↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
527/538

第十四部 第三章 第5話

 その仕草に、クラリスもレイリスも、ほんのわずかに唇を緩めて笑みを浮かべた。

 長く張り詰めていた空気が、湯気のようにやわらかくほどけていく。


 ――封印も、災厄も、今はひとまず遠い話。

 このひとときだけは、三百年を越えた再会を祝う、穏やかで柔らかな時間だった。


 だが、湯気の立つカップを見やりながら、ふとレイリスが静かに口を開いた。


「……ところで、フローラ。ひとつ気になっていたことがあるのだけれど」


「ん?」


「お茶って、飲めるの? その状態で、味覚や温度はどう感じているの?」


 何気ない問い。

 けれど、その声音には淡い好奇心と、ほんの少しの戸惑いが混じっていた。


 その言葉に、フローラは空中でぴたりと動きを止め、目をぱちぱちと瞬かせる。

 宙に浮かぶ身体がわずかに揺れ、淡い光粒が肩口からこぼれ落ちた。


 そして、次の瞬間――わざと大げさに頬へ人差し指を当て、考え込むようなポーズをとった。


「……う〜ん、液体はちょっと無理かなー。物理的に取り込むっていうのは、やっぱりできないみたい」


 ぱたぱたと両手を振り、肩をすくめてから、にこりと満面の笑みを浮かべる。


「でもね! 魔力とか、養分とか、魂の波動的な何かなら――吸収できるよ〜♪ むしろそっちの方がごちそう!」


「魂の波動的な何かって何……? 説明になってるようで全然なってないわよ、それ」


 アリスが眉をひそめ、半ば呆れながらもすかさず突っ込む。


 フローラはくるりと軽やかに一回転して、アリスのいれたカップの上にふわりと浮かんだ。

 揺れる湯気の中、銀糸の髪が淡く光を反射し、宙に舞う花びらの幻光が湯面に映り込む。


「たとえばこのお茶も、香りと温度、それに“アリスちゃんのいれた空気感”は取り込めるのっ。ちゃんと感じられるんだよ? ほわ〜ってなるの!」


 両手を頬に当て、幸せそうに目を細める。


「あとは雰囲気補完で擬似的に“飲んだ気”になれるよ! ちゃんと満足度も再現されるし、カロリーゼロで最高!」


「……それ、完全にイメージだけで楽しんでない? むしろ精神論の極地なんだけど」


 アリスが目を細め、半ば呆れたように言う。


「イメージは生命よ! 想像できるものはすべて実在と同義! これはもう哲学の領域だからね!」


 フローラは胸を張り、腰に手を当てて自信満々に言い切る。

 その無邪気な表情に、室内の空気がわずかに和む。


 クラリスはカップを手にしたまま、小さく肩を震わせて笑みをこぼした。

 紅茶の香りとともに、張り詰めていた感情がゆるやかにほどけていく。


「……でも、よくそこまで明るく生きていられるわね。普通なら、魔核融合体って自我の維持だけでも限界のはずなのに。それを“楽しめる状態”で保っているなんて、理論的にはありえないわ」


