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第二部 第一章 第8話

 やがて、扉の向こうから控えめだが確かなノックの音が響いた。


 “コン、コン”――静寂をやさしく叩くような音。

 まるで空気が息をひそめるように、部屋の音がすべて吸い込まれていく。


「どうぞ」


 ヴェイルが低く静かな声で応じた。

 取っ手がゆっくりと回され、金属の擦れる小さな音が室内に響く。

 扉が開かれると、外の廊下から淡い金色の光が差し込み、空気の粒が揺れた。

 その光の中を、一人の女性騎士が静かに歩み入ってくる。


 入室してきたのは、銀縁の正装を身にまとった女性だった。

 白と深青を基調とした近衛騎士隊の礼装は、細部まで整えられた意匠が施され、織り込まれた魔力紋章が呼吸するように淡く揺らめく。

 胸元の階級章は磨き抜かれ、陽光を受けてほのかに金色の光を返していた。

 その立ち姿には、長年の鍛錬で培われた緊張感と誇りが漂い、まるで一本の剣のような鋭さと品格を併せ持っていた。


 背筋は真っすぐに伸び、姿勢の一つひとつに迷いがない。

 淡い金茶色の髪は丁寧に結い上げられ、後頭部で束ねられたリボン留めが光を受けて小さくきらめく。

 顔立ちは凛と整っており、透き通るような琥珀色の瞳が、まっすぐに前方を射抜くように輝いていた。

 その瞳の奥には、幾多の試練を乗り越えてきた者だけが持つ静かな意志と自信が宿っている。


 ――まさしく、誇りと訓練によって磨き上げられた“王国の騎士”の姿だった。


 彼女は一歩、ゆっくりと前に進み出る。

 その足音は絹のように静かで、床の上を流れる光さえ乱さない。

 右拳を胸に当て、気品ある深い礼を取った。

 流れるような所作の中に、完璧な規律と真心が感じられる。


「近衛騎士隊所属、アリシア・フォルゼン。お迎えに上がりました」


 その声は澄んでいて、どこか柔らかい。

 だが芯には凛とした響きがあり、言葉の一つひとつが美しく空気に溶けていく。

 その瞬間、まるで見えない波が空間を震わせた。


 ――アリスの胸が、どくんと大きく鳴った。


 名前を聞いた瞬間、彼女の瞳が大きく見開かれた。

 驚愕と喜び、そして懐かしさが一気に込み上げ、呼吸が止まる。

 椅子の脚がわずかに音を立て、アリスは勢いよく立ち上がっていた。


「アリシア……!? 嘘、まさか……!」


 その声には震えが混じっていた。

 心の奥に封じていた幼い日の情景が、一瞬で開かれていく。

 春の庭に咲く白い花、風に舞う花びら、陽光に照らされた笑顔。

 あの頃、王都アステリアのグエンの屋敷で、幼いアリスとアリシアはいつも庭園を駆け回り、笑いながら空を見上げていた。

 ――過ぎ去った日々が、まるで今、光の粒となって蘇るようだった。


 アリスの瞳に映るのは、もう“思い出の彼女”ではない。

 強く、美しく、堂々とした近衛騎士としてのアリシア。

 それでも、その目元に残る優しさは変わっていなかった。


 アリシアは静かに一歩近づき、柔らかな笑みを浮かべる。


「ええ、私です。……お久しぶりですね、アリス様」


 その微笑みは、穏やかでどこか懐かしい。

 アリスは目を瞬かせ、息を詰めたまま彼女を見つめ続けた。

 言葉が出ない――ただ、胸が熱くなる。


「変わった……全然、雰囲気が違う……!」


 ようやく絞り出したその言葉は、感嘆と感情が入り混じって震えていた。

 アリシアは微かに笑い、金茶色の髪を揺らしながら首を傾げる。


「アリス様のほうこそ。昔のままのところもあるけれど……とても立派になられた」


 彼女の声は少し低くなり、穏やかな余韻を含んで響いた。

 その声音に宿る誇らしさが、まるで“再会を待っていた”という思いを代弁しているかのようだった。


 アリスは顔を赤らめ、視線をそっと逸らした。


「その“様”付け、やめて。私たち、昔は名前で呼び合ってたじゃない」


 アリシアは一瞬だけ驚いたように目を瞬かせた。

 次の瞬間、懐かしさが込み上げたのか、口元に柔らかな笑みを戻し、ゆっくり頷く。


「……そうでしたね。では、遠慮なく。アリス、迎えに来たわよ!」


 “アリス”と呼ばれたその響きに、心がわずかに震えた。

 長い年月を経ても変わらない、あの呼び方――まるで失われていた時間が一瞬で繋がったようだった。


 アリスは微笑みを返し、胸の奥にこみ上げる懐かしさを押さえながら答えた。


「うん。ありがと、アリシア」


 その声には、再会の喜びと少しの照れくささ、そして確かな絆の温もりがにじんでいた。

 静かな光が二人を包み、部屋の空気がふっと柔らかく変わっていく。

 遠くで時計がひとつ、静かに時を刻む音が響いていた。


 隣に立つレティアへ視線を向け、アリスは小さく息を整えた。

 胸の高鳴りを落ち着かせるように指先で髪を撫で、口元に柔らかな笑みを浮かべる。


「あっ、紹介するね。この人はレティア・エクスバルド。学院の友達で、私の親友……今はいろいろ、一緒に行動してるの」


 その声には、信頼と誇りがこもっていた。

 “親友”という言葉を口にした瞬間、レティアの肩がほんのわずかに動いた。

 けれどその横顔には、照れと嬉しさが交じった穏やかな光が宿っていた。


 レティアは静かに一歩前へ進み出る。

