第一部 第五章 第7話
――翌日――
演習を終えたファーレンナイト王国第二騎士団と魔術師団混合の十五班の帰国式が、駐屯地中央広場で厳かに幕を開けた。
夜明けの名残をわずかに残した空は、淡い群青の底から徐々に光を滲ませている。
雲の端が黄金色に縁取られ、東の地平から差し込む陽光が、石畳に伸びる影を長く引き延ばした。
冷えた空気の中に、金属と油の匂い、乾いた砂塵と草の香りが微かに混ざり合う。
整然と並ぶ騎士団と魔術師団の列。鎧の継ぎ目が朝日を反射し、まるで大地そのものが光を纏っているようだった。
軍旗がはためくたび、硬質な金具がかすかに鳴り、列の端から端まで小さな波紋のように音が伝わっていく。
その背後には、巨大な魔導飛行艇が悠然と控えていた。
白金の装甲が朝陽を受けてまばゆく輝き、船体の曲線には数十本の導力紋が美しく走る。
魔力推進翼が低く唸り、青白い光の粒を散らしながら、静かに浮遊姿勢を維持していた。
その姿はまるで、天へ還るために地上へ降り立った神鳥のようで、見る者すべてに畏敬を抱かせる。
壇上に立つのは、ミラージュ王国第一魔導騎士団団長――エルネスト・ルヴェリエ。
濃紺の式典外套の肩には金糸の房飾りが下がり、朝の光を柔らかく返す。
その瞳は鋭く、それでいて澄んでいた。
彼の立ち姿には、歴戦の戦士としての威厳と、守護者としての静かな慈悲が同居している。
壇の下手側、整列する副官列から一人の青年が一歩前へ進み出る。
銀灰の短髪を持ち、背筋の伸びたその姿――第一魔導騎士団副長、ディラン・ハースト少尉。
彼は一瞬だけ団長へ視線を送り、次いで胸へ手を当てて高らかに声を張り上げた。
「団長より訓示がある! 一同――敬礼!」
その号令が広場に響いた瞬間、数百の靴音と鎧の金属音が一斉に重なった。
整然と並ぶ騎士団・魔術師団・王国代表の全員が、息を合わせるように右手を胸へ当て、同時に敬礼の姿勢を取る。
鎧の継ぎ目が鳴り、風が旗を叩き、朝の空気が一瞬張り詰める。
誰一人として動かず、ただ壇上の団長へ視線を向けた。
エルネストはゆっくりと頷き、その静寂を受け止めるように両手を背に組む。
そして、深く息を吸い込み――
一歩前へ進み出て、澄み渡る声を響かせた。
「――ファーレンナイト王国の勇者たちよ」
その声は低くも力強く、広場全体を貫いた。
朝靄が震え、音が空へと昇っていく。
「今回の演習において、諸君らは想定を超える脅威――
古代遺跡《第十二封域》にて発生した《バロール・ビースト亜種》四体の強襲に遭遇した。
その戦闘により、十五班は死者七名、重軽傷者二十八名を出したと報告を受けている」
その言葉が広場に響いた瞬間、空気が凍りついたように静まり返った。
誰もが息を呑み、風の音すら遠のく。
朝の光が旗布の縁を掠め、微かに閃く。
遠く、魔導飛行艇の推進翼がかすかに唸りを上げ、地を低く震わせていた。
広場の列に、微かなざわめきが走る。
無言のまま拳を固く握る者、瞼を閉じて祈るように頭を垂れる者。
鎧の継ぎ目が小さく鳴り、列の端で一人の少女が唇を噛み締める。
冷たい風がその間を抜け、空気を裂くように吹き抜けた。
アリスたち十五班の背筋は自然と伸び、その表情に一瞬、陰が落ちる。
彼らは誰よりも、あの遺跡の地獄を知っていた。
崩落する回廊、叫び声、閃光。仲間の名を叫ぶ声が、耳の奥で今も消えない。
壇上のエルネストは、しばし沈黙したままその視線を全列に走らせた。
深く、静かに一人ひとりの顔を見つめる。
その瞳には、ただの報告を超えた確かな痛みと誇りが宿っていた。
やがて、彼は胸に手を当て、重々しく続けた。
「――だが、彼らの犠牲は無駄ではない」
低く、それでいて力強い声。
言葉が地を這うように広がり、広場の空気を再び温めていく。
「彼らが命を賭して守り抜いたのは、数字でも報告書でもない。
この地に立つ“希望”そのものだ。
諸君らの勇気と献身は、この大陸における平穏の礎である。
崩れかけた封域を退け、次なる災厄の芽を摘んだ功績は、決して一国の枠に収まるものではない。
我らミラージュ王国、そしてファーレンナイト王国――両国の未来を繋ぐ光に他ならぬ」
その言葉に、兵たちの胸がゆっくりと上下した。
寒風が通り抜け、旗が高らかに鳴る。
淡い朝陽が壇上を照らし、金糸の房飾りがきらめいた。
「命を賭して道を開いた仲間たちの想いは、我らの胸に刻まれ、決して失われることはない。
――我らはその意志を継ぎ、次の世代へ繋がねばならぬ」