 その言葉に、フローラはきらりと目を細め、少し得意げに指先を掲げる。


「ふふふ、それは私の“初期設計”が良かったからだよ~? 最初から“楽観バイアス強め”で作ってあるから、多少の絶望環境でもメンタル崩れない仕様なの!」


 くすりと笑い、軽く肩をすくめる。


「あとね、ひとりで三百年も封印守ってるとね、暗くなってたらやってられないの。だから、明るくしてるんじゃなくて――明るくしてないと保てない、っていうのもあるかな」


 ほんの一瞬だけ、その声音の奥に静かな影が差した。


 けれど、次の瞬間にはいつもの調子へと戻る。


「……ね、セリーネ?」


 さらりと口にされた旧名に、クラリスはわずかに息を呑み、視線を伏せる。


 指先がカップの縁に触れ、温もりが静かに伝わっていく。


 ほんの刹那の沈黙。


 ――だが。


 やがて、クラリスは小さく息を吐き、ゆっくりと顔を上げた。


 その唇には、穏やかな笑みが浮かんでいる。


「……ええ、そうね。あなたは昔から、そういう設計だったもの。無茶も、無理も、全部“なんとかなる”って笑って受け止めてしまう」


 声は静かで、柔らかく、どこか懐かしさを帯びていた。


「……本当に、変わらないわね」


 それは、遠い昔を共有した者だけが交わせる、重みと懐かしさを帯びた笑みだった。


 笑いが収まったところで――アリスはふと、両手で包み込むように持っていたカップへと視線を落とした。

 淡い湯気が立ちのぼり、ミントの香りがほのかに漂う。

 その揺らめきの向こうで、彼女の表情は徐々に静かに引き締まっていく。


 ほんのわずかな沈黙。

 空気が、次の言葉を待つように静かに張りつめる。


「……ねえ、フローラ。少しだけ、いい?」


 抑えた声色は、先ほどまでの和やかさとは違い、どこか張り詰めていた。


「うん? なぁに? そんな顔してるってことは、ちょっと大事な話だよね」


 宙を軽やかに漂っていたフローラが、ぴたりと動きを止める。

 銀糸の髪が空気の流れに合わせてふわりと揺れ、次の瞬間、くるりと身を翻してアリスの方を正面から見つめ返した。


 アリスは一瞬、言葉を探すように視線を伏せ――それでもやがて、しっかりと顔を上げて問いを投げかけた。


「さっき言ってたこと。

 “もしかしたら、あなたたちがどこかで出会うかもしれないよ”って……

 ……あれ、本当なの?」


 控室の空気が、ふと揺れたように感じられた。


 クラリスは持ち上げていたカップを止め、指先にかかる温もりをそのままに固まる。

 レイリスもまた瞼をわずかに伏せながらアリスに視線を送る。


 二人とも、答えを急がず、ただ静かに成り行きを見守っていた。


 フローラはその視線をすべて受け止めるように、宙に漂ったまましばしの沈黙を保った。

 光の粒子が、彼女の輪郭からわずかに零れ落ちる。


 やがて――ほんの少しだけ目元を和らげ、薄く笑みを浮かべる。


「……冗談交じりで言ったけど、ね。

 あれ、ただの勘ってわけじゃないんだ」


 視線を細め、ほんのわずかに息を吐く。


「実は――たぶん、当たってると思う。かなり高い確率で」


 その声音は軽やかに装っていても、奥底には曇りのない確信があった。

 それは“予知”でも“確定”でもない。


 けれど、《封印核》として世界の深奥に触れ続ける存在が感じ取る、抗えない本能的な“予感”。


 フローラは指先をゆっくりと持ち上げ、空中に淡い光を集めた。

 光粒がひとつ、またひとつと浮かび上がり、ゆるやかに円を描く。


「まだ全部は繋がってないんだけど……。

 でもね、ひとつだけ、はっきりしてる場所があるの」


 光の粒がひとつ、ゆらりと強く輝いた。


「たぶん、第十二層。

 第十二層の構造には、明らかに“何か”が干渉してる」


 その言葉に、クラリスの瞳がわずかに鋭さを帯びる。

 レイリスの指先も、ごく自然に剣の柄へと触れていた。


