ep.500記念SS 『“閃光”と呼ばれる前のアリス』
十歳になって間もない春の朝、アリスはエクスバルドにある実家のパン屋で、焼き上がったパンを棚へ並べていた。
店内には小麦と酵母の香りが満ち、工房から運ばれてくる焼きたてのパンが、朝の光を受けて淡い湯気を立てている。
いつもなら開店後もしばらく店を手伝うところだが、今日は両親から休みをもらっていた。
パンを並べ終えたアリスは手を洗うと、壁際に置いていた革の胸当てと剣帯を身に着ける。
「忘れ物はないか?」
「うん。身分証明書と同意書、それからお祖父ちゃんに預かった手紙も持ったよ」
父であるギルバードに答えながら、アリスは腰の小袋を開き、中身をもう一度確かめた。
母のエリナは、そんな娘の前へ膝をつくと、胸当ての留め具を一つずつ引き、緩みがないことを確認する。
「グエンお義父様の指示とはいっても、無理をしてはいけませんよ。今日は登録の話を聞くだけですからね」
「わかってる。勝手に依頼を受けたりしないよ」
「その言葉、昨日から三回聞いたな」
「それだけちゃんとわかってるってことだよ」
アリスが胸を張ると、両親は顔を見合わせて苦笑した。
数日前、祖父のグエンから一通の書状が届き、アリスに実戦経験を積ませるため、冒険者ギルドへ登録させたいと伝えられた。
剣の腕だけでなく、状況判断や他者との連携、依頼を引き受ける責任まで学ばせることが目的であり、両親も条件付きで了承している。
活動できるのは店の手伝いがない日だけで、危険度の高い依頼や宿泊を伴う遠征には、両親とギルドマスターの許可が必要だった。
「それじゃ、行ってきます!」
「ああ。気をつけてな」
「帰りが遅くならないようにね」
「はーい!」
アリスは元気よく答えると、両親に見送られながら店を出た。
慣れ親しんだ街路を歩き始めた足取りは軽かったが、冒険者ギルドの建物が近づくにつれて、腰の剣が急に重くなったように感じられる。
剣帯の位置を直し、胸当ての留め具へ触れ、書状が入った小袋を確かめる。
すべて家を出る前に確認したはずなのに、アリスはギルドの前へ着くまで、同じ動作を何度も繰り返していた。
剣と盾を象った金属製の紋章が、朝の陽光を受けて鈍く輝いている。
その下にある木製の扉は、十歳のアリスにはひどく大きく、自分とは無縁の世界を隔てる壁のようにも見えた。
扉の向こうから聞こえてくるのは、冒険者たちの笑い声や武具の触れ合う音、依頼を読み上げる受付職員の声だった。
アリスは胸元へ手を当てて深く息を吸うと、両手で重い扉を押し開けた。
ギルドへ足を踏み入れた途端、酒と革、それに鉄の匂いが混じった空気が流れ込んでくる。
朝から酒を飲んでいる冒険者もいれば、壁際で剣を研いでいる者もおり、掲示板の前では数人の男たちが依頼書を見比べていた。
入口に立つ小さなアリスへ何人かが目を向けたものの、すぐに興味を失ったように自分たちの話へ戻っていく。
アリスは室内を見回してから、受付カウンターの一番端にいる若い女性の前へ歩み寄った。
「おはようございます。今日はどうされましたか?」
受付に立っていたマリエは、カウンターからわずかに顔を覗かせるアリスを見ると、親しみのある笑顔を向けた。
「依頼を出しに来たのかな? それとも、誰か冒険者を捜しているの?」
「違います。冒険者登録をお願いします」
「……冒険者登録?」
「はい。私のです」
マリエは笑顔を残したまま瞬きを繰り返し、それからアリスの背後へ視線を送った。
保護者らしい人物が立っていないことを確かめると、困ったように眉を下げる。
「ええと、登録するには身分証明書が必要なの。それに、あなたくらいの年齢だと、保護者の同意もないと……」
「持ってきました」
アリスは身分証明書と両親の署名が入った同意書を取り出し、背伸びをしながらカウンターへ置いた。
続いて、小袋から封蝋の施された書状を取り出し、その隣へ丁寧に並べる。
マリエは書類へ目を通したあと、書状の封蝋へ目を留めた。
「これは?」
「祖父から、ギルドマスターへ渡すように言われました!」
マリエは書状を手に取ると、封蝋へ刻まれた紋を確かめた。
その表情から受付嬢らしい笑みが消え、姿勢を正してアリスへ向き直る。
