表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
55/180

第二部 第一章 第6話

 ヴェイル・シフォードは静かに歩み寄ると、丁寧に一礼し、落ち着いた声で言葉をかける。

「お待たせしました。お二人とも、ようこそ。わざわざ足を運んでくださり、ありがとうございます」


 アリスは立ち上がり、姿勢を正して微笑む。

「お久しぶりです、ヴェイルさん。お会いできて嬉しいです」


 レティアも軽やかに一礼した。

「再会できて光栄です。以前よりもお元気そうで何より」


 ヴェイルは小さく笑みを返した。

「ありがとうございます。こちらへどうぞ。応接室を用意しています」


 彼の先導で、三人は廊下を進んだ。

 磨き上げられた大理石の床が光を返し、壁の魔導灯が淡い金の輝きを落としていく。

 通路には冷たく澄んだ空気が流れ、軍事施設というよりは、精緻な魔導研究所のような整然とした静けさがあった。


 やがてヴェイルが立ち止まり、扉の前で振り返る。

「こちらです。――中で待つ方がいらっしゃいます」


 扉の前でヴェイルが一度立ち止まり、軽くノックをした。

「失礼いたします。――アリス・グレイスラー様、レティア・エクスバルド様をお連れしました」


 中から落ち着いた声が返る。

「入りたまえ」


 ヴェイルは静かに扉を押し開け、二人を促して室内へと案内した。

 応接室は午後の光に包まれ、窓の外からはアステリアの街並みが一望できる。

 白銀の光が床を淡く照らし、重厚な机と書架が整然と並んでいた。


 ゆっくりと彼は窓の外からこちらへ視線を戻し、穏やかな微笑みとともに振り向いた。

「やあ……久しぶりだね」


 その声と笑顔に、アリスとレティアは息を呑み、言葉を失った。

「……おじい様!」


 知的な光を湛えた瞳。

 幼い頃からずっと憧れ、尊敬してきたその姿が、目の前にあった。


「……よく来たな、アリス」


 グエン・グレイスラーは柔らかく微笑み、昔と変わらぬ優しい眼差しを向けた。

「なんでここに……ミラージュにいるなんて、聞いてない……」


 アリスの声には、驚きと戸惑い、そして抑えきれない喜びが入り混じっていた。

 視線の先――彼女の祖父、グエン・グレイスラーは柔らかく微笑みを浮かべ、わずかに肩を揺らした。

「私的な視察だよ」


 落ち着いた声には、どこか安心させるような温もりがある。

「偶然、ミラージュ王国のエルネスト君から“気になる報告”があってな。……お前が現地で活動していると聞いて、様子を見に来たのだ。まさか、直接顔を見られるとは思っていなかったが」