「空間の歪み、魔力の偏り、それに――封印術式の“外部反射”。

 普通じゃ起きない干渉が、ずっと続いてるの。しかも、周期的に強まってる」


 淡い光が彼女の輪郭から滲み出し、言葉の重みを示すように宙に小さな光粒が散った。


「欠片が“そこ”にいるのか、それとも“そこ”が欠片を引き寄せたのか……それは、私にもまだわからない。

 でも――接触する可能性は、かなり高いよ」


 フローラは視線をまっすぐにアリスへ向ける。


「避けることも、たぶんできない。

 ……どこかで、必ず交差する」


 その答えを聞いた瞬間、アリスは小さく、しかし確かに頷いた。


 胸の奥でざわめく緊張を押し殺し、冷たい決意の光をその瞳に宿す。


「……わかった。覚悟しておく。

 もし出会うなら――その時は、逃げない」


 やがて、そっとカップを卓上に置く。

 陶器が軽く触れ合う澄んだ音が、静まり返った空気に溶けていった。


 彼女の横顔には、もう迷いはなかった。

 仲間を守る者の決意と、迫り来る運命に抗う者の光が、確かに宿っていた。


 重い話を一区切りつけたあとは、三人はゆったりとした時間の中で、思い出話を交わし始めた。


 セリーネとしてのクラリスが覚えていた頃の出来事。

 研究棟の奥で夜通し続いた術式調整の記録。


「……あの時、あなた、三日連続で寝てなかったわよね。しかも平然と“まだいける”って言ってたじゃない」


「え? だっていけたし! むしろテンション上がってたし!」


「上がってたのはテンションじゃなくて危険度よ」


 レイラ――いや、レイリスが当時どれだけ“無表情のまま怒鳴られていたか”。


「……私はただ、事実を述べていただけです。怒鳴られていた覚えはありません」


「いや、完全に怒鳴られてたよ! しかも全員から!」


「声量が上がっていただけです」


「それを一般的には怒鳴られるって言うのよ……!」


 フローラが暴走した魔術演算機に勝手に名前をつけて、結局修理班を困らせた話。


「だって可哀想じゃん! 名前もないなんて! だから“アルティメットちゃん”ってつけてあげたのに!」


「その“アルティメットちゃん”、そのあと爆発寸前まで暴走したのよね」


「愛情表現がちょっと強かっただけだよ!」


 昔日の記憶は、時に笑いを誘い、時にため息を吐かせながら、少しずつ三百年という空白を埋めていった。


「でもさあ、あの時のレイちゃん、“お堅い守護者モード”全開でさあ~。もうちょっと柔らかくしてもよかったんじゃない?」


 フローラが宙でひらひらと手を振りながら、無邪気に笑う。

 光の粒子が指先からぱらぱらと零れ、淡い虹色の軌跡を描いた。


「……それは、あなたが機密エリアの扉を片っ端から開けようとしたからでしょ。しかも止めても聞かなかったでしょう」


 レイリスの声は低く静かだが、どこか呆れをにじませている。

 腕を軽く組み、わずかに視線を逸らしながらも、その口調には当時を思い出したような硬さが残っていた。


「だって、“試してみたかった”んだもん~! だってさ、あれ絶対何か仕込まれてる感じだったし!」


 フローラは悪びれる様子もなく両手を広げ、虹色の光粒を散らしてみせる。

 その動きは軽やかで、まるでいたずらを自慢する子供のようだった。


「試す必要はありません。あの区域は明確に封鎖指定でした。……あのとき、封印一枚でも破損していたら、どうなっていたか」


「えー、でもちゃんと止めてくれたじゃん。レイちゃん優秀!」


「褒めても評価は変わりません」


「え~、冷たい~」


 その掛け合いに、アリスもつい頬を緩めていた。

 言葉のやり取りの中にある距離感が、長い時間を飛び越えてそのまま戻ってきたかのようだった。


 フローラの存在は確かに“過去”そのものなのに、なぜかこうして会話していると、それが“今”の延長にあるように錯覚してしまう。

 時間の断絶すら、ここでは意味を持たないかのように。