「……少し待っていてください。こちらの部屋でお待ちいただけますか?」
「はい」
アリスは受付脇の扉を通り、小さな応接室へ案内された。
両膝をそろえて椅子へ座ったものの落ち着かず、剣帯や胸当てへ何度も手を伸ばしてしまう。
やがて奥の扉が開き、マリエとともに、灰色の髪と整えられた髭を持つ大柄な男が姿を現した。
男は書状を片手に持ったままアリスの前まで来ると、鋭い眼差しで頭から足元までを観察する。
「俺がギルドマスターのガルド・バレストだ。お前がグエンの孫のアリスか」
「はい。アリス・グレイスラーです」
「書状は読ませてもらった。剣の訓練だけでは学べないことを、実地で経験させたいそうだな」
「お祖父ちゃんから、剣を振るうだけでは人を守れるようにならないと言われました。依頼を受ける責任や、知らない人と力を合わせる方法を学んでこいって」
ガルドは返事をせず、アリスの腰に下げられた剣へ目を向けた。
子供用に調整されているものの、玩具ではなく、十分な手入れが施された実戦用の剣だった。
「登録すれば、子供だからといってすべてが許されるわけじゃない。依頼に失敗すれば困る人間がいて、判断を誤ればお前だけでなく、同行者まで死ぬことになる」
「はい」
「怖くないのか?」
「怖いです。でも、怖いから何もしないままでは、守れるようになれません」
アリスは膝の上で両手を握りながら、ガルドの目をまっすぐ見返した。
声は少し震えていたが、その視線が逸れることはなかった。
ガルドはしばらくアリスを見つめたあと、書状を折り畳んで懐へ収める。
「登録を認める。ただし最初は採取や運搬を中心に、必ずギルドが許可した依頼だけを受けろ。危険度の高い依頼への参加と、宿泊を伴う遠征は、その都度俺と保護者の許可を取ることが条件だ」
「はい。ありがとうございます!」
「まだ礼を言うのは早い。登録の前に、お前がどれだけ動けるか確認させてもらうぞ」
「望むところです!」
「……急に元気になったな」
ガルドは口元を緩めると、アリスをギルド裏の訓練場へ連れていった。
剣の構えや足運び、受け身まで一通り確認すると、ガルドはようやく険しい表情を緩めた。
すべての確認を終えて受付へ戻ると、マリエが新しい登録証を用意して待っていた。
身分証明書はアリスへ返され、同意書とグエンの書状は、マリエが受付奥へ運んでいった。
登録証を受け取ったアリスは、その日は両親との約束どおり依頼を受けず、大切そうに小袋へ収めてギルドをあとにした。
数日後からは、店の手伝いがない日に限って、薬草採取や荷物の運搬といった危険の少ない依頼へ参加するようになった。
依頼へ出る前には、袋の中身を確かめ、剣が抜けるか試し、水筒の蓋まで何度も締め直す。
マリエに笑われても、アリスは途中で何かあったら困ると言って、すべてを確認するまで出発しなかった。
そんな活動にも少し慣れ始めた頃、街の外縁にある林での薬草採取を終えたアリスが、昼過ぎにギルドへ戻ってきた。
靴と外套の裾には泥がつき、金色の髪には小さな葉が絡んでいたが、抱えている袋には指定された薬草が詰まっている。
アリスは受付の前へ立つと、疲れを隠すように背筋を伸ばし、袋を差し出しながら誇らしげに胸を張った。
「今日も無事でした!」
「ええ、お帰りなさい。今回も、ちゃんと依頼達成ね」
「はい!」
マリエから声をかけられたアリスは、出発前の緊張した姿が嘘だったかのような笑顔を見せた。
その後も依頼へ出るたびに同じような確認を繰り返し、帰還すると必ず、無事に戻ったことを誇らしげに報告した。
それから一年が過ぎ、十一歳になったアリスは、引き続き店の手伝いがない日を選んでギルドへ通っていた。
毎日のように依頼へ出ることはできなかったが、採取や運搬、街道近くの護衛補助を一つずつ経験し、顔を覚える冒険者も増えている。
家庭のことを詳しく話すつもりはなかったため、活動できる日が限られている理由についても、周囲には家庭の都合とだけ伝えていた。
そんなある日、ガルドから呼び出されたアリスは、四人の冒険者が待つテーブルへ案内された。
「アレン。この子が、さっき話したアリスだ。しばらくお前たちの依頼へ同行させたい」
ガルドに名を呼ばれた黒髪の青年は、椅子から立ち上がってアリスへ向き直った。
