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第一部 第五章 第6話

 それから数日後――


 アリスは病室の寝台で、順調に回復を続けていた。

 背もたれにゆったりと身を預け、窓から差し込む春の陽射しが頬をやわらかく照らしている。


 外では鳥の声が遠くに聞こえ、風がカーテンを静かに揺らしていた。

 戦いの痕跡はまだ身体の奥に残っているものの、痛みはもうほとんどなかった。


 ただ、胸の奥にかすかな余韻がまだ燻っている。

 あの日の光、あの声、そして――失われた仲間たちの記憶。


 そんな穏やかな時間を破るように、控えめなノックが響いた。

「入ってもいい?」

 扉の向こうから、聞き慣れたやわらかな声。

 もちろん、レティアだった。


「うん、どうぞ」

 アリスが微笑みながら返すと、扉がゆっくりと開いた。

 そこに立つレティアは、いつものように端正で凛としていた。


 肩までの栗色の髪を後ろでまとめ、第二騎士団の白い軍服を整えている。

 真新しい襟章と蒼の縁取りが、春の陽光を受けて淡く光った。

 胸には臨時所属を示す銀の識章が輝き、整った所作のひとつひとつに貴族らしい気品が漂う。


 手には、一通の封筒を大切そうに抱えていた。


「アリス、学院から正式な通知が届いたわ」

 そう言いながら、レティアはベッド脇まで歩み寄り、封筒をそっと差し出す。

 アリスは受け取り、封を切って中を確認した。

 そこには、王立魔導学院発行の『特別休学許可証』が収められている。


 今回の演習で起きた緊急事態の重大さと、アリスの功績を考慮した正式な通達だった。

「これで……しばらく学院のことは気にしなくていいんだね」

 アリスは安堵の笑みを浮かべ、胸の奥に張りつめていた緊張が少しだけほどける。


 レティアは穏やかに頷き、軽く肩に触れた。

「そう。学院長からの直々の許可だから、誰も文句は言えないわ

  今はちゃんと休むのが、あなたの仕事よ」


 その時、扉の奥から白衣の医師が姿を見せた。

「失礼します、経過を拝見しますね」

 柔らかい口調で言いながら診察器具を取り出す。


 脈と体温を確認し、満足げに微笑んだ。

「回復は順調です、アリスさん。

  二、三日もすれば退院できますよ。ですが、まだ完全に魔力は安定していません。

  焦らず、もう少し静養を続けましょう」 


「はい……ありがとうございます」

 アリスは礼をし、ほっと息をついた。


 医師が退出すると、再び二人だけの静けさが戻る。


 レティアが小さく息を整え、真剣な声で続けた。

「十五班のみんなは、三日後に王都ファーレンへ戻ることになったの。学院生の私たちは当初の予定どおり別行動が許可されているから、アリス、あなたはどうするか決めていいそうよ」

 アリスは一瞬だけ考え、少し遠い目をした。

「……そう。じゃあ、もう少しだけミラージュにいたいかな」

「わかるわ」

 レティアは微笑みながら頷く。

「でも、無理だけはしないで。みんな、あなたを心配してるのよ」


 その時、病室の外から明るい声が響いた。

「せっかくだから、ミラージュ王都を少し観光してみたらどう? 滅多に来られる場所じゃないし!」

 扉の隙間から顔を覗かせたのは、リナだった。


 軽い笑みとともに手を振るその姿に、室内の空気がふっと和らぐ。


「……リナさん、聞いてたんですね」

 アリスが苦笑すると、リナは悪戯っぽく笑って肩をすくめた。


「聞こえちゃったのよ。ほら、こんな時こそ休養ってやつ?