 この場にだけ流れる不思議な時間の心地よさに、彼女はしばし身を委ねていた。


 ――けれど、時間は止まってはくれない。


 午後の陽が窓から差し込み、角度を変えて床に長い影を落とし始めた頃。

 静かな光が室内を横切り、空気にゆるやかな変化をもたらす。


「……そろそろ、失礼しますね。長居しすぎるわけにもいきませんので」


 ふいに、レイリスが椅子から静かに腰を上げた。

 その動作は無駄がなく、自然と空気が引き締まる。


 その声音は穏やかだったが、言葉の端に“現実”が滲んでいる。


 アリスとクラリスが同時に顔を上げた。


「予定が?」


 クラリスが問いかける。


「ええ。午後から、少し“護衛任務”が入っていまして。……報告の補助も兼ねていますが、優先はそちらです」


 わずかに視線を落とし、次の言葉を選ぶように間を置く。


「……また、正式な場でお会いしましょう。その時は、もう少し落ち着いて話せると思います」


 そう言い、レイリスは指先をゆるりと翳す。


 次の瞬間、淡い青白い魔力の光が彼女の全身を包み込んだ。


 空気がわずかに震え、光の層が重なるように揺らめく。


 ふわりと広がる魔力の波が、長い青白の髪を黒く染め、輪郭を僅かに引き締める。

 尖った耳は自然に隠され、精霊としての気配も深く封じられていく。


 その変化は滑らかで、ほとんど境目を感じさせない。

 長い年月で磨かれた技術と覚悟の結晶だった。


 光が収まったとき、そこに立っていたのは――無口で冷ややかな黒髪の女剣士、“レイラ・アスコット”。


 王国騎士団副長としての顔を生きるための、完璧な“仮面”。


「では、また」


 短く告げ、彼女は背筋を正したまま扉へと向かう。

 足取りは静かで、しかし迷いは一切ない。


 その姿に、一瞬だけ空気が張り詰めた。


 だが――


 すぐにフローラが柔らかな笑みを浮かべ、手を大きく振った。


「行ってらっしゃい、レイちゃん。……ちゃんと無茶しないでね? 昔みたいに一人で全部抱え込まないこと!」


 軽やかな声は、からかい半分、心配半分。


 レイラは振り返らない。


 だが、扉へ手をかけた瞬間――ほんの一瞬だけ動きを止める。


 そして、小さく手を上げて応えた。


 その一言もない仕草が、言葉以上の信頼と絆を雄弁に物語っていた。


 扉が静かに閉ざされる。


 重厚な木の音が、控室の空気に溶け込む。


 ――そのあとも、しばし部屋には温かな余韻が残り続けた。



 レイラの姿が扉の向こうに消え、部屋に再び静けさが戻る。

 閉ざされた扉の向こうへと吸い込まれるように、足音も、魔力の余韻もすっかり遠ざかっていく。

 控室には魔導灯の柔らかな光と、湯気の残り香だけが漂っていた。


 アリスは手元のカップに視線を落とし、ぬるくなったミントティーを一口だけ啜る。

 温度の下がった液体が舌の上で静かに広がり、ほのかな清涼感だけがゆっくりと残っていく。

 その感覚を確かめるように目を細めると、そっとカップを置き、椅子を引いて立ち上がった。


「……じゃあ、私も」


 そう言いかけた瞬間――


「ちょっと待ったーっ! そんな流れで終わるのはダメでしょ、ダメダメ!」


 軽やかな声が響き、アリスの袖口あたりでふわりと光が揺れた。

 空気がわずかに弾けるように震え、小さな粒子がきらりと瞬く。


 振り返ると、フローラが空中に浮かび、ぷくっと頬を膨らませていた。

 半透明の身体をわずかに揺らし、両腕を組んで、むすっとした顔でアリスを見上げる。


「“私も”じゃなくて、“私たちも”、でしょ! ちゃんとそこ、大事だからね!」


 ぷんすかと拗ねたように言いながら、くるくると小さく回転してみせるその仕草が、どこか子供っぽくて愛らしい。


 アリスは一瞬きょとんとしたあと、思わず吹き出しそうになりながら言い直した。


「……はいはい、“私たちも”、ね。ちゃんと一緒に帰るわよ」


「うむ、よろしい。最初からそう言ってくれればいいのに~」