落ち着いた眼差しと無駄のない立ち姿から、年齢以上の経験を積んでいることが伝わってくる。
「俺はアレンだ。剣士をしている。ガルドさんから話は聞いているが、無理に俺たちへ合わせる必要はない。できることと、できないことは最初にはっきり教えてくれ」
「はい。よろしくお願いします」
アリスが頭を下げると、その隣にいた柔らかな金髪の女性が笑顔を見せた。
「私はティナ。回復と支援を担当しています。怪我や体調の変化は、どんなに小さなことでも必ず言ってくださいね」
「ユリエよ。弓と索敵を担当してる。わからないことがあったら聞いて」
「はい。ティナ、ユリエ、よろしくお願いします」
最後にアリスが目を向けたのは、巨大な戦斧を椅子へ立てかけた大男だった。
グロウは腕を組んだままアリスを眺めると、怪訝そうに首を傾ける。
「なあ、アレン。この子、迷子か?」
「違います」
「そうか。じゃあ、誰かに依頼を出しに来たのか?」
「受けに来ました」
「誰が?」
「私がです」
グロウはアリスの背後を覗き込み、誰もいないことを確かめてから、もう一度アリスへ目を戻した。
「……お前が?」
「さっきから、そう言っています!」
語気を強めたアリスに、グロウは腹を抱えて笑い出した。
アレンは額へ手を当て、ティナは呆れた顔を向けているが、ユリエの口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。
「悪い悪い。俺はグロウだ。前で敵を止めるのが役目だが、お前まで守れるかは、これから見て決める」
「守ってもらわなくても大丈夫です」
「おう、威勢だけは一人前だな。だが、俺の後ろにいたら前が何も見えねぇぞ」
「それはグロウが大きすぎるからです!」
「なるほど。なら、踏み台でも用意してやるか?」
「いりません!」
グロウが再び笑い声を上げると、アリスは頬を膨らませたまま顔を逸らした。
これが、アリスと四人の冒険者たちとの出会いだった。
最初の依頼は、近隣の農村まで資材を運ぶ荷馬車の護衛だった。
アレンは全体を見ながら先頭を歩き、グロウが荷馬車の左側、アリスが右側につき、ティナとユリエが後方を警戒する。
街道に危険な魔獣は現れなかったものの、アリスは教えられた配置を守り、森や岩陰から目を離さなかった。
昼前に休憩へ入ると、グロウがアリスの隣へ腰を下ろし、外套の内側から干し肉を一本取り出す。
「ほら、食え」
「さっき朝ごはんを食べたばかりです」
「もう昼だ。それに育ち盛りは食わねぇと、いつまでたってもそんなにちっこいままだぞ」
「余計なお世話です。……でも、もらいます」
アリスが干し肉を受け取った直後、背後からティナの声が聞こえた。
「二人とも、何を隠しているんですか?」
「何も隠してません」
「干し肉だ」
「グロウ! どうして正直に言うんですか!」
「嘘はよくねぇからな」
「渡した本人が言わないでください!」
ティナは二人の前へ立つと、グロウから干し肉の袋を取り上げた。
間もなく昼食にするのだから待つように言われ、アリスとグロウはそろって肩を落とす。
「お前がもたもたしてるから見つかったじゃねぇか」
「受け取った瞬間に全部話したのはグロウです!」
「俺は仲間に隠し事をしない男だからな」
「今度からグロウには何も相談しません」
その日を境に、グロウは依頼のたびにアリスをからかい、アリスも遠慮なく言い返すようになった。
彼は街道を歩くとき、アリスの短い歩幅に合わせて速度を落としていたが、そのことを指摘されても決して認めなかった。
「別にお前へ合わせてるわけじゃねぇ。俺が本気で歩いたら、アレンたちまで置いていっちまうからな」
「さっきアレンに、歩くのが遅いって注意されてましたよね?」
「あれはアレンがせっかちなだけだ」
「グロウ、聞こえているぞ」
「ほら、こういうところがせっかちなんだ」
「聞こえるように話しているからでしょう!」
別の日には、小さな洞窟へ入る前に、グロウがアリスの荷物を勝手に持ち上げた。
自分で持てると抗議するアリスを無視して肩へ担ぎ、その代わりだと言って大きな背嚢を押しつけようとする。
「自分の荷物より大きいじゃないですか!」
「交換してやろうと思ったんだがな」