  任務も報告も団長に預けたんだから、少しくらい息抜きしてもいいでしょ?」


 レティアも微笑んで頷く。

「それもいいかもしれないわね。

  久しぶりに二人で街を歩くのも、悪くないと思う」

 アリスは小さく笑みを返し、窓の外に視線を向けた。


 春の陽射しが医療棟の庭を照らし、遠くでは花のつぼみがゆっくりと開いていく。

「……そうだね

  久しぶりに外の空気を吸いたいな」

 その言葉に、レティアとリナはほっとしたように微笑んだ。


 戦場の記憶と痛みの中に、確かに“日常”が戻り始めていた。

 病室の窓から差し込む光が三人を包み、その暖かさが、まるで新しい季節の始まりを告げているかのようだった。


 


 ――二日後――

 医師による最終検診を終えたアリスは、ついに退院の許可を受けた。

 朝の光が差し込む廊下を、ゆったりとした足取りで進む。

 白い壁と光沢のある床面が、まるで新しい一日を迎える儀式のように静かに輝いていた。


 入院当初のような弱々しさは、もうどこにもない。

 その歩みには穏やかな自信が宿り、瞳の奥には確かな決意が灯っていた。

 制服の裾をなびかせながら、まっすぐに出口へ向かうその姿は、まるでひとつの戦いを終えた者のようだった。


「アリス!」

 角を曲がった先、白い廊下の向こうで、数人の影が一斉に動いた。

 リナ小隊の仲間たちだ。


 色とりどりの花束を抱え、駆け足で彼女のもとへ向かってくる。

「アリス、退院おめでとう!」

 マーヤが真っ先に声を上げ、満面の笑みで花束を差し出した。


 柔らかな花弁の香りがふわりと広がり、空気が明るく弾ける。

「お前が寝てる間、みんなどれだけ心配してたか分かってるか!」

 エルドが照れくさそうに言いながら、少し乱暴に肩を叩いた。

 その手には力強さと、隠しきれない優しさがこもっている。


「ちょ、ちょっとエルド……まだ完全に治ってないんだから!」

 マーヤが慌てて注意するが、アリスは笑って首を横に振った。


「大丈夫。ほんとに、もう平気だから」

 エルドは咳払いして視線を逸らし、頬をかすかに赤らめた。

「……そ、そうか。ならいいんだ」


 そんな彼を見て、フィルが肩をすくめながら笑う。

「まったく……素直じゃないんだからな」

 そう言って、フィルは親指を立てた。

「無理はしないでね、アリス」

 その言葉に、アリスは柔らかく微笑んだ。

「ありがとう、フィル」


 リナは少し離れたところで静かに見守っていた。

 白い軍服の袖を整え、柔らかな笑みを浮かべながら歩み寄る。

「やっと、元気な顔を見られたわね」

 その声は優しく、それでいて副官らしい落ち着きがあった。

「本当に……よく頑張ったわ、アリスさん」


「ありがとうございます、リナさん」

 アリスが小さく頭を下げると、リナは微笑んで肩に手を置いた。

「無理は禁物。それに――もう少しゆっくり、自分の時間を取りなさい」


 その隣では、レティアが静かに立っていた。

 第二騎士団の白い軍服に身を包み、胸の前で手を組みながら、じっとアリスを見つめている。


 その瞳は優しく揺れて、どこか潤んでいた。

「……やっと、ここまで来たのね」

「レティア……」

「あなたが目を覚ましてからずっと思ってたの

  もう一度、笑って話せる日が来るなんて……本当に、嬉しい」

 アリスはそっと微笑み、レティアの手を取った。


「心配かけてごめんね。でも、もう大丈夫」

「ええ、分かってる。……でもね、次は私があなたのそばに立つ番よ」

 レティアは小さく息をつき、泣き笑いのような微笑を浮かべた。

 その頬を、朝の光がやさしく照らしている。


 仲間たちの笑い声が廊下に広がる。

 花束の香り、陽光のきらめき、そして穏やかな空気――

 それらが、まるで新しい始まりを祝福するように重なっていた。

 アリスは振り返り、静かにその場を見渡す。


 皆の笑顔がそこにあった。

 自分の帰る場所が、確かにここにある――そう実感できる瞬間だった。

「ありがとう、みんな」

 アリスの声は穏やかで、それでいて力強かった。

 その言葉に、リナもレティアも、そして仲間たちも頷いた。


 春の風が廊下を抜け、白いカーテンをふわりと揺らした。