エルネストの声は、もはや厳命というより、祈りのように響いていた。
その背後で副長ディラン・ハースト少尉が一歩進み出て、静かに敬礼する。
列の最前列で、アリスもまた右拳を胸へ当て、深く頭を垂れた。
風が一瞬、頬を撫でていく。
「我らはここに誓おう。命を繋いだ者として、諸君らの栄誉を胸に刻み、
我が国と王国の絆をより一層深め、次代を築き上げることを」
その声は、朝空に高く響き渡った。
それは祝詞であり、弔鐘でもあり、未来を呼ぶ宣誓だった。
そして彼は、わずかに間を置いて、声を少し落とした。
朝靄の中にその響きが沈む。
「――栄光と無事を胸に。我が友よ、帰還せよ」
瞬間、広場に一斉の拳打の音が轟いた。
幾百もの拳が胸甲を叩き、硬質な音が地を伝い、空へ昇る。
それはまるで、亡き仲間たちへの鎮魂の鼓動のようだった。
誰もが言葉を失い、ただ、誇りと悲しみを抱いたまま敬礼を解かずにいた。
風が吹き抜け、陽光が雲間から差し込む。
金色の光が列の一人ひとりの肩を照らし、影が長く伸びた。
彼らの心の中で、あの封域に散った仲間の名が静かに呼ばれていた。
壇上で、エルネスト団長はゆっくりと頷き、右手を胸から下ろした。
その仕草を合図に、壇下へと立つ副長――ディラン・ハースト少尉が一歩前へ進む。
風を切るような鋭い声が、広場全体に響き渡った。
「全員――敬礼を解け!」
一瞬の静寂。
次いで、鎧の継ぎ目が一斉に鳴り、整列していた者たちの腕が規律正しく下ろされる。
硬質な音の余韻が石畳に反射し、やがて静寂が戻った。
「解散――各班、帰還準備に移れ!」
ディランの号令に呼応して、全列が静かに動き出す。
誰もが姿勢を崩さぬまま、規律を保ち、整然と列を解いていった。
魔導飛行艇の機関音が低く鳴り、広場の空気にかすかな振動が走る。
十五班の列の先頭に立っていたのは、臨時班長を務めるカイル・ネヴィン少尉だった。
端正な面差しの青年が、片手に書類筒を持ったまま周囲を見渡す。
彼の灰色の瞳には、緊張と誇り、そして仲間を導く責務が静かに宿っていた。
「――十五班、聞け!」
カイルの声が鋭く響く。
「これより順次、搭乗を開始する。列を乱すな。持ち物の確認を徹底し、装備は点検済みであることを最終確認せよ!」
短いが明快な指示。
返答の声が一斉に上がり、十五班の隊列が動き出した。
演説の余韻がまだ胸の奥に残る中、アリスたちはゆっくりと前へ進む。
背嚢の留め具が外れる音、革靴が石を擦る音が重なり、広場には静かな行進の響きが満ちていく。
それぞれが互いに短く頷き合い、言葉少なに笑みを交わした。
昇降階段の先では、白金の船体に刻まれた紋章が朝の光に輝いていた。
その意匠は、蒼翼と剣を重ねたもの。
まるで“未来への誓い”を象徴するように、淡く光を放っている。
列の最後尾で、カイルが振り返りながら短く号令を放つ。
「――十五班、搭乗開始!」
その声に呼応するように、昇降口の魔導灯が点り、青白い導光が足元を照らした。
空気がわずかに震え、彼らの影が光に溶けていく。
この瞬間から、それぞれの“帰還”が始まったのだった。
駐屯地の兵たちは、列の脇で静かに敬礼を続けていた。
誰一人として声を上げず、ただ見送る。
その視線のひとつひとつに、深い敬意と祈りがこもっているのが分かった。
アリス、リナ、レティア、エルド、マーヤ、フィル――
仲間たちは互いに視線を交わし、言葉少なに微笑み合った。
戦い抜いた絆は、もう言葉にしなくても伝わる。
エルドはふと、隣のアリスを見やってぼそりと呟いた。
「……学生はいいよな」
その声には、少しの羨望と、これから戦場に戻る者の覚悟が滲んでいた。
マーヤは苦笑し、肩をすくめる。
「そんなこと言って……あんたが一番楽しんでたじゃない」
搭乗口の前で、アリスとレティア、そしてリナ小隊の面々が輪を作る。
淡い朝の光が頬を照らし、髪を柔らかく揺らした。
「……なんか、もう帰っちゃうんだな」
レティアがぽつりと呟く。栗色の髪が風に揺れ、その表情にはどこか寂しさが滲んでいた。
「本当に……寂しくなるね」
マーヤが目を伏せ、静かに微笑む。
フィルが少し照れくさそうに肩をすくめて言った。
「王都に戻ったら、みんなで飲みにでも行こうぜ」
「お酒はまだ早いでしょう、フィル」
リナが笑いながらも、アリスに向き直る。
「アリスさん……また鍛錬付き合ってくださいね」
「うん。……みんなこそ、怪我には気をつけて」