「……そんな……」


 アリスは小さく息を呑み、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。

 懐かしい声。その一言一言が、幼い頃の記憶を静かに呼び覚ましていく。


 グエンはふと、彼女の背後に立つもう一人の少女へと視線を向けた。

「それに……エクスバルド伯爵令嬢――レティア・エクスバルド嬢。君も久しぶりだな」


 その穏やかな言葉に、レティアは一瞬驚いたように目を見開き、すぐに微笑を浮かべて深く一礼した。

「ご無沙汰しております、グレイスラー様。お会いするのは……三年前の領都での晩餐会以来でしょうか」


「そうだったな。君もすっかり落ち着いた顔つきになった。立派なレディに、貴族令嬢になったな。二人とも……立派に、成長したな」


 その言葉にレティアは頬を染め、わずかに俯いた。

「……恐れ多いお言葉です。“隣に立つ者”として共に歩むことを誇りに思っていますわ」


 グエンは穏やかに笑い、深く頷いた。

「そうか。互いを支え合える関係というのは、何よりも強い。君たち二人を見ていると、まるで昔の私と――」


 ふと、彼の瞳に遠い追憶の色が宿る。

「……いや、昔話はやめておこう。懐かしすぎて涙腺が緩んでしまう」


 軽く冗談めかして笑うと、室内にわずかな和やかさが戻った。

「それにしても……もう三年も経つのか」


 グエンは二人を交互に見つめ、ゆっくりと息をついた。

「時の流れは早いな。あの頃は二人ともまだ幼くて、領邸の庭先で木剣を振り回しては、転んで泣いていたものだ」


 アリスははっと目を見開き、思わず笑みをこぼす。

「おじい様こそ……そのたびに私を抱き上げて、“泣くな、剣士は立て”って言ってくれたじゃないですか」


「そうだったな」


 グエンの目元が緩む。

「お前は転んでもすぐに立ち上がって、何度でも剣を構えた。――あの時からもう決まっていたのかもしれん。お前が“戦う者”として生きることは」


 アリスの胸の奥で、懐かしさと誇りが入り混じる。

 静かに手を胸に当て、彼女は微笑みながら言った。

「私は……ずっと尊敬するおじい様の背中を追ってきました。今もまだ未熟ですけど、少しでも近づけるようにって」


 グエンは言葉もなく頷き、静かに二人を見つめた。

 その瞳は、厳しさを超えた深い慈愛に満ちている。


 やがて彼は穏やかな声で言った。

「――よくぞ努力を続けてくれた。

  お前たち二人の成長を、私は心から誇りに思うよ。

  ファーレンナイトの未来を支えるのは、まさしく君たちのような若者だ」


 その言葉は、まるで祝福のように柔らかく、力強く響いた。

 アリスは胸の奥が熱くなり、レティアは静かに頷きながら微笑む。


 室内は、やわらからな午後の光で満たされていた。

 窓から差し込む光が、木製の床を静かに照らし、書棚に並ぶ古びた本の背表紙を黄金色に染めている。

 頁の隙間に積もった埃が淡く舞い、光の粒のようにきらめいた。


 暖炉の奥では、まだ消え残った火がかすかに息づき、赤い残光が薪の断面をゆっくりと照らしている。

 焦げた木の香りと、古い羊皮紙の匂いが混ざり合い、どこか懐かしい記憶を呼び起こすようだった。


 外では、遠くの梢で鳥たちがさえずり、風が窓硝子をわずかに揺らす。

 その音が、静けさの中に“生”の気配を織り込んでいた。


 その穏やかな空気を、ひとつの低い声がそっと揺らした。

「――ところで、アリス、レティア」


 グエン・グレイスラーの声。

 落ち着きの中に微かな緊張を孕んだ、年輪を感じさせる声だった。


 言葉の一つひとつを慎重に選ぶような口調には、孫娘とその傍らに立つ少女に対する深い思慮と、どこか“確かめたい”という意志が滲んでいる。


