第二部 第一章 第7話
グエンはふと視線を窓の外へ移し、穏やかな午後の光に包まれた景色をじっと見つめた。
厚みのある窓ガラス越しに見える庭園には、春の陽射しがやわらかく降り注ぎ、風に揺れる緑の葉が金色のきらめきを返している。
その光が彼の銀白の髪を淡く照らし、まるで時間の流れさえ穏やかに緩やかになったかのようだった。
外では小鳥のさえずりが遠くから聞こえ、風が木立の枝葉を優しく揺らしている。
室内には、暖炉の残り火が放つわずかなぬくもりと、茶葉の甘く芳しい香りが漂っていた。
穏やかな静寂――その中に、どこか張り詰めた空気が微かに混じっている。
やがてグエンは、ゆっくりとこちらへ顔を向けた。
蒼銀の瞳がアリスとレティアをまっすぐにとらえる。
落ち着いた声が、静かな部屋に溶け込むように響いた。
「ところで……明後日の夜、王宮で晩餐会が開かれる」
その一言に、二人の空気がわずかに揺れた。
グエンは続ける。
「王都アステリアに滞在中の各国関係者や、魔導騎士団の一部も招かれる場だ。もちろん、私も出席する」
言葉が部屋に染み込むように響くと、アリスは胸の奥にかすかな緊張を覚えた。
彼女の鼓動が一拍だけ早まり、指先に意識が集まる。
「晩餐会……ですか」
かすれ気味の声が漏れた。
隣に座るレティアも静かに姿勢を正し、頷く。
「王宮主催ということは……正式な場、ということですね」
「そうなるな」
グエンはゆるやかに頷き、落ち着いた口調で続けた。
「ただ、式典のように堅苦しいものではなく、あくまで交流の場だ。
とはいえ、王族や上級貴族も出席する。礼節を欠くわけにはいかん」
彼の声音は穏やかでありながらも、どこかで責任と覚悟を帯びていた。
その重みを感じ取ったアリスは、唇を結び、真剣な表情で頷いた。
「君たちにも、まもなく招待状が届くだろう」
グエンは言葉を続ける。
「少し慌ただしくなるかもしれんが、参加しておくといい。学院生としても、そして……今の立場としても、な」
その言葉にアリスの胸がわずかにざわめいた。
心の奥で、何かがざらりと動くような感覚。
「……私たちが? どうして」
声にわずかな戸惑いが滲む。
ふと、思い当たった疑問が口をついた。
「そういえば、私たちがここにいるかどうかもわからないのに、どうして招待状を出せるんですか」
その瞳は真剣で、いつもの穏やかさの中に芯の強さが宿っていた。
グエンはその視線を受け止め、静かに微笑んだ。
「入都の際に、貴族用の入都ゲートで申請手続きをしたことを覚えているだろう」
ゆっくりとした口調で言いながら、彼はティーカップを軽く傾けた。
「その手続きは王城にも正確に記録される。
つまり、君たちが王都に滞在していることは、すでに王宮が把握しているということだ」
アリスは小さく頷き、胸の奥にあったもやのような疑念が少し晴れていくのを感じた。
「……なるほど、そういう仕組みなんですね」
レティアが静かに言葉を添える。
そして、ふと目を伏せながら話を戻した。
「招待状が届く最大の理由は――古代遺跡での件、でしょうね」
グエンは短く頷く。
「その通りだ」
低く落ち着いた声が部屋に響く。
「学院生とはいえ、ファーレンナイト王国第二騎士団の部隊ですら撤退を余儀なくされたバロール・ビーストの亜種を、君たちは正面から討伐してみせた。
――その武勲が、いま“白銀の英雄”として語られているらしい」
アリスの瞳がわずかに見開かれ、レティアが驚きに息をのむ。
「白銀の……英雄」
呟いたその声が、静寂の中に溶けた。
「君の魔力の色が、見た者すべてに強烈な印象を残したのだろう。
噂というものは、往々にして誇張される。だが、勢いを持って広がるのもまた事実だ。
ミラージュ王族の一部や中央貴族の中には、君たちに関心を抱く者も出始めている」
グエンの言葉に、アリスは苦い息を吐いた。
「……それで、晩餐会に」
その声はわずかに震えていたが、逃げるような弱さではなかった。
グエンは静かに頷き、穏やかに言った。
「参加しなければ目立たずに済む――そう考えるかもしれんが、逆に“欠席した理由”が独り歩きしてしまう。だからこそ、顔を出しておいた方がいい。必要以上に目立たず、しかし堂々と、な」
アリスはしばらく黙り込み、視線を落としたまま深く息を吐いた。
そして、少し肩の力を抜くようにして答える。
「……わかりました。……逃げるのは、やめます」
その言葉に、グエンの表情がやわらいだ。
「アリス、君が貴族社会を嫌っているのはわかっているつもりだよ」
アリスは小さくうなずき、視線を伏せながらぽつりと漏らす。
「……どうも、ああいう場は居心地が悪くて」