 満足げに顎を上げて頷いたフローラは、すぐににこにこと笑顔を取り戻す。

 その表情は、まるで自分が当たり前に仲間の一人であることを誇らしげに示しているかのようだった。


 そのやり取りを見ていたクラリスが、口元に手を添えながらくすりと笑った。

 肩がわずかに揺れ、柔らかな吐息が空気に溶ける。


「こうして見てると、本当に三百年も経ったなんて思えないわね。時間の方が間違ってるんじゃないかしら」


「でしょ~? 私、不老不死系魂核だから、記憶も態度もバージョンそのまま! アップデートいらずの優良モデルだよ~!」


 フローラは胸を張って、きらきらと光のエフェクトを背に散らす。

 背後に小さな星屑が弾け、まるで舞台のスポットライトを浴びているかのようだった。


「それを自慢するのはどうかと思うけど……。そのまま過ぎるのも問題よ」


 アリスは肩をすくめながら、しかしどこか嬉しそうに笑みを浮かべる。

 その表情は柔らかく、ほんのわずかに安心の色を帯びていた。


 ――再会から始まった、ささやかな時間。


 封印も、災厄も、この瞬間だけは遠く。

 柔らかな笑顔とぬるい紅茶の香りに包まれて、彼女たちは束の間の“今”を分かち合っていた。


 アリスが軽く息を整えて、扉へと向かおうとしたそのとき――


 ふわりと宙に浮かぶフローラが、くるりとクラリスの方を振り返った。

 その動きはゆるやかで、どこか名残を惜しむようだった。


「じゃあ、セリーネ――またねっ♪ 今度はもっとゆっくり話そうね!」


 その一言に合わせるように、彼女の周囲に花弁のような光の粒がふわっと舞い始める。

 きらきらと瞬く粒子は、まるで春風に乗って流れる桜吹雪のように、室内の空気を彩った。


 次第に光は濃度を増し、虹色の輪が三重に重なって空間を包み込む。

 淡い光が壁や床に反射し、控室そのものが一瞬だけ幻想的な舞台へと変わる。


 フローラはその中心で両手を大きく広げ、ふわりと一回転。

 無邪気な笑みを浮かべながら、わざとらしく大きな声を張った。


「《退場演出プロトコルNo.77☆感動の余韻と光の余波を添えて! アンコールはなしだよ~!》」


 パァンッ、とまばゆい閃光が弾ける。

 光は一瞬で広がり、音もなく彼女の姿が霧のように消え去った。


 虹色の残光と、ひらひらと散る光片だけがしばらく宙に漂い――やがて、静かに消えていく。


 ……もっとも、実際には本体はポーチに収められた魔核へと帰還しただけである。


 演出だけはいつも通り、いや、それ以上に過剰だった。


「……演出、過剰すぎない? しかも微妙に長いし」


 アリスは思わず肩をすくめ、ポーチを軽く叩いて小声で呟く。


「消えるだけで、どうしてそこまで全力出すのよ……。誰に向けてのサービスなのよ」


 もちろん返事はない。

 ポーチの中は、すでにひっそりと静まり返っていた。


 それでも、なぜか今にも「アンコール!」と響いてきそうで、アリスは苦笑を浮かべるしかなかった。


 彼女は気を取り直し、クラリスへと向き直る。


「じゃあ、私も行くね。また後で。たぶんすぐ顔出すと思うけど」


「ええ。お気をつけて、アリス。無理はしないで」


 クラリスが穏やかに微笑む。

 研究者としての冷静さに、旧友を見送るあたたかさが重なった声音だった。


 アリスは小さく頷き返し、取っ手に手をかける。


 扉が静かに開くと、外の廊下には午後の柔らかな陽光が差し込んでいた。

 結界越しに和らいだ光が、石造りの床や壁を淡く照らし出し、どこか穏やかな余韻を漂わせている。


 控室の中の光景がまだ心に残る中、アリスは静かに歩みを進めた。


 廊下には人影も少なく、足音がやわらかく反響するだけ――


 まるで一連の再会が、夢のような出来事だったかのように思えるほどの静けさだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。