「それを交換とは言いません!」
「細けぇことを気にすると大きくなれねぇぞ」
「大きさの話から離れてください!」
互いに言い合いながらも、戦闘が始まれば、二人は驚くほど自然に動きを合わせた。
グロウが巨体と戦斧で魔獣の正面を押さえ、その脇をアリスが駆け抜けて死角から剣を入れる。
アリスが敵の注意を引けば、グロウは必ずその進路へ割って入り、一撃を受け止めた。
アレンが全体を整え、ティナが傷と消耗を支え、ユリエの矢が敵の逃げ道を封じる。
依頼を重ねるうちに、五人は言葉を交わさなくても、互いが次にどこへ動くのかを理解できるようになっていった。
「そういえば、お前、次はいつ来るんだ?」
依頼を終えた帰り道、グロウが何気ない口調で尋ねてきた。
「まだ決まってません。しばらく来られないかもしれません」
「そうか。なら、干し肉を一本残しておいてやる」
「腐らせないでくださいね」
「俺が食うから腐らねぇよ」
「それだと残してないじゃないですか!」
グロウは笑っただけで、アリスがギルドへ来られない理由を尋ねなかった。
アレンたちも同じであり、アリスが話そうとしない家庭の事情へ、無理に踏み込むことはなかった。
その日、五人が受ける予定だったのは、街道周辺に現れた小型魔獣の調査だった。
アリスがいつものように装備を点検していると、ギルドの扉が勢いよく開き、泥にまみれた鉱夫が転がり込んでくる。
「助けてくれ! 鉱山村の坑道に巨大な魔獣が入り込んだ! 中にはまだ作業員が残ってるんだ!」
ギルド内の視線が鉱夫へ集まり、受付にいたマリエが駆け寄った。
詳しい状況を聞いたガルドは、近くにいた冒険者たちへ指示を出し、すぐに救援隊を編成する。
アレンたちにも声がかかったが、ガルドはアリスを一度見てから、厳しい顔で腕を組んだ。
「今回の依頼は危険度がわからん。坑道内の捜索次第では、村で一泊する可能性もある。アリス、お前はここに残れ」
「私も行けます!」
「行けるかどうかだけの話じゃない。お前を許可なく遠征へ連れ出すことはできん」
「だったら、許可を取ってください」
アリスはガルドの目を見返し、腰の剣へ手を添えた。
ガルドは眉間へ皺を寄せたが、その横からアレンが口を開く。
「俺たちが必ず見ます。アリスの速さが必要になる状況もあるかもしれません」
「俺も賛成だ。こいつは自分の役目を守れる」
グロウが珍しく真面目な声で続けると、ティナとユリエも頷いた。
ガルドは短く息を吐き、アリスだけを受付奥の応接室へ呼んだ。
「家へ確認は取る。だが、その前に約束しろ。危険だと判断したら、アレンの命令に従って必ず退けるか?」
「はい。約束します」
ガルドは使いを出すようマリエへ命じ、救援隊の準備を進めながら返事を待った。
やがて保護者から、アレンたちとガルドの監督を条件とした許可が届く。
ガルドは返事に目を通すと、登録時に預かったグエンの書状も取り出した。
「緊急時の参加判断は俺に委ねると、こちらにも書いてある。今回は参加を認めよう。ただし、指揮はアレンに従え。独断で動いたら、今後の活動は認めん」
「はい!」
四人のもとへ戻ると、ガルドはアリスの参加を認めたことだけを伝えた。
アレンは頷いて装備の確認を再開し、グロウが隣へ置いていた背嚢をアリスへ差し出す。
「アレン、こいつを頼むぞ」
「わかりました」
「グロウ、お前は特に目を離すな」
「任せろ。荷物みたいに担いででも連れて帰る」
「自分で歩いて帰ります!」
アリスが即座に反論すると、張りつめていた周囲から笑いが漏れた。
救援隊は必要な装備を整え、鉱夫の案内でエクスバルドを出発した。
鉱山村までは街道を進んだあと、山間の細い道を上らなければならない。
昼過ぎから歩き続けたアリスは遅れまいと足を動かしていたが、背嚢の重さが徐々に肩へ食い込み、呼吸にも疲れが混じり始めていた。
少し先を歩いていたグロウが歩調を緩め、アリスの隣へ並ぶ。
「グロウ、私に合わせなくても大丈夫ですよ」
「合わせてねぇ。腹が減って力が出ねぇだけだ」
「さっき一人で干し肉を三本も食べてましたよね?」
「あれは保存状態を確かめたんだ」
「三本全部を?」
「慎重な確認は大事だぞ」
「自分で食べるときだけ、そう言うんですね」
