第十四部 第一章 第15話
午後の集合時間までは、まだしばらく余裕があった。
仲間たちと別れたアリスは、足取りも静かに居住棟の自室へと戻ってきていた。
扉を閉じると、外のざわめきがすっと遠ざかり、部屋の空気が彼女をやわらかく包み込む。
靴を脱いで整然と揃えると、そのまま脱衣所へと向かい、衣服を脱ぎ捨て、壁際の術式スイッチへと手を伸ばした。
指先が触れた瞬間、淡い魔力光が一度だけ脈打ち、次の瞬間にはシャワーから温かな湯が滑らかに流れ出す。
流れ落ちる湯は迷いなく肩口へと当たり、そのまま背中を伝いながら、張り詰めていた心と身体をゆっくりと解きほぐしていった。
やや熱めに調整された湯が肌を滑るたび、戦闘と“継承”によって残されていた緊張が一層ずつ削がれていく。
湯気に満ちた空間は白く霞み、視界をやわらかく曖昧にしながら、全身の筋肉をゆっくりと弛緩させていった。
荒れていた魔力の波動もまた、湯に溶けるかのように落ち着きを取り戻し、今は穏やかな流れへと整えられていく。
しばらくして、シャワーの音が静かに止む。
滴る水を拭いながら、アリスは白いバスローブを羽織り、その柔らかな布地が濡れた肌に触れた瞬間、ひやりとした感触が一瞬だけ走り、すぐに体温と溶け合って穏やかな温もりへと変わっていった。
まだ乾ききらない金の髪をタオルで軽く拭きながら、彼女は静かに寝台へと腰を下ろす。
部屋の隅に据え付けられた魔導給湯器から淹れた紅茶のカップが、卓上でゆるやかに湯気を立てていた。
その香りは控えめながらも確かに空間へと広がり、静かな室内に落ち着いた温もりをもたらしている。
アリスは陶器のカップを両手で包み込むように持ち上げ、その温もりが掌から腕へ、そして胸の奥へとじんわりと伝わっていくのを感じた。
「……ふぅ」
小さく息を吐きながら一口含むと、渇いていた喉がやわらかく潤い、ほんのりとした甘い香りが鼻腔を満たしていく。
その感覚は身体の内側へと静かに広がり、張り詰めていた意識をゆっくりとほどいていった。
さきほどまで胸の奥に残っていた戦場の残響や“継承”の重みが、今だけは遠くへと霞んでいくようだった。
だが、次の瞬間――紅茶の湯気がゆらりと揺れた刹那、頭の奥に直接滑り込むような感覚とともに思念が触れ、空気の温度とは別の柔らかな気配が重なった。
《……アリスってば。レティシアと違って、育ってますね》
――ぷっ。
唐突に届いた思念の第一声に、アリスは口に含んでいた紅茶を盛大に吹き出しそうになり、喉の奥で咄嗟に飲み込もうとして軽くむせ込みながらも必死に耐え、慌ててカップを傾けてこぼさないように支えた。
「ちょっ……! なにその第一声……!」
慌ててティーカップをテーブルの端に置き、こぼれかけた雫を指で押さえながらタオルで口元を拭い、眉をきゅっとひそめて思念へと意識を向け返す。
《だって、同じ魂とはいえ……前世の貴女は、もうちょっとこう、締まってたというか、軍人的というか――今のあなたは柔らかくて、その……成長の方向性が少し違うなって》
《“はるな”もスレンダーだったしね。だから余計に違いが……あ、でも悪い意味じゃないですよ? むしろ健康的でいいと思うし、触り心地も――あ、いえ、その、表現が》
「フォローになってないからね!? むしろ悪化してるからね!?」
声を張り上げるわけにもいかず、アリスは小さく噛みつくように言い返しながらも思念の中で抗議を強め、頬がじわりと熱を帯びて耳の先まで赤く染まるのを自覚する。
部屋の静けさの中で紅茶の湯気がゆっくりと立ち上り、呼吸とともにわずかに揺れる空気の層に、外界とは切り離された穏やかな時間が流れていた。
その静寂の奥で、直接触れてくる声だけがやけに楽しげに響く。
《あはは、ごめんなさい。でもね……こうして思念を通わせられるようになったのは、継承を終えた証なの。だから少しくらい軽口を叩ける余裕があるってこと、嬉しく思ってほしいな》
《それに……こういう他愛ないやり取りができるって、悪くないでしょう? 三百年ぶりなんだから、少しくらい許してほしい》
「……もう、ほんとに……調子いいんだから」
呆れ混じりの笑みを浮かべながら肩を落とし、アリスは軽く息を吐いてからカップへと視線を落とす。
けれど、その胸の奥には確かな温もりが静かに広がっていた。
