宮の煌びやかさとは趣を異にしていた。より実戦的で、簡素の中に揺るがぬ格式が潜んでいる。

 両側に並ぶ白い石造りの壁は、長い歳月を経たわずかな燻みを帯び、刻まれた紋章やレリーフの陰影が積み重ねられた歴史を静かに物語っていた。


 アーチ天井は高く、梁の間に組み込まれた間接照明と魔導灯が淡く反射し、白磁のような光が廊を満たす。

 足元の大理石は磨きに磨かれ、踏みしめるたびに冷気が靴裏に薄く張りつく。


 静謐を尊ぶ設えは、歩調そのものまで整えるかのようで、三人の足音は一定の間隔で規律正しく続いた。

 すれ違う騎士たちは背筋をまっすぐ伸ばし、制服の魔力紋章が青白い脈動をひと呼吸ごとに返す。


 視線、礼、歩幅――すべてに緩みがない。

 空気そのものが鍛え上げられているように感じられた。


 レティアが耳元で囁く。

 「第一魔導騎士団事務所って、本当にすごいわ……まるで軍の本部みたい」


 アリスはうなずき、唇の端をきゅっと結んだ。

 「学院とはまるで違う……この空気、自然と背筋が伸びる」


 その会話に、先導するアリシアが振り返り、柔らかく目を細める。

 「そう言ってもらえると嬉しいわ。ここは――ミラージュの“誇り”そのものだから」


 やがて三人は正面扉から外へ出た。

 夕刻の光は透きとおる琥珀色で、王都の輪郭をやわらかく縁取っている。


 敷地前の車寄せには、黒く磨き上げられた金属製の四輪魔導車が静かに待機していた。

 車体側面に刻まれた近衛騎士団の紋章は銀箔のように淡く光り、後部の排気口からは青白い魔力蒸気が糸となって揺れる。


 傍らには事務官と思しき女性騎士。

 端正な制服に身を包み、マジックビジョンを両手に構えている。


 アリスたちを認めると、彼女は踵をそろえて背筋を伸ばし、規律正しい敬礼を捧げた。

 「恐れ入ります。退館の手続きをお願いできますでしょうか」


 抑えた声色に、行き届いた礼節がにじむ。

 アリスが代表して書類に目を走らせ、淡い緊張を喉の奥で飲み込みながら滑らかな筆致で署名する。


 事務官は記入欄を確認し、わずかに会釈した。

 「お手を煩わせてしまい、誠に申し訳ございません。本日はご来館ありがとうございました」


 もう一度深い礼。

 儀礼は簡潔だが美しく、風のようにその場から離れていく。

 御者席の近衛騎士がアリシアの合図を受け、無音に近い所作で後部ドアを開いた。


 「では、このままグエン様の屋敷へ参りますか?」

 アリシアが振り返り、二人の顔色を確かめる。


 アリスは一拍置いて表情を引き締めた。

 「まずは宿に寄らせて。荷物をまとめて、チェックアウトもしないと」


 「承知しました」

 アリシアが短く頷く。


 ドアが静かに開き、魔導車の内装が夕光を受けて鈍く艶めいた。

 車内は厚手の魔導遮音素材に包まれ、外界のざわめきは綿のように遠い。


 高級革のシートは拘束術式と緩衝術式が同調しており、腰を預けると重心がやわらかく受け止められる。

 床面の制震板が微細振動を吸収し、呼吸の波にさえ乗るような静けさが広がった。


 「どうぞお乗りください。目的地は設定済みです」


 アリス、レティア、続いてアリシアが乗り込む。

 扉が収束音を残して閉まり、魔導炉が低く喉を鳴らした。


 魔導車は敷地を抜け、夕陽に染まるアステリアの街並みへと滑り込む。

 街路を満たす風は、昼の熱をわずかに残しながら、金と橙の境を漂っていた。


 石造のファサードが等間隔に連なり、窓枠には白い花弁を模した装飾灯が灯り始めている。

 街路樹の葉が薄金色の風にそよぎ、舞い散る光が舗道の上で淡く瞬いた。


 露店の天幕はひとつ、またひとつとたたまれ、商人たちは帳簿を閉じて軽口を交わしながら品を片づけていく。

 通りの奥では、魔導街灯の光がまだらに重なり、舗装石の上に金の網目のような影を落としていた。