 淡いスカートの裾を指先で軽く摘み、優雅に腰をかがめた。

 その所作は伯爵家の令嬢としての気品を備えながらも、決して堅苦しくはない。


「初めまして、レティア・エクスバルドと申します。アリスと親しくしてくださっていると聞いて、心強いです」


 その声は、柔らかく、けれど芯のある響きを持っていた。

 暖炉の火の揺らめきが彼女の頬を照らし、琥珀色の瞳に光を宿す。

 貴族の娘としての品格と、アリスの友人としての温かさ――その両方が滲み出る挨拶だった。


 アリシアはその名を聞いた瞬間、わずかに表情を引き締めた。

 瞳の奥に騎士としての本能的な敬意が宿る。


「……ファーレンナイト王国、エクスバルド伯爵家の次女様……ですか」


 その言葉は低く、丁寧に、確認するように発せられた。

 アリシアは姿勢を正し、ゆるやかに一歩踏み出す。

 右拳を胸に当て、深く頭を下げた。


「これは、ファーレンナイト王国古き名門――エクスバルド伯爵家のレティア・エクスバルド嬢。お目にかかれて大変光栄でございます」


 その礼には、完璧な近衛騎士としての誇りと、相手への敬意が込められていた。

 動作に乱れはなく、呼吸すら一定。

 まるで儀式の一部のような精密さ。

 彼女の周囲の空気が、一瞬だけぴんと張り詰めた。


 レティアは一瞬、きょとんとした表情を見せた。

 あまりに形式ばったその態度に、わずかに肩をすくめるような仕草を見せ、そして小さく笑った。

 微笑むその表情は、まるで春の陽射しのように穏やかだった。


「ありがとうございます。ただ、私は今、貴族としてではなく……できれば、ただのアリスの友人として扱っていただけると嬉しいのですが……」


 その声には、柔らかいが確かな意志が込められていた。

 生まれではなく、自らの意思で立つ彼女らしい言葉。

 静かに、しかし確かにその場の空気を変える。


 アリシアは少しだけ目を瞬かせた。

 意外そうな反応を見せつつも、その言葉を噛み締めるように小さく息を吐いた。

 そして、口元に優しい笑みを浮かべる。


「……わかったわ、レティア。あなたがそう望むなら、そのように扱うわ。アリスの友達なら、私にとっても大切な人よ」


 その言葉は、まっすぐで温かかった。

 近衛騎士としての立場を超え、一人の女性として敬意を返すような声音。

 レティアの瞳がふっと和らぎ、微笑みが花のように広がった。


 互いに微笑み合うその光景に、室内の空気がふっと柔らかくなる。

 張り詰めていた緊張が解け、暖炉の火の音が穏やかに戻ってくる。

 まるで春の陽射しが室内に差し込んだようだった。


 控えていたヴェイルが軽く咳払いをした。

 彼の声音は、場の和やかさを壊さぬように慎重に選ばれた音量だった。

 アリシアは小さく頷き、姿勢を正す。

 わずかに表情を引き締め、再び近衛騎士としての顔へ戻る。


「それでは、お二人をご案内いたします。屋敷で支度の準備が整っておりますので、どうぞこちらへ」


 促されるままに、アリスとレティアは頷いて立ち上がる。

 椅子の脚が床を擦る音が、静かな余韻を残した。

 レティアは裾を軽く整え、アリスは胸の前で手を組むように息を整える。


 三人が扉の前に差しかかる。

 ヴェイルは静かに一歩前に出て、姿勢を正し、穏やかな笑みを浮かべた。


「私はここまでです。……本日はお疲れ様でした」


 アリスとレティアは同時に振り返り、深く頭を下げた。


「今日はありがとうございました、ヴェイルさん」

「お世話になりました」


 その声は真摯で、自然と礼節を帯びていた。

 ヴェイルは短く息を吐き、目を細めて敬礼を返す。


「こちらこそ。どうかお気をつけて」


 その瞬間、扉の向こうから吹き込む空気が少しだけ温かく感じられた。

 新しい出会いと再会を胸に、三人は静かに歩き出した。


 静かに扉が閉まり、三人は第一魔導騎士団本部の廊下を歩き出した。

 広い廊下には魔導灯が等間隔に並び、青白い光が足元を照らす。

 窓から差し込む午後の日差しが床に柔らかな陰影を落とし、壁に掛けられた紋章旗が風に揺れて微かに鳴った。


 歩きながら、アリシアはふと足を止めてアリスに視線を向けた。


「……そういえば、あの頃よく遊んだ屋敷の中庭、覚えてる? アリス、私が転んで膝をすりむいた時、慌てて泣きながら薬を取りに走ってくれたのよ」


 その言葉に、アリスは真っ赤になって頬を膨らませた。


「えっ、それ言う? や、やめてよ、恥ずかしい……!」


 アリシアはくすりと笑い、その目に優しい光を宿した。


「ふふ、あの時のあなた、本気で泣きそうな顔してたのよ。あれ見て、痛みよりも可笑しくて笑っちゃったもの」


「うぅ……そんな昔のことまで覚えてるの?」


 アリスが照れくさそうに顔を背けると、レティアがそっと口元に手を当てて笑みをこぼした。


「その頃からお世話好きだったのね」


「ち、違うもん……っ! あれは、ただ心配だっただけで……!」


 アリスが頬を膨らませて抗議する声に、アリシアとレティアが同時に笑い声を上げた。

 ――穏やかな午後の光の中、三人の笑い声が廊下に心地よく響き渡った。


 再会の喜びと懐かしい時間のぬくもりが、静かに、そして確かに広がっていく。ていく。

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