――魔核に眠っているはずの《フローラ・エルディス》。
その魂が今この瞬間にも思念を通じて繋がり、言葉としてではなく存在として隣に在ることを、アリスははっきりと感じていた。
《でも……あのとき、ちゃんと“受け継いで”くれて、ありがとう。あれは簡単に渡せるものじゃなかったし、正直、あなたがここまで受け止めきるとは思ってなかった》
不意に届いたその声は、先ほどまでの軽さを静かに沈め、深く穏やかな温度を帯びて心へと触れてくる。
アリスは小さく息を吸い込み、目を伏せてゆっくりと頷く。
「……うん。こっちこそ、あなたが一緒に来てくれてるって分かるだけで、全然違う。あの中で一人じゃないって思えたから、最後まで立っていられた」
短い思念のやり取りでありながら、その一言一言が胸の奥を震わせ、言葉以上の重みとして内側へと沁み込んでいく。
アリスは改めてティーカップを持ち上げ、湯気越しに揺らぐ液面に自分の影が重なるのを見つめながら、今度はゆっくりと一口含んだ。
温かさが喉を通り、胸の奥へと静かに落ちていく。
その安堵と共に胸の奥でほどけた感情が静かに次の言葉を押し上げ、アリスはわずかに息を整えながら思念へと意識を向ける。
「……ねえ、フローラ。今の世界に、貴女が知ってる人たち……まだ生きてる人、いるよ」
湯気の向こうで揺れていた空気が一瞬だけ張り詰め、思念の流れがぴたりと止まったように感じられる。
《えっ……? まさか、本当に……? そんなことが……》
驚きの色を帯びた思念が弾けるように広がり、その震えが直接胸の奥へと伝わってくる。
アリスはそっと視線を上げ、天井へと向けたまま、記憶をなぞるように言葉を選びながら静かに紡いだ。
「うん。まず、レイリス・セリンドリス。……あの子は、今も生きてる。姿は変えてるけど、力も記憶も、ちゃんと持ったまま、ずっと戦ってる」
言葉を発した瞬間、思念の向こう側で何かが弾けるように揺れた。
《……レイちゃんが……本当に……? あの子が……まだ……》
震える声が、そのまま感情となって流れ込んでくる。
《……そう、良かった……あの子は最後まで、諦めなかったから……どんな状況でも、きっと立ち続けるって、信じてた……》
懐かしさと安堵と、そして長い時間を越えた切なさが混ざり合い、思念の温度がわずかに揺らぐ。
アリスの胸にも同じ感情が静かに広がり、自然と瞳を細めながらその余韻を受け止めていた。
やがて彼女はそっとティーカップをソーサーに戻し、わずかに響いた陶器の音が部屋の静けさに溶けるのを感じながら、次の言葉を呼び込む。
「それから――セリーネ・シルヴァリスも、転生してる。名前は変わってるけど、今は“クラリス・ノーザレイン”って名前で、ミラージュ王国の魔導技術局にいる」
一瞬の静止。
次の瞬間、柔らかな驚きが思念の奥で花開いた。
《セリーネまで……本当に、戻ってきてたんだ……あの子が、またこの世界に……》
淡い感嘆と共に、フローラの声が揺れる。
《あの子は……きっと、また誰かのために動いてるんでしょうね……昔から、そういう子だったから》
アリスは柔らかな笑みを浮かべ、今度は少しだけ照れを含ませながら言葉を添える。
「うん。今は私の……親友だよ。何でも言い合えるし、たまに喧嘩もするけど、それでも一番近くにいる人」
《……親友、かぁ……》
その言葉をゆっくりと噛みしめるように、思念が静かに広がる。
《セリーネがそれを聞いたら……たぶん、泣いちゃうかもね……あの子、強がってるけど、すごく情が深いから……》
懐かしさを含んだ微かな笑いが、温かな波紋となって胸へと届く。
アリスもつられるように微笑みを深め、小さく頷いた。
そして、ふと表情を引き締めると、もう一つの名を静かに口にする。
「あと……直接会ったことはないけど、リディアも、女王としてまだ存命だって聞いてる。今も、エルファーレ王国を治めてる」
その名が空間に落ちた瞬間――思念の流れが大きく揺らいだ。
《……リディア……!》
それは、これまでとは明らかに違う反応だった。
静かだった声が大きく震え、抑えきれない感情が一気にあふれ出す。
《……まだ、生きて……? 本当に……本当に……?》
淡く響いていた声が、次第に涙を帯びた震えへと変わっていく。
《あの子が……まだ、この世界に……立ち続けているなんて……そんな……》
アリスは胸の奥が熱くなるのを感じながら、そっと微笑んだ。