 二人の視線が自然とグエンへ向いた。


 朝日を受けた彼の髪は、青みを帯びた銀色に光り、知的な眉間の皺が今は穏やかに緩んでいた。

 だがその奥には、静かに燃える意志――長年、戦場を渡り歩いた男の眼光がわずかに覗く。


「今回の古代遺跡での件について、いくつか……私からも聞いておきたいことがある」


 その言葉に、空気が一瞬だけ止まった。

 室内の時計の針が刻む音が、妙に長く響く。


 アリスは姿勢を正し、背筋にひやりとした緊張が走った。

 祖父の声には、何よりも“事実を確かめる覚悟”があった。


「特に――バロール・ビーストの“亜種”と遭遇した際のことだ」


 グエンの瞳がまっすぐアリスを射抜く。

 その視線は、ただの心配ではない。

 戦士としての観察と、家族としての懸念が同居している――それを、アリスは痛いほど理解していた。


「君が魔力枯渇状態であるにもかかわらず、無傷で倒れていたという報告は、どうにも腑に落ちなくてな。

  第一魔導騎士団の記録には、白銀の閃光と強烈な魔力の波動、そして……まるで異質な何かが“降臨”したような様子まで記されていた」


 その瞬間、アリスの胸の鼓動がひときわ強く打った。

 心臓の音が、耳の奥で波のように響く。


 彼の言葉は、あの日の光景をありありと思い出させた。

 白銀の閃光。

 世界が軋むほどの魔力の奔流。

 そして――自分の意識が、誰かと重なった感覚。


 レティシアとしての戦場の記憶。

 長瀬はるなとしての冷静な思考。

 そして今の自分――アリスとしての意志。


 三つの時代、三つの心が、あの一瞬に一つへと溶け合った。

 己の中で“何かが解き放たれた”ことだけは確かだった。

 だが――その“何か”を説明する言葉を、今の彼女はまだ持っていない。


「……無我夢中でした。何がどうなっていたのか、はっきりとは……」


 言葉は、震えるほど小さかった。

 彼女は唇を噛み、視線を落とす。


 グエンは微動だにせず、その表情から感情を読み取らせないまま、静かに彼女を見つめていた。

 暖炉の火がぱち、と小さく弾ける。

 その音が、まるで沈黙を切り裂くように響く。


 アリスの脳裏には、あの瞬間の記憶が断片的に蘇る。

 強烈な光、吹き荒れる魔力の風、誰かの声――。

(……私の声じゃない。けれど確かに“私”だった)


 胸の奥がじんわりと熱くなり、思わず拳を握りしめる。

「……一部だけ、なんとなく。でも……はっきりしているわけじゃなくて。

  まるで……ずっと昔に見た夢の続きを歩いていたような、そんな感覚なんです」


 その言葉を聞いたグエンは、静かに目を細めた。

 長い沈黙のあと、彼はゆっくりと頷く。

 表情は穏やかだが、瞳の奥に潜む光は、真実を見抜く者のそれだった。


「そうか。それなら仕方ないな。――今は無理に思い出さなくてもいい」


 その声音は柔らかく、どこまでも優しかった。

 だがアリスは、その裏に隠された“別の意図”を感じ取っていた。

(きっと……わかってる。完全じゃなくても、何かに気づいてる)


 祖父としての温もりと、元・騎士団長としての鋭い洞察。

 その二つが同居する眼差しに、アリスは言葉を失った。


 レティアは隣で静かに様子を見守っていた。

 彼女もまた、あの夜の光景を思い出していた――

 世界を裂くような閃光と、アリスの背に浮かんだ白銀の輝き。


 グエンは口元にわずかに微笑みを浮かべ、静かにティーカップを手に取った。

 琥珀色の液面に、朝の光がやわらかく反射する。

 その眼差しは穏やかでありながら、どこか遠い記憶を追うような深さを帯びていた。


 目の前のアリスを見つめながら、彼は心の中でひとつの確信に至る。

(――やはり、あれと似ている)