グロウは聞こえなかったふりをして前を向き、アリスは呆れながらも隣を歩いた。
やがて鉱山村へ到着した一行を待っていたのは、入口付近まで崩れた坑道と、負傷した鉱夫たちだった。
坑道内にはまだ三人の作業員が残され、魔獣が主要な通路を塞いでいるため、救助へ向かうこともできないという。
村人から魔獣の姿を聞いたユリエが、地面へ簡単な形を描きながら眉を寄せた。
「黒い体毛に、鎧みたいな皮膚。それに、額から二本の黒角が伸びていたのね?」
「ああ。角が光った途端、一緒にいた連中が動けなくなった。俺は物陰にいたから、どうにか逃げてこられたんだ」
「《カースホーン・ベヒモス》の特徴と一致する。でも、本来はもっと北の山岳地帯にいる魔獣よ」
ユリエの言葉を聞いたアレンは坑道へ目を向け、周囲の地形と入口の広さを確認した。
全長五メートルを超える巨体と、相手の動きを封じる二本の黒角を持つ危険種なら、狭い坑道で正面から戦うのは不利だった。
「まず作業員の位置を確認する。救助経路を確保できるなら、討伐より救出を優先するぞ」
「わかった」
「アリスは俺とグロウより前へ出るな。角が光ったら正面から視線を合わせず、すぐに側面へ退避しろ」
「はい」
五人は鉱夫から坑道の地図を借り、崩落を避けながら内部へ進んだ。
アレンとグロウが前衛、アリスが二人の後方、ティナとユリエがその後ろにつき、互いの姿を見失わない距離を保つ。
坑道の奥へ進むにつれて、壁や床には巨大な爪痕が増え、砕かれた鉱石運搬用の荷車が通路の端に倒れていた。
その先から重い呼吸音が響き、湿った空気に獣の臭いが混ざり始める。
「いる」
ユリエの声に、全員が足を止めた。
アレンが手で合図を送り、一行は岩陰から坑道の奥を覗く。
広く掘り抜かれた採掘区画の中央に、漆黒の体毛と硬質化した皮膚を持つ巨大な魔獣が立っていた。
額から伸びる二本の黒角には紫色の結晶が脈打ち、その奥では三人の鉱夫が岩壁際に身を寄せている。
「作業員は生きてる。だけど、あれを動かさないと近づけない」
「俺とグロウで正面を引きつける。ユリエは右目を狙い、ティナは作業員までの退路を確保してくれ。アリスは右側面へ回り、俺たちが開けた隙に近づけ」
「わかりました」
「おい、アリス」
前へ出ようとしたアリスをグロウが呼び止め、太い指で自分の背中を示した。
「危なくなったら、ここまで戻れ。俺より前で無茶すんなよ」
「グロウの背中、大きすぎて戻ったら何も見えません」
「こんなときまで言い返すのか?」
「先に言ってきたのはグロウです」
「元気そうで何よりだ」
グロウは口元を上げると、戦斧を両手で構えて岩陰から飛び出した。
ベヒモスが侵入者へ顔を向けた瞬間、アレンが左側から斬り込み、前脚の関節へ剣を叩きつける。
しかし刃は硬質化した皮膚の表面を削っただけで止まり、火花を散らしながら弾き返された。
怒りの咆哮を上げたベヒモスが突進すると、グロウは戦斧の柄を横にして受け止めた。
「ぐっ……重てぇな!」
石床を踏みしめた靴が後方へ滑り、二本の深い跡を残していく。
アレンが横から前脚を斬りつけ、ユリエの矢が右目を浅く裂くと、ベヒモスの頭がわずかに揺れた。
その隙にアリスは右側の岩壁に沿って走り、巨体の視界から外れる位置へ移動する。
「アリス、そこで待て!」
アレンの指示を受け、アリスは剣を構えたまま足を止めた。
次の瞬間、ベヒモスが頭を低く下げ、額にある二本の黒角へ濃紫の光を集め始める。
「角を見るな! 正面から離れろ!」
アレンの声と同時に、二本の黒角から扇状の波動が放たれた。
正面にいたアレンとグロウの身体が硬直し、ティナとユリエは左後方の岩陰へ退避する。
グロウの両腕から力が抜け、握っていた戦斧の刃が石床へ落ちた。
「くそっ……身体が……」
「動かない……!」
ベヒモスは動けなくなった二人へ鼻先を向け、黒角へ再び光を集めた。
アレンは剣を持ち上げようとしていたが、切っ先は石床を擦るだけで上がらない。
左後方ではユリエが岩陰から矢を番えていたものの、弓を構えた先にベヒモスの肩が重なり、低く構えられた黒角を隠していた。
「角が狙えない……!」
ユリエが岩陰の端へ動こうとすると、濃紫の光がその足元まで広がった。