その声音には、素直な苦手意識と少しの自嘲が混じっていた。
しばしの間が落ち、彼女は弱々しく続けた。
「でも、服装の準備とか、どうしよう」
レティアはさりげなく、しかし頼もしげに言葉を挟んだ。
「私が手配してもいいわ。この前の演習で魔導騎士団の女子にも伝手ができたし、
アステリアには腕の良い仕立屋が多いと聞いているから、心配いらないわよ」
アリスはわずかに表情を緩め、感謝を込めて微笑んだ。
「ありがとう、レティア。……すごく助かる」
グエンは二人のやり取りを静かに見守っていた。
その目元には、どこか懐かしさと誇りが混ざっている。
やがてティーカップを静かにテーブルへ置き、ゆっくりと立ち上がった。
「それと――二人は晩餐会までは、私のミラージュの屋敷に滞在するといい」
落ち着いた声が再び響く。
「着替えや支度、警備の面でも都合がいい。衣装の準備もこちらで済ませよう」
アリスは一瞬、言葉を失ったように表情を曇らせた。
戸惑いとわずかな気まずさが交錯する。
だが、すぐに息を整えて小さく呟いた。
「……わかりました。……しぶしぶ、ですけど」
レティアはその言葉に柔らかく笑い、楽しげに頷いた。
「嬉しい。じゃあ、久しぶりにゆっくりお話できそうね」
その時、控えていたヴェイルが一歩前に進み、静かに頭を下げた。
「閣下、そろそろお時間が」
グエンはその言葉に、軽く時計へと視線を移し、わずかに目を細めた。
「……もうそんな時間か。楽しい時間というのは、どうにも早く過ぎてしまうものだな」
そう呟くと、ふっと穏やかな微笑を浮かべ、再び二人の方へ向き直った。
「では――」
グエンはゆっくりと立ち上がり、品のある仕草で上着の裾を整える。
「今夜は、屋敷で夕食を一緒にとろう。……そのときには、君自身の言葉で“何か”を話してくれると嬉しい」
その声音には、期待と温かさ、そしてわずかな探るような響きが混ざっていた。
アリスの胸の奥がきゅっと締めつけられる。
けれど彼女は、静かな笑みで答えた。
「……はい。できる範囲で、ちゃんと」
グエンは振り返り、穏やかに頷いた。
「そうだ、屋敷までの送迎を手配しておいたから、ここで少し待っていてくれ。
間もなく迎えの者が来るはずだ」
二人は軽く頷き、感謝を込めて微笑む。
グエンはそんな二人の様子を見て、静かに微笑みを浮かべながら、控えていたヴェイルに視線を向けた。
ヴェイルが再び恭しく一礼すると、グエンは短く頷き、静かに扉の方へ歩み出す。
背筋をまっすぐに伸ばしたその姿は、長年王国を支えてきた名将の威厳を漂わせながらも、どこか柔らかい温かみを残していた。
そして扉の前で振り返り、二人に穏やかな声をかけた。
「それでは――夜にまた会おう」
柔らかな笑みとともに、グエンは静かに一礼し、扉の向こうへと姿を消した。
再び訪れた静寂の中、室内には午後の柔らかな光が差し込み、空気の中で金色の粒子がゆらめいていた。
磨かれた木製の床が淡く反射し、暖炉の残り火がかすかな音を立てながら燃えている。
その“ぱちり”という音が、静寂の中でやけに鮮やかに響いた。
テーブルの上では湯気の消えかけたティーカップが、まだわずかに香りを放っている。
レティアは指先でカップの縁をゆっくりとなぞり、その残る温もりに指を止めた。
「……ねえ、アリス。さっきの“何か”って、どういう意味かしら」
問いかける声は、柔らかくも少しだけ探るような響きを帯びていた。
アリスは小さく肩をすくめ、唇にわずかな笑みを浮かべる。
「たぶん、“いつものおじい様”の勘、だと思う」
その声は軽やかに聞こえたが、どこか照れと緊張が混ざっていた。
二人の間に、再び静けさが落ちる。
外では風が葉を揺らし、遠くの鐘の音が淡く響いた。
その瞬間――
“コン、コン”と、扉の向こうから軽やかなノックの音が響いた。
レティアがカップをそっと置き、姿勢を整えて小さく息を吸う。
「どうぞ」
その一言が静かな空間に溶けた。
ゆっくりと扉が開かれる。
金色の光が差し込み、空気がわずかに揺れた。
廊下から流れ込む光の筋が床を照らし、その中心に人影が立っていた。
逆光の中、その姿は一瞬、輪郭だけが浮かび上がる。
淡い風が吹き込み、カーテンがふわりと舞う。
アリスは反射的に立ち上がり、思わず息を呑んだ。
心臓が一拍、強く跳ねる。
その瞳が驚きに大きく見開かれ、光を映してきらめいた。
時間が一瞬止まったかのように、世界が静まり返る。
レティアも目を見開き、口元に小さな驚きの色を浮かべる。
差し込む光の中、現れたその人物の姿――
その“誰か”の影が、ゆっくりと室内へと踏み込んでいった。




