第二部 第一章 第1話
駐屯地の重厚な鉄製の門が、朝陽に照らされてゆっくりと軋む音を立てながら開いた。
金属がこすれ合う低い響きが、まだ冷えた空気に鈍く伝わる。
薄明るい光が門の隙間から差し込み、石畳の地面を金色に染めていく。
夜の名残を留めた露が光を受け、細やかな粒となって跳ねた。
演習に参加していた各部隊はすでにそれぞれの帰路へと散り、
広場には片付けを終えた野営具や、魔導車の排熱音がわずかに残るだけだった。
整備班の兵士たちが、油と焦げた魔力の匂いをまといながら器具を運んでいる。
遠くでは、兵舎の旗が風に翻り、鉄の鎖が小さく鳴った。
今この地に残されているのは、常備警戒部隊の兵士たちと、兵器の整備にあたる整備兵、そして――
金色に輝く髪を風に揺らす若い少女、アリス・グレイスラーと、
栗色の髪を柔らかく撫でる風に目を細める彼女の親友、レティア・エクスバルド。
二人の軍服はファーレンナイト王国 第二騎士団仕様の白を基調としたもので、淡い銀の肩章が朝陽を受けて静かに輝いている。
演習中の埃や焦げ跡はすでに落とされ、端正に整えられた姿からは、彼女たちが“戦いを終えた者”であると同時に、“生きて帰った者”であることが伝わってくる。
二人は同い年の若者として、今日から数日間の束の間の休息を心待ちにしていた。
アリスの手には、王立魔導学院の紋章が押された正式な許可状が握られている。
羊皮紙の端がわずかに折れており、それだけ彼女が何度も読み返したことを物語っていた。
その書面には、今回の演習で発生した異例の事態――
古代遺跡での魔獣《バロール・ビースト亜種》の襲撃の記録と、それに対処したアリスの功績が明記されている。
文末には、療養と身辺整理のための休暇許可。
そして魔導学院長と、ファーレンナイト王国 第一公女 ティアナ・レイス・ロアウの署名。
その筆跡を見た時、アリスは思わず胸の奥で息をついた。
今はただ、静かに歩き出せる時間が欲しかった。
そして、残された休暇を活かして――ミラージュ王国の王都 《アステリア》を訪れることが決まっていたのだ。
アリスは軽くなった上衣の裾を風に揺らし、涼やかな蒼の瞳で門外の広がる道を見据えた。
その視線の先には、朝靄の彼方に続く緩やかな丘と、まだ見ぬ新しい日々の始まりがあった。
背には小さな旅鞄。
肩のベルトには魔導通信具と簡易結界符が吊るされ、行軍用の鞄というより、どこか私的な“旅人”の装いに近かった。
激闘を乗り越えた者だけが許された束の間の自由を、その胸に抱いている。
「じゃあ、行きますか」
アリスが軽く息を吐き、少し緊張をほぐすように言った。
隣に立つレティアは、淡く微笑みながら頷く。
「ええ。せっかくの機会ですし、観光らしく歩きましょうか」
その声は落ち着いていながらも、どこか弾むようだった。
戦場では決して見せなかった柔らかな表情に、アリスは思わず口元をほころばせる。
二人はそっと足を踏み出し、重たい門を抜けて草原の道へと向かう。
門の外に出る瞬間、足元の砂利が小さく鳴った。
その音が“軍務”と“日常”の境界を示すようで、アリスはほんの少しだけ深呼吸をした。
誰にも見送られることなく、誰の視線も感じない静かな出発だった。
背後ではまだ駐屯地の旗がはためいていたが、風がそれを遠くへ押し流すように、二人の背をやさしく押した。
ミラージュ王国の王都アステリアまでは、三日の穏やかな旅路が待っている。
演習地周辺はすでに魔物の掃討が完了し、魔力感知の反応も静まり返っていた。
空は高く澄み渡り、淡い陽光が草花を照らす。
風は柔らかく頬を撫で、まるで世界全体が安堵の息を吐いたかのようだった。
「……不思議な感じだよね」
アリスは道ばたに咲く小さな黄色い花を見ながら呟いた。
「何が?」
レティアが首をかしげる。
「ついこの前まで、戦いの最中だったのに……今はこうして普通に旅をしてる。それが夢みたいで」
「現実は、ただ過酷だっただけよ」
レティアの口調は淡々としていたが、瞳の奥には柔らかい光が宿っていた。
「でも、あなたはようやく自分を取り戻しつつある。こういう時間も必要なの」
アリスは小さく頷き、微笑みを返した。
“自分が誰であるか”――その答えが明確になったのは、ほんの数日前。