 脳裏に蘇るのは、まだ幼かった彼女と過ごした日の光景。


 陽光が柔らかく差し込む、領邸の練兵場。

 青空は雲ひとつなく澄み渡り、遠くでは山並みが薄靄の中に溶けている。


 練兵場の外縁には高い樫の木々が連なり、風が葉を揺らすたび、柔らかなざわめきが耳に届いた。

 地面はよく踏み固められた赤土で、朝露に濡れた芝が陽光を受けて煌めいている。

 空気はまだひんやりと澄み、どこか甘い青草と鉄の匂いが混じっていた。


 その広々とした空間の中央――

 幼いアリスが、小さな体で剣を両手に構えていた。

 まだ彼女の腕には重く、柄の部分を握る手がわずかに震えている。

 頬にはうっすらと汗が滲み、額の金の髪が風に揺れた。


 グエンは少し離れた位置で、静かにその姿を見守っていた。

「ゆっくり、落ち着いて。呼吸を整えて、剣の動きを感じるんだ」


 その声は穏やかで低く、どこか包み込むような温もりがあった。

 だが同時に、鋭い意志と重みを感じさせる。

 戦士として、そして祖父として――彼はアリスに“生きた剣”を教えていた。


 アリスは小さく頷き、深く息を吸い込む。

 胸の奥に冷たい空気が流れ込み、吐く息とともに緊張が少しずつ解けていく。

 両手の力を抜き、剣先をわずかに動かした。


 ――シュッ。


 空を切る音が静寂に響き、その音が彼女の心を落ち着かせた。

「そう、いいぞ。次は腕の動きに集中するんだ」


 グエンは隣に立ち、同じ動きをゆっくりと示す。

 彼の剣筋は無駄がなく、まるで風そのものが形を成したかのようだった。

 優雅でありながら、一瞬の中に研ぎ澄まされた力が宿っている。


「剣は、斬るためのものではない。――意志を伝えるためのものだ」


 その言葉が空気を震わせる。

 アリスはその声を胸に刻み込み、再び剣を構えた。


 次の瞬間だった。

 アリスの体から、ふわりと淡い光が立ち昇った。

 最初は気のせいかと思うほどかすかな輝き。

 だが、それはすぐに白銀の霧のように広がり、彼女の輪郭をやわらかく包み込んでいく。


 光は風に溶けるように揺らめき、地面の影が淡く伸びた。

 空気がピンと張りつめ、世界が一瞬、静止した。

 鳥のさえずりが遠のき、風の音が消える。

 耳に届くのは、鼓動と、光の中を漂う微かな“音”――まるで魔力そのものが呼吸をしているようだった。


「……アリス?」


 グエンの声が静寂を破る。

 彼女の小さな肩がびくりと震え、光がふっと消えた。

 次の瞬間には、いつもの柔らかな空気が戻っていた。


 アリスは目を見開き、困惑したように自分の両手を見つめる。

 そこには、ほんのりと温もりを帯びた余韻だけが残っていた。

「……いま、なにか……」


 声が震え、言葉が途中で途切れた。

 グエンはすぐに彼女の傍らに歩み寄り、そっと肩に手を置いた。

「大丈夫だ。訓練中の一過性の魔力の暴走だよ」


 穏やかに言いながらも、その眼差しの奥には明確な“何か”を見つけた光があった。

 彼は決して動揺を見せず、あくまで優しく語りかけた。

「恐れることはない。魔力というものは、心の在り方ひとつで形を変える。

  今はまだ制御できなくてもいい。――自分を責めるな」


 アリスは小さく頷き、息を整える。

 肩の力が抜けると、剣を持つ手が微かに震えた。

 けれどその瞳には、確かに“意志の光”が宿っていた。


 グエンはその姿を見つめ、やがて静かに微笑んだ。

「剣はただの刃ではない。君の心、魂を映す鏡だ。

  焦らず、自分の力を信じて進め」


 その言葉に、アリスの胸の奥がじんわりと温かくなる。

 風が再び吹き抜け、金の髪をふわりと揺らした。


 ――あの日、確かにあの白銀の光は存在した。

 グエンは今でも、あの時の感覚を鮮明に覚えている。


 “あれは偶然ではない”。


 祖父としての優しさの裏で、かつての軍人としての直感が静かに囁いていた。

(あの光……あの質……間違いない。あれは――)


 グエンはティーカップをそっと卓上に戻し、わずかに瞳を閉じる。

 あの日の光と、今のアリスの瞳に宿る“白銀の輝き”が、確かに重なって見えた。


 当時は訓練中の一過性の魔力暴走と判断し、深く詮索することはなかった。

 だが――今回のバロール・ビースト亜種との交戦における“白銀化”現象、

 そして、記録に残る異常な魔力量の消耗。


(……あれは、偶然ではなかったのか)


 その疑念はやがて、静かな確信へと変わっていった。

 彼女の中には、まだ誰も知らぬ“特別な何か”が眠っている。

 それにアリス自身がまだ気づいていないのか、

 あるいは――気づきながらも、受け入れようとしていないのかもしれない。


 だが今、目の前にいる少女は、幼い頃と変わらぬ素直な瞳で祖父を見つめ、

 ただ「夢の続きを歩いたようだった」とだけ告げた。


(……自覚していないのか、それとも――)


 グエンは息をひとつ呑み、目を細める。

 沈黙の中で、暖炉の火がぱちりと音を立てた。


 やがて、彼は肩の力をゆっくりと抜き、穏やかな声で言葉を結んだ。

「そうか……なら、無理に聞くのはやめておこう」


 どこか寂しげでありながら、深い理解と慈しみを含んだ声音。

 その声が、部屋の静かな空気をやわらかく包み込む。


「記憶というのはな、時が満ちれば自然と輪郭を結ぶものだ。

  今は、それで十分だよ……アリス」


 アリスは一瞬だけ驚いたように目を瞬かせ、それから小さく微笑んで頷いた。

「……ありがとう、おじい様」


 グエンの微笑みは穏やかで、

 まるで長い旅路を見守る者のように、静かな優しさに満ちていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