ティナも身を乗り出しかけたが、呪縛波を避けて岩陰へ戻らざるを得ない。
アリスのいる右側面には光が届いておらず、岩壁沿いに走れば、頭部の近くまで回り込める。
だが、角が再び輝ききるまでに残された時間はわずかだった。
「アリス、来るな!」
アレンの制止が聞こえたが、アリスはすでに地面を蹴っていた。
右側の岩壁に沿って身を低くし、振られた尾の下を抜けると、頭部へ向かって一気に距離を詰める。
ベヒモスの首がこちらを向ききる前に、アリスは右肩の脇に突き出た岩へ足をかけた。
「二人には――触れさせない!」
踏み切った足へ魔力を集中させ、低く構えられた頭の上を右から左へ跳び越える。
額を横切る瞬間、アリスは両手で握った剣を振り下ろし、進行方向の先にある左の黒角へ刃を叩き込んだ。
青白い魔力をまとった刃が角の根元へ食い込み、甲高い破砕音とともに、内部の呪詛結晶が砕け散る。
紫色の破片が宙へ飛び、グロウの指が戦斧の柄を握り直した。
しかし持ち上がった刃はすぐに落ち、アレンの足も地面から離れない。
右側の黒角にはまだ光が残り、二人を縛る力を放ち続けていた。
「まだ一本……!」
アリスは魔獣の左側へ着地したが、勢いを殺しきれず、片膝が石床を擦った。
痛みに顔をしかめながら立ち上がると、左角を失ったベヒモスが咆哮を上げ、激しく頭を振り回している。
残る右角は剣の届かない高さへ移り、その先端から根元まで濃紫の光が満ち始めた。
アリスは左側の岩壁際へ目を走らせ、倒れている鉱石運搬用の荷車を見つけた。
片側の車輪が外れた荷車は斜めに傾き、岩壁へ向けて坂のような形を作っている。
踏み出されたベヒモスの左前脚を外側へかわすと、アリスは剣を握り直し、荷車へ向かって駆けた。
「させない!」
傾いた荷台を駆け上がり、その端を蹴って岩壁へ跳ぶ。
左の壁を蹴った反動で進行方向を変えると、アリスの身体はベヒモスの頭上を左から右へ横切った。
再び二人へ向けられた黒角と同じ高さに達した瞬間、青白い魔力をまとった剣を横一線に振り抜く。
刃が黒角の根元へ深く食い込み、耳をつんざく破砕音が坑道へ響いた。
二本目の角も呪詛結晶ごと砕け、濃紫の光が霧のように散っていく。
アレンが大きく息を吸って足を引き、グロウの戦斧が石床から持ち上がった。
だが、アリスはまだ空中にいた。
身体をひねって着地する場所を探したとき、怒りに任せて振り上げられたベヒモスの右前脚が迫る。
剣を引き戻しても、この重さを受け止められないことはわかっていた。
「アリス!」
グロウが前へ飛び出し、戦斧の柄を斜めに差し入れて、振り下ろされた前脚を外側へ押し流した。
足元へ叩きつけられた爪が石を砕く中、彼の左手が落下してきたアリスの外套の肩口をつかむ。
身体が持ち上がり、剣を抱え込む間もなく、グロウの背後へ引き戻された。
「空を飛ぶなら、着地まで考えろ!」
「跳んだんです!」
グロウは返事をせずにアリスを下ろし、迫ってきた頭部を避けて横へ踏み出した。
その間にアレンが魔獣の左へ回り、剣を振って注意を引きつける。
アリスも着地と同時に剣を構え直し、前へ出る二人の間隔を確かめた。
「グロウは正面を押さえろ! ユリエは目、ティナはグロウの身体強化を優先! アリスは俺と右前脚を狙う!」
「了解!」
呪縛波が消えた採掘区画へユリエが進み出て、傷ついた右目に射線を合わせた。
グロウが前脚の一撃を戦斧で受け流すと、その隙を縫った矢が右目へ突き刺さり、ベヒモスが苦痛に頭を振る。
ティナの支援を受けたグロウが戦斧を低く振り抜き、左前脚の関節へ刃を食い込ませた。
巨体が傾いたところへ、アレンとアリスが踏み込む。
「アリス、合わせろ!」
「はい!」
二人の剣が角度を変えて右前脚の傷口へ入り、硬質皮膚の内側にある腱を断ち切った。
支えを失ったベヒモスの巨体が前へ沈むと、グロウは戦斧を引き抜き、無防備になった首筋へ振り下ろす。
厚い皮膚が裂け、その傷へユリエの矢が続けて突き刺さった。
最後にアレンとアリスが左右から斬り込み、二本の刃が首元の深部へ達する。
ベヒモスは坑道全体を揺らす咆哮を上げたあと、地響きとともに石床へ倒れた。
誰もすぐには武器を下ろさず、巨大な魔獣が動かなくなったことを確かめてから、ようやく緊張を解く。