今、彼女の内にはレティシア・ファーレンナイトとしての戦いの記憶と、長瀬はるなとしての理知的な知識が重なり合い、少しずつ馴染み始めている。
過去を背負いながら、彼女は「アリス」として歩みを進める。
草原の香り、小鳥のさえずり。
風に揺れる草の音が心のざわめきを静めていく。
アリスは空を見上げ、青の向こうに浮かぶ薄い雲の輪郭を追った。
レティアはその横顔を見つめ、安堵したように微笑んだ。
ふたりは並んで歩きながら、未来へと静かに思いを馳せた。
一日目の夕刻。
空の端が朱に染まり始めたころ、二人は小さな村へとたどり着いた。
石垣の合間から薄紫の煙が立ち上り、どこかで薪の匂いが漂っている。
遠くから鶏の鳴き声と犬の吠える音が混じり、静かな暮らしの息遣いが感じられた。
村の外れに建つ簡素な家から、灯りが漏れている。
戸口に立っていた年配の男性――村長が穏やかに声をかけた。
「お嬢さん方、よくお越しなさった。旅人をもてなす小さな家がある。今夜はわしの家に泊まっていくといい」
レティアは恐縮しながらも深く頭を下げ、アリスも柔らかく微笑んで答える。
「ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」
村長の家は暖炉が静かに燃え、木の床には長年の艶があり、温かな空気が満ちていた。
夕食には奥さん手作りの野菜スープと焼きたてのパンが並び、二人は旅の疲れを忘れるように箸を進めた。
「こうした時間があるからこそ、また強くなれるわね」
レティアの言葉に、アリスは小さく笑って頷いた。
窓の外には満天の星が輝き、夜風がカーテンをそっと揺らしている。
翌朝、村長夫妻に見送られながら家を出る。
「どうかお気をつけて。お二人の旅路が幸多からんことを」
「本当にありがとうございました」
奥さんが手渡した包みの中には、昼食用の手作りサンドイッチが入っていた。
香ばしいパンの匂いが朝の空気に混じり、アリスは思わず深呼吸をした。
二日目の昼下がり。
木陰に腰を下ろし、包みを開くと、焼き立てのパンの温もりがまだ残っていた。
「いただきます」
アリスが嬉しそうに頬張り、レティアも笑みを浮かべて口に運ぶ。
「村長の奥さん、いい腕してるね」
「うん。こういう温かさを忘れちゃいけないなって思う」
静かな風が頬を撫で、二人の笑い声が草原に溶けた。
二日目の夕方。
小さな城塞都市の灯が夕陽に染まり始める頃、ようやく城壁の門が見えてきた。
宿屋で部屋を確保し、荷を下ろした二人は繁華街へと繰り出す。
屋台の灯、香ばしい匂い、賑わう人々の声。
「ここの名物料理、ぜひ食べてみたいわね」
「うん、せっかくだもんね」
露店の料理を堪能したあと、二人は共同浴場へ足を運ぶ。
湯けむりに包まれながら、旅の疲れが溶けていく。
浴場の窓からは橙色の光が差し込み、湯面に映る光の粒が壁をゆらゆらと照らした。
その夜、二人は安らかな眠りについた。
3日目の朝。
「さあ、今日こそ王都アステリアまで頑張って歩きましょう」
「お昼には着けるように、しっかり歩こうね」
朝靄を抜け、再び旅路へ。
靴底が湿った土を踏むたび、草の露が弾け、光の粒が舞った。
三日目の昼下がり。
川沿いの道を歩いていた二人の視界が、ふと開けた。
「……見えてきた」
アリスの声が震える。
レティアも目を細めて遠くを見つめた。
白銀の輪郭をまとった巨大な都市――王都アステリア。
整然と並ぶ尖塔群、幾何学的な街路。
魔導工芸の粋を集めたこの都は、まるで魔術そのものが形を成したようだった。
「なんだか……呼吸するみたいに魔力が流れてる」
「都市全体が術式制御で組まれているのよ。動力源は魔力と再生エネルギーの共用。ファーレンナイトとは違う体系ね」
「ちょっと緊張するな……」
「観光に来たって言ったのは誰かしら?」
「うん、でも楽しみなんだ。街の空気も、人の声も、全部ちゃんと味わいたい」
「なら、まずは宿を確保してから美味しい料理を探しましょう」
戦いの記憶は遠く、いま二人を包むのは穏やかで優しい時間。
静かに息を吐き、アリスは再び足を踏み出した。
銀の都――アステリアは、もうすぐそこまで近づいていた。