 貴族や官吏らしき人影が魔導車や馬車に乗り込み、すれ違いざまに交わす会釈の動きも洗練されている。

 人々の足音と蹄鉄の乾いた響きが溶け合い、王都特有の静かな律動を刻んでいた。


 アリスは車窓に頬を寄せ、かすかに曇ったガラス越しに街の光を追う。

 「久しぶりだけど、やっぱりすごい……。整っていて、呼吸まで規則的になる街」


 呟く声は、胸の奥で小さく震えていた。

 懐かしさと安堵、そしてほんの少しの緊張。


 レティアは隣で窓枠に指先を置き、車体の微細な振動を確かめるように囁いた。

 「活気と静謐が共存している。魔導技術が“風景”の一部になってるわ。……この車、制御系が精密ね。騎士団専用の上位モデルだわ」


 その声音は、分析を超えて感嘆を含んでいた。

 アリスが目を丸くする。


 「ほんと、見るところが違うよね……私は『あ、あのパン屋さんまだある!』って感動してたのに」


 「ふふっ」

 レティアは唇に手を当て、こぼれる笑みを抑えきれない。


 「あなたらしいわね。どんな場所でもまず“生活の匂い”を見つけるんだもの」


 アリスは頬を膨らませ、少しだけ拗ねたように言った。

 「だって……あの店のクロワッサン、子どもの頃に食べて感動したんだもん。あの層の軽さと、魔導炉で焼く香ばしさ――」


 アリシアが運転席越しに肩を震わせて笑う。

 「ふふ。変わらず行列よ。朝六時にはもう焼き上がるの。昼前には売り切れるから、買うなら早起きね」


 アリスの瞳がきらりと光る。

 「それは……明日の朝、行くしかないわね」


 その即答に、アリシアまで思わず吹き出した。

 車内に柔らかな笑いが満ちる。


 魔導車はその音を吸い込むように、静かに加速していった。 


 魔導車は「グリモワールの羽根亭」の前で音もなく停止する。

 街路灯が薄金の輪を石畳に落とし、黄昏の冷気が頬を撫でた。


 宿の外壁は古びた木と白漆喰で構成され、小さな魔導灯が軒下に吊られている。

 ガラスのランプシェードには風の精霊文字が刻まれ、通る風のたびに淡い光を揺らしていた。


 「少しだけ待っていて。すぐ支度して戻るから」

 アリスは短く告げ、外套の裾を押さえながらレティアと並んで宿の扉を押し開けた。


 木の香りと暖炉の温もりが胸の高さで迎え入れ、階段の軋みが懐かしく鳴る。

 長旅の緊張が少しずつ解け、足音も柔らかくなる。


 自室には夕陽の名残がカーテン越しに揺れ、長い影が床を静かに横切っていた。

 アリスは旅鞄を開き、衣類を手際よく畳む。


 布の質感を指先で確かめながら、一つひとつ仕切りへ収めていく。

 洗面具や日用品は香りと質感を確認するように触れ、ポーチの区画に正確に収まっていった。


 机の端には演習で使った術式板、護身用の小型魔導銃、予備の魔力カートリッジ――。

 どれも拭き上げが行き届き、微光を返している。


 腰の小型魔導ポーチは内側が術式で区画化され、重量配分が自動で調整される仕様だ。

 金具の小さな音が、集中のリズムを刻む。


 アリスは無意識に息を整えながら、その音に合わせて心の整理をつけていた。

 それは、戦場の緊張を静かにほどく小さな儀式のようだった。


 「レティア、そっちは?」

 「ええ。服と道具は鞄、魔導関係はポーチへ。実戦想定で“すぐ動ける”に寄せておいたわ」


 アリスが頷き、穏やかに笑う。

 「さすが……ほんと頼りになる」


 レティアも笑みを返し、肩を軽くすくめる。

 「そっちこそ。分類が綺麗。気持ちいいわ」


 「うん、こうしてると……“演習”の時を思い出すね」

 「ええ。でも今は、戦いじゃなくて――帰還の準備」


 「そうだね」


 その短い言葉に、二人の間を包む空気がわずかに柔らかくほどけた。

 鞄の蓋が同時に閉まり、金具の音が重なって響く。


 呼吸を合わせるように立ち上がり、姿勢を正した。


 