アレンが奥にいる鉱夫たちへ声をかけ、ティナとともに岩壁際へ向かった。
「倒した……」
アリスは荒い呼吸を整えながら、砕けた二本の黒角へ目を向けた。
その場へ座り込みそうになったところで、グロウの大きな手が背中を支える。
礼を言おうと顔を上げると、見下ろしていた彼の眉間から、ようやく皺が消えた。
「足、動くか?」
「はい。……さっきは、ありがとうございました」
「おう」
グロウが手を離すと、アリスは外套の肩口を引き直した。
しっかりつかまれていた部分に皺が寄り、留め具も横へずれている。
それを直しながら見上げると、グロウはすでに口元を緩めていた。
「でも、荷物みたいに持たないでください」
「担いででも連れて帰るって約束したからな」
「まだ帰ってません!」
「じゃあ、このまま担いで帰るか?」
「自分で歩けます!」
抗議するアリスの頭へ、グロウの大きな手が載せられた。
「よくやったな、《角折りアリス》」
「……何ですか、それ」
「黒角を二本とも叩き折ったんだ。わかりやすくていいだろ」
「絶対に嫌です!」
「なら、《黒角砕きのちびっこ》はどうだ?」
「もっと嫌です! そもそも、ちびっこを入れないでください!」
アリスが頭の上の手を払いのけると、アレンに付き添われて歩いてきた鉱夫たちから笑いが漏れた。
三人とも自分の足で歩けており、その姿を見たアリスは、剣を握る手からようやく力を抜いた。
ティナは鉱夫たちをアレンへ任せると、アリスの前へ膝をつき、擦りむいた膝へ顔を近づける。
「元気なのはわかりましたから、少し大人しくしてください。ほかに痛むところは?」
「ここだけです。少し擦りむいただけなので」
「少しでも、ちゃんと見せてくださいね」
アリスが外套の裾を持ち上げると、ティナは傷に入った砂を丁寧に洗い流した。
その横でユリエが黒角の破片を拾い上げ、砕けた結晶と切断面を見比べている。
やがて、荷車から岩壁へ、岩壁からベヒモスの頭部へと視線を動かし、アリスを振り返った。
「さっきのアリス、閃光みたいだった」
「……閃光?」
「一度目も二度目も、光が走ったあとには黒角が砕けてた。目で追うのがやっとだったわ」
ユリエの言葉に、鉱夫の一人が深く頷いた。
別の一人も、頭上を横切った青白い光について身振りを交えて話し始める。
注目が集まっていることに気づいたアリスは、膝の上へ目を落とし、外套の裾を握り直した。
「《閃光のアリス》か。それなら文句ねぇだろ?」
グロウに言われ、アリスは少しだけ顔を上げた。
「……それも、恥ずかしいです」
「《角折り》よりましだろ?」
「比べる相手が悪すぎます!」
救助を終えた一行がエクスバルドへ戻ったのは、翌日の昼前だった。
一泊を伴う初めての遠征となったが、アリスはアレンたちとともに無事ギルドへ帰り着いた。
外套は土と鉱石の粉で汚れ、膝にはティナが巻いた包帯が見えている。
それでもアリスは受付の前へ立つと、待っていたマリエへ向かって背筋を伸ばし、誇らしげに胸を張った。
「今日も無事でした!」
その後ろに立っていたグロウが、アリスの外套と膝の包帯を順番に見下ろす。
「黒角を二本折って、空中でベヒモスに叩かれそうになって、その姿で無事って言い張るのか?」
「自分の足で帰ってこられました。だから無事です」
「お前、無事の基準が俺より雑じゃねぇか?」
「グロウにだけは言われたくありません!」
「二人とも、受付の前で言い合わないでください。それからアリス、報告が終わったら、もう一度傷を見ますからね」
「少し擦りむいただけなのに……」
「返事は?」
「……はい」
ティナに見つめられたアリスは肩を落とし、グロウは隣で声を押し殺して笑っている。
腹を立てたアリスが肘でグロウの脇腹を突いたものの、分厚い防具に弾かれ、今度は自分の肘を押さえることになった。
「何やってんだ?」
「グロウの防具が硬すぎるんです!」
「俺に文句を言うところか、それ?」
そのやり取りを眺めていたマリエは、堪えきれずに笑い出した。
アリスも肘をさすりながら顔を上げると、マリエの目尻には涙が浮かんでいた。
笑いすぎたのだろうかと思ったが、彼女はそれを指で拭い、いつものようにカウンター越しに身を乗り出す。
「ふふ。本当に、今日も無事でよかったわ。お帰りなさい、アリスちゃん」