 その柔らかな光の中で、アリスは小さく息を吸い込み、

 再び歩き出した。 


 ――その夜――

 駐屯地の一角にある食堂が、今夜だけは小さな祝宴の会場となっていた。


 白い壁に飾られた花の飾りと、吊るされた灯具の柔らかな光が、穏やかな色を帯びてゆらめいている。


 厨房からは温かな湯気と香ばしい匂いが流れ、長い木製の卓には、手の届く範囲で用意された料理と酒がずらりと並べられていた。

 豪華ではない。だが、どれも心がこもっている。

 焼きたての肉料理、香草のスープ、焼きたてのパン。

 器の並びさえも整然としていて、まるで皆が一つの想いで用意したようだった。


「乾杯ーっ!」

「アリスの退院と、みんなが無事でここにいることに!」

 その瞬間、数十の杯が一斉に鳴り合う。


 軽やかな音が重なり、食堂全体が明るく弾けた。

「いやー、一時はどうなるかと思ったよな」

「泣いてただろ、お前」

「泣いてないし! ちょっと目に汗が入っただけ!」

「それを泣いたって言うんだよ」

「言わないのっ!」

 二人のやり取りに周囲から笑いが起こり、場の空気が一気に和らぐ。


「俺も泣いたけどな」

「……そういうのは、さりげなく言うもんじゃないの」

 リナが肩を震わせながら笑い、隣のアリスにワインを注いだ。

「アリスさん、本当に無事で良かった」


「……ごめんね、みんな。でも、ありがとう」

 アリスは杯を両手で受け取り、柔らかな笑顔を返した。

 その微笑に、リナも静かに頷く。


 杯が進むにつれ、食堂の空気は穏やかで、どこか懐かしいものへと変わっていった。

 皆の声が交わり、笑いが混じり、どの顔にも安堵の色が浮かんでいる。


 戦場を越えて生き延びた者たちの“今”だけが、そこにあった。

「そうそう、二人にお知らせがあります」

 やがてリナがグラスを軽く掲げ、少し真面目な表情で口を開いた。


 その声に、賑やかだった空気が静まり、皆が一斉に彼女を見た。

「演習の戦後処理が遅れていたけれど、ようやく片付いてね

  私たちは明日、正式に帰国することになったの」


「そうだったな……」

 エルドがぽつりと呟く。

 その言葉には、どこか寂しさが混じっていた。


「明日、駐屯地を離れて王国へ戻るわ

  もうすぐ、また日常が始まるって感じだね」

 マーヤがグラスを弄びながら微笑み、少しだけ目を伏せる。


「でも、アリスさんとレティアさんは、当初の予定どおりミラージュ王国の王都へ行くんですよね?」

 フィルが確認するように問いかけた。


 アリスは静かに頷き、レティアと目を合わせた。

「ええ、せっかくだから少し王都を見て回ろうと思っています

  まだ休養期間もありますしね」

 レティアが柔らかに答えると、栗色の髪がランプの光を受けて、淡く光を返した。


 その穏やかな微笑が、卓の灯をいっそう温かく見せていた。

「そうか……じゃあ気をつけてな」

「少し気持ちをリフレッシュしてから戻るのも、きっと良いわ」

「はい、行ってきます」

 アリスが穏やかに応じ、レティアが隣で静かに微笑んだ。


「ファーレンに戻ったら、またみんなで集まりましょうね」

「もちろん!」

 皆が声をそろえ、杯を掲げた。


 その音が再び響き合い、食堂の灯りがわずかに揺れた。

 笑い声が絶えず、誰かが冗談を言えば、すぐに別の誰かが笑いで返す。


 だがその賑やかさの中で――レティアだけは、アリスの隣から離れなかった。

 時折グラスを口に運びながら、静かにアリスの横顔を見守っている。

 杯を交わすたび、視線が重なり、言葉よりも深い絆がそこにあった。

 アリスがふと微笑むと、レティアも同じように微笑み返す。

 それだけで十分だった。


 やがて夜が更け、灯りの揺らぎが少しずつ静けさを帯びていく。

 仲間たちの笑い声がやわらかに溶けていく中、

 レティアはそっとアリスの肩を抱き寄せ、耳元で小さく囁いた。

「もう、大丈夫ね」

「ええ」

 アリスはその手に自分の手を重ね、短く頷いた。


 ――戦いは終わり、静かな夜が訪れる。

 その温もりの中で、二人の間だけに流れる安らぎがあった。

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