「……ええ。三百年を越えて、今も変わらずに。民を導く女王として――そして、戦友を想い続ける人として」
《……っ……!》
堰を切ったように、フローラの思念が大きく揺れる。
《リディア……あなたが……あの戦いの後、たったひとりで……どれだけのものを背負って……!》
言葉が途中で途切れ、再び繋がり、そしてまた震える。
《……よかった……本当に……よかった……まだ、あの子が……そこにいる……》
その声は、もはや抑えきれない嗚咽に近かった。
アリスは静かに目を閉じ、その思念を受け止める。
フローラの涙は声にならないまま、確かにアリスの胸の奥にまで響いてくる。
それは三百年の隔たりを越えてようやく辿り着いた想いが解き放たれる瞬間であり、言葉にならなかった時間の重なりが静かにほどけていくような涙だった。
やがてフローラは思念の奥で呼吸を整えるように揺らぎを収め、少しずつ声の輪郭を取り戻していく。
《……ありがとう、アリス。……いいえ、“レティシア”。あなたが教えてくれなければ、わたしは永遠に知らないままだったし、きっとこのまま、誰もいない場所でその記憶だけを抱えて終わっていた》
その声音には、かすかな震えと、確かに救われた者だけが持つ安堵の温度が混じっていた。
アリスは瞳を開き、胸の奥に残る余韻を確かめながら、そっと応える。
「……伝えられて、よかった。あなたが知るべきことだったし、それを繋ぐのが……今の私の役目だと思うから」
声は小さく、それでいて確かな温もりに満ちていた。
しばしの沈黙。
それは単なる言葉の途切れではなく、三百年という時間の断絶を越えて再び結ばれた者たちの間に流れる、祈りにも似た静かな共鳴だった。
互いの存在を確かめ合うように、音のない空間に柔らかな余韻が広がり、言葉を必要としない理解が静かに満ちていく。
《……あの戦いを超えて、みんな、ちゃんと生きていたんですね。途切れていなかった……ちゃんと、繋がっていた》
フローラの思念は、深く安堵した吐息のように、穏やかに響いた。
「うん。私も……負けていられないって思った。あの人たちがまだ歩き続けてるなら、私もここで止まるわけにはいかない」
アリスの声は静かだが、その奥には確かな熱が宿り、揺るがぬ意思として言葉に乗っていた。
《ふふ、レティシアとはまた違うけど、あなたらしいわ……ちゃんと前を見てるし、自分で選んで進んでる……それが“アリス”ね》
懐かしい友と再会したときのような優しい声音が、空気そのものを温めるように広がる。
アリスは微笑んだまま、小さく息を吐き、胸の奥にあった張り詰めたものがゆっくりと解けていくのを感じていた。
《あ、そうそう。忘れるところだったわ》
ふいに、少し弾んだような声色が割り込む。
《あなたが行ったことのある場所なら、私が媒体になって転移できるからね? ただし条件付きで、座標の記憶が明確であることと、魔力供給が安定していること、それから……》
《……魔力はちょうだい。しかも、高品質なやつ》
「――ぶふっ!?」
思わずアリスは紅茶を噴き出しかけ、慌ててカップを持ち直して飲み込もうとしながらも喉の奥でむせ、急いでティーカップをテーブルに置いた。
白いバスローブの袖口が危うく濡れかけ、反射的にタオルを掴んで口元を押さえながら深く息を吐く。
「ちょっと!? 今の流れでそれ言う!? しかも重要すぎる情報をそんな軽いノリで出さないでよ!」
《え? 便利でしょ? 移動手段としてはかなり優秀よ? ただし魔力は必要だから。しかも量だけじゃなくて質も求めるから、その辺はちゃんと管理してね》
まるで悪戯を仕掛けた子どものような調子で続けられる思念に、アリスはがっくりと肩を落とす。
「ほんとに……あなた、思ってたよりずっと……自由人だね……いや、三百年も閉じ込められてた反動?」
《ふふ、どうかしら。もともとこういう性格だったかもしれないし、時間がそうさせたのかもしれないし……でも、こうして話せるなら、少しくらいは楽しませてほしいじゃない》
その軽やかな声に、アリスは思わず苦笑をこぼす。
呆れと安心と、どこか懐かしさの混じったその笑みは、先ほどまでの重い話題をゆるやかにほどいていった。
その返答に呼応するように、アリスの掌にある魔核は――どこか楽しげに、淡く脈動を刻んでいた。