「はい。ただいま、マリエさん」
アリスが笑顔を返すと、ガルドが奥の扉から姿を現した。
アレンから報告を受け、全員の姿を順番に確かめてから、最後にアリスへ目を向ける。
「黒角へ向かって、一人で飛び出したそうだな。アレンに止められたのは聞こえていたか?」
「……はい。聞こえていました」
アリスは膝の包帯へ落としかけた視線を戻し、ガルドを見上げた。
受付へ戻った勢いのまま張っていた胸が、今はうまく伸ばせない。
それでも、聞こえなかったことにはできなかった。
「待てと言われたのに、動きました。あのままだと、二人が間に合わないと思って……」
ガルドが返事をする前に、アレンがアリスの隣へ進み出た。
「止めたのは俺です。俺とグロウは呪縛で動けず、後衛も岩陰から出られませんでした。アリスを巻き込みたくなくて制止しましたが、俺たちを救い出せる位置にいたのは、アリスだけだったんです」
アレンはガルドへ向けて、二人が止められた位置と、アリスが走った経路を説明した。
ユリエも射線が通らなかったことを伝え、ティナは次の呪縛波が来る直前だったと付け加える。
アリスは四人の話を聞きながら、黒角が光った瞬間のことを思い返していた。
「結果だけで言っているのではありません。あそこで待たせたままなら、俺たちは助かりませんでした。アリスの判断が必要だった状況まで、報告させてください」
ガルドは最後まで聞き終えると、アリスへ向き直った。
「事情はわかった。今回は緊急の救助として、その判断を認める。活動を止める処分はしない。ただし、助かったから命令に背いていい、という話ではないぞ」
「はい」
「それから、角を折ったあとはどうするつもりだった?」
アリスは答えようとして口を開いたが、言葉が出てこなかった。
一本目のあとには荷車を見つけ、二本目の角へ届く道を考えた。
けれど、その先で自分がどこへ降りるのかまでは、見ていなかった。
「……角を折るところまでしか、考えていませんでした」
「なら、次に覚えるのはそこだ。助けに入ったお前まで倒れたら、救助が必要な人間を一人増やすことになる」
俯きかけたアリスの頭へ、グロウの大きな手が載せられた。
顔を上げると、彼はいつものように見下ろしていたが、口元には笑みがなかった。
「俺たちを助けたことまで後悔すんな。だが、次も俺が受け止められるとは限らねぇぞ」
「……はい。次は、着地まで考えます」
「おう。それでいい」
アリスは頭に置かれた手を振り払わず、もう一度頷いた。
ガルドはその様子を見届けると、アレンたちへも目を向ける。
「全員で戻ったことは何よりだ。詳しい記録は改めて出してくれ。今日は休め」
「はい」
アリスたちが返事をすると、報告を近くで聞いていた冒険者の一人が、興味深そうに顔を寄せた。
「黒角を二本とも叩き折ったのか。この子が?」
「おう。《角折りアリス》のことだな」
「違います!」
グロウの言葉を聞いたアリスが振り返り、ギルド中へ響く声で否定する。
別の冒険者が笑いながら、先ほどユリエが話していた呼び名を口にした。
「《閃光のアリス》だろ?」
「それも恥ずかしいので、できれば普通にアリスと……」
「おい、《閃光》」
「その呼び方はやめてください!」
「なら、《角折り》」
「……《閃光》でお願いします」
悩んだ末にアリスが答えると、グロウは勝ち誇ったように笑った。
「最初から素直に認めりゃいいんだよ、《閃光》」
「グロウが変な名前を出すからでしょう!」
アリスが拳を握って追いかけると、グロウは巨体に似合わない素早さでテーブルの向こうへ逃げた。
二人がテーブルを挟んで回り始め、ティナが止めようと声を上げ、ユリエは諦めたように肩をすくめる。
その様子を眺めるアレンとマリエの笑い声も重なり、いつもの賑わいがギルドへ戻っていった。
この日を境に、青白い残光とともに二本の黒角を砕いた少女は、《閃光のアリス》と呼ばれるようになる。
そして、彼女とともに前線へ立ち、誰一人として倒れさせなかった仲間たちもまた、やがて《閃光の鉄壁隊》の名で知られていくことになった。
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