 一階の受付に降りると、灯りが少し落とされ、炉の中では赤い炎が静かに揺れていた。

 宿の主が恭しくも温かな笑みを浮かべる。


 「またのご宿泊をお待ちしております、グレイスラー様、エクスバルド様」


 アリスは軽く会釈し、

 「こちらこそ。とても快適でした。お世話になりました」


 レティアもそれに続く。

 「また機会があれば、必ず伺います」


 宿主は柔らかく目を細めた。

 「いつでもお待ちしております。王都の夜はまだ冷えます。お気をつけて」


 二人は深く礼を返し、夕気の澄んだ通りへ戻った。


 

 魔導車の脇では、アリシアがすでに待っていた。

 街灯の光が彼女の淡金の髪を縁取り、整えられた近衛制服が夜気の中で静かに光を返す。


 視線が合うと、アリシアは安心したように微笑んだ。

 「お疲れさま。……支度は済んだ?」


 「はい。すぐに出られます」

 「では、今度こそ屋敷へ」


 アリスは一瞬だけ視線を落とし、胸の底の揺らぎをごく小さくたたむ。

 「うん、お願い」


 「了解」


 車内へ戻り、扉が閉まる。

 魔導炉の唸りはさらに低く、滑走のような静かな加速が始まった。


 外の風景が流れ、石畳の音が遠ざかる。


 王都アステリアの中心部――その灯りは夜の幕を押し返すように輝いていた。


 店の窓からは暖かな灯りと笑い声が漏れ、街角のカフェからは甘い香りと弦楽器の旋律が流れてくる。


 遠くの魔導塔が薄い光輪を重ね、塔頂の魔力水晶が心臓の鼓動のように瞬く。


 夜の気配が羽衣のように街を包み、車輪の影だけが淡く伸びていった。


 やがて――。

 魔導車はグエン・グレイスラー邸の前で緩やかに停止した。


 威風堂々たる石造の邸館。

 重厚な両開き扉には繊細な鉄細工が透かし彫りのように編み込まれ、門柱の頂に据えられた魔導灯が静かに脈動する。


 門扉の中心には、グレイスラー家の家紋――交差する銀剣と蒼翼――が堂々と掲げられ、磨かれた紋章面は街灯の光を淡く返す。


 門番の騎士が二名、儀礼槍を胸に立てて直立。

 アリシアの身分印章の提示に一礼し、結界鍵が静かな共鳴音を鳴らす。


 金属が擦れる乾いた音はなく、術式の鎖がほどけるように門は無音で左右に開いた。

 車は石畳のアプローチを進む。


 両脇の生垣は刈り込みが行き届き、低木の間に魔導庭灯が点々と続く。

 中央には円形の噴水。白石の縁から透明な水が段をすべり、ランプの光を受けて金の鱗のように瞬いた。


 玄関ポーチには浅い階段が広がり、柱に巻かれた蔦が夜気のなかで微かに揺れる。

 アリスは息を呑み、視線を上げた。


 (……変わらない。けれど――少しだけ、違う)


 幼い日には“巨大”だったものが、今は細部まで見渡せる。

 胸の奥で、懐かしさと緊張が同時に胸板を叩いた。


 隣でレティアがささやく。

 「立派ね……威圧じゃなく、品がある」


 アリスは小さく笑みを返す。

 「うん。ここは――“帰って来る場所”の匂いがする」


 ポーチの上で魔導灯が一段明るさを増し、扉前に控える影が静かに動いた。

 アリシアは振り向き、穏やかに告げる。


 「ここでお別れね。また晩餐会で会いましょう」


 アリスは思わず問い返した。

 「晩餐会に参加するの?」


 アリシアはくすっと笑い、胸に手を当てる。

 「私、これでも近衛騎士ですよ」


 アリスは小さく舌を出して、照れ隠しの笑顔を見せた。

 「そうでした……。じゃあ、明後日」


 「ええ。明後日」


 アリシアは軽やかに会釈し、御者へ合図を送る。

 魔導車は静かに方向を変え、門外の夜気へと消えていった。


 アリスとレティアはしばし、その背を見送った。

 夜風が、ふたりの髪をそっと撫でていく。


 グエンの屋敷を見上げるその瞳には、再会と――新たな物語の幕開けを映す光が宿っていた。

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