「次に会うときは、演習じゃなくて本番かもしれないな」
エルドが淡く笑い、しかしその瞳は真っすぐだった。
列が進む。
別れの言葉は短く、しかし確かな想いを込めて交わされていく。
「じゃあ、また!」
マーヤが笑顔で手を振り、エルドとフィルもそれに応じて頷く。
その目元には、ほんのわずかに光るものがあった。
最後にリナがアリスの肩に手を置いた。
その手はあたたかく、けれども少し震えている。
「必ず、また王都で」
穏やかな声の奥に、彼女の責任と誇りが滲んでいた。
アリスはゆっくりと頷き、
「うん……必ず」
その言葉に、リナの唇がわずかにほころぶ。
「私たち、あなたの帰りを待ってる。
それに……これからも負けないように頑張るからね」
リナの瞳は真っ直ぐで、そこに宿る光はどこまでも強く澄んでいた。
アリスもまた、柔らかく笑みを返す。
「……うん。みんなの歩む場所を、私も見失わないようにする」
ふたりの間に、短い沈黙が落ちた。
けれど、その沈黙は寂しさではなく、互いの信頼を確かめ合うためのものだった。
やがて、搭乗の列が再び動き出す。
リナが小さく息を吸い、振り返って班員たちに合図を送る。
「十五班、搭乗開始――!」
号令とともに、マーヤ、エルド、フィルらが背嚢を担ぎ直し、
白金の昇降階段を一段ずつ上っていく。
足音が規則正しく響く。
光を受けた軍服の肩章が淡く輝き、朝の光が金糸を反射していた。
リナは最後尾で一度だけ振り返り、アリスとレティアへ小さく手を振った。
その微笑みは言葉よりも穏やかで、どこか名残惜しい。
そして彼女の姿が艦内に消え、昇降口の影が閉まりかける。
外では風が止み、広場の空気が一瞬だけ静まった。
残されたアリスとレティアは、無言のまま艦を見上げる。
白金の船体に描かれた紋章が朝陽を受けて淡く煌めき、
それがまるで、彼らとの絆の証のように光を返していた。
――そして数十秒後。
「搭乗完了。ハッチ閉鎖――」
鋼のラッチが重く噛み合う音が響き、空気の密度が一瞬変わる。
機体の下部で魔力循環陣が光を帯び、淡い蒼の光輪が地表を走る。
そして、音もなく浮かび上がった巨体が、ゆっくりと上昇を始めた。
風が地を払い、外套がはためく。
白金の船体は蒼穹の中をまっすぐに登り、やがて陽光の向こうへと溶けていった。
見上げるアリスとレティアの頬を、柔らかな風が撫でる。
雲の向こうへと消えていくまで、ふたりは肩を並べたまま立ち尽くしていた。
背後から、落ち着いた声が届く。
「――良い見送りだったな、アリス・グレイスラー殿」
振り向けば、そこに立っていたのはエルネスト団長。
式典外套を羽織り、朝光に背を向けながらも、その瞳は青空の果てを見つめていた。
「エルネスト団長……」
アリスは静かに頭を下げる。
「君の力なくしては、多くの者が帰還できなかった。よくやったよ、アリス。
――あの古代遺跡で、あの地獄のような強襲を生き延びたこと。それ自体が、すでに奇跡に等しい」
「……ありがとうございます」
彼の言葉は穏やかだったが、その奥には確かな重みがあった。
「だが、これからが本当の勝負だ。無理をしてはいけない。この国も、ファーレンナイト王国も、お前の力を頼りにしている。忘れずにいろ」
アリスは小さく頷き、レティアと視線を交わす。
「はい。……必ず」
団長は満足げに頷くと、背を向けて静かに歩き去っていった。
広場には春の風が吹き抜け、白い花弁が一枚、二枚と舞う。
空はどこまでも澄み、陽光はやわらかく降り注ぐ。
アリスとレティアは再び空を見上げた。
飛行艇の軌跡はすでに消えていたが、胸の中には確かな地図が描かれていた。
やわらかな風が金の髪を揺らし、ふたりの間に決意の静けさを運んでくる。
アリスは胸の内で小さく呟く。
――レティシア、はるな。これからもずっと、私を見守ってくれる?
誰にも聞こえないその問いに、心の奥で静かな返事が返ってくる。
彼女は微笑み、そっとレティアの手を取った。
「……さあ、行こう。ミラージュ王国 王都 《アステリア》へ」
「うん」
その瞬間、足元で咲く小さな野の花が春の風に揺れた。
光の粒が舞い、草葉の露が煌めく。
遠くでは魔導飛行艇の残響が空を渡り、空気の彼方に消えていく。
ミラージュも――ファーレンナイトも――
そして、彼女が歩む新たな未来も。
今はまだ誰も知らない。
これが後に語り継がれる、新たな英雄譚の、ほんの序章にすぎないことを。




