第一部 第五章 第5話
――遺跡調査戦後:エルネスト・ルヴェリエ団長執務室
そのころ――。
駐屯地の指令棟に隣接する重厚な執務室。
曇天の外光が分厚い窓硝子を透かして差し込み、深い色合いの木製デスクを淡く照らしていた。
積み上げられた報告書の束が影を落とし、インクと古紙の匂いが空気を満たしている。
外では兵士たちの足音と、時折響く通信音だけが微かに聞こえた。
「……ふう……」
エルネスト・ルヴェリエ団長は、革張りの椅子に深く腰を下ろし、疲れの滲む息を長く吐いた。
袖で額の汗をぬぐい、机上に散らばる羊皮紙の束へ視線を落とす。
どの報告書にも、今日という一日の緊迫が刻まれていた。
――遺跡演習中、突如発生した未知の魔力反応。
――四体の《バロール・ビースト亜種》出現。
――そして、少女アリス・グレイスラーによる単独での全撃破。
「……信じがたい……が、記録は偽りようがないか」
団長は低く呟き、ひとつの報告書を開いた。
現場の記録士たちが測定した魔力干渉波のデータには、異常な数値が並んでいた。
戦闘区域全体の魔力密度は瞬間的に限界値を超え、四体の魔獣から放たれた膨大な魔力が一瞬で“制圧”されたと記されている。
残留波形は一種類のみ――アリス・グレイスラーのもの。
まるで、他のすべての存在を押し流すように、ひとつの魔力が周囲を覆い尽くしたかのような記録だった。
エルネストは眉をひそめ、思い出す。
――あの夜、現場へ駆けつけたときの光景を。
遺跡の構造はほぼ無傷だった。
だが、戦闘が行われた外縁部の石床は黒く焦げ、魔力衝撃によるひび割れがあちこちに走っていた。
空気には金属と焦土の匂いが残り、なお微かな熱が肌を刺していた。
瓦礫の中には、異形の残骸が転がっていた。
四体の《バロール・ビースト亜種》――
装甲のような外殻は溶け、骨格の一部は高温で融解し、魔核はすべて粉砕されていた。
巨体の輪郭すら判別できず、ただ黒焦げの塊が不規則に散らばっているだけだった。
その中心で、リナ小隊の仲間たちがひとりの少女を支えていた。
アリス・グレイスラー。
軍服の裾は焦げ、裂けた布の隙間から覗く肌には血と煤が付着している。
だが、深い傷はどこにもなかった。
ただ、頬に乾きかけた血の跡が一筋。
息は浅く、脈も弱かったが――それでも確かに、生きていた。
彼女の周囲には光も炎もなかった。
ただ、戦闘が終わったあとの静寂と、焼け焦げた空気の匂いだけが残っていた。
「……四体、すべてを……一人で、か」
団長は、報告書に記されたその一文を目でなぞり、言葉を失った。
部下たちの証言も一致している。
援護は不可能だった。
アリスが白銀に包まれた瞬間、周囲の魔力場が歪み、誰も一歩も踏み込めなかった――と。
「……白銀の戦乙女、か……」
団長は静かに呟いた。
それは現場の者たちが畏敬を込めて呼んだ名。
奇跡を目にした者たちの、沈黙の証言でもあった。
あの少女が見せた力。
人の限界を超え、魔の理さえ凌駕する力。
それは脅威であると同時に、希望でもあった。
エルネストは無意識に手を握り締める。
「……あの力を、彼女一人に背負わせてはならん……」
低く洩れた声が、自らへの誓いのように響く。
彼は再びペンを取り、報告書の最終欄に署名を記した。
机の端には、封蝋で閉じられた追加報告書の束――
“極秘・上申用”の印章が押されている。
それを王都に送るべきか、まだ決めかねていた。
あの力の存在が公になれば、彼女の運命は間違いなく変わる。
それを分かっていながら、沈黙を選ぶこともまた罪だ。
窓の外では、曇り空の切れ間からわずかに夕陽が差し込み、赤銅色の光が書類の山を照らした。
その光が、彼の決意を静かに揺らす。
「……せめて、守れる間は守らねばならん……」
かすれた声が室内に落ちた。
それは命令でも報告でもなく、ひとりの指揮官としての祈りだった。
魔導ランプが淡く灯り、青白い光が壁の影を伸ばしていく。
机上のインク壺が微かに揺れ、風の音が硝子窓を震わせた。
――沈みゆく陽の中、ひとりの男は少女の未来と国の均衡の間で、静かにその封蝋へと手を伸ばした。
静寂を破るように、控えめなノックが響いた。
音は二度、間を置いてもう一度。
エルネスト・ルヴェリエは視線を報告書から離し、深い息を吐いた。
「入れ」
低く落ち着いた声に応じて、重厚な扉が静かに開く。
入ってきたのは、団長付き副官――ディラン・ハースト少尉。
若くも鋭い目をした青年で、軍服の襟元まできっちりと留め、姿勢は寸分の乱れもない。
だが、その瞳の奥には緊張が潜んでいた。
「団長、失礼します」
エルネストは軽く顎を上げて応じる。
「……ディランか。何か用か?」
副官は一歩前に進み、封蝋の施された厚手の封筒を両手で差し出した。
「先ほど、王都より伝令が届きました。今回の報告書の正式写しを、至急中央議会へ送付するようにとの指示です」
封筒の表には、王都通信局の朱印が押されている。
表面に触れると、わずかに熱が残っていた。転移通信から届いたばかりなのだろう。
「……中央は動きが速いな」
「はい……」
ディランは一拍置いて、わずかに声を落とした。
「ですが、団長――よろしいのですか? アリス・グレイスラー殿の件を詳細に報告すれば、彼女は正式に“軍の管理下”に置かれる可能性が高いでしょう」
室内の空気がわずかに重くなる。
ランプの灯りが二人の顔を照らし、机上の影がゆらりと伸びた。
エルネストはペンを指先で転がしながら、ゆっくりと視線を伏せる。
深い皺が刻まれた額を、思案の影が横切った。
「……承知している。だが、隠せるものでもない」
その声は静かだったが、どこか苦味を含んでいた。
長い沈黙のあと、彼は小さく息を吐き、言葉を継いだ。
「せめて……この手で護れる間は、護り抜く。彼女はまだ、ただの少女だ。外交問題に発展することも避けねばならん」
その言葉に、ディランの眉がかすかに動いた。
若い副官にはまだ、上層部の思惑や国境を越える政治の重さが、実感として掴めていない。
それでも、団長の声音に宿る真摯な意志だけは、胸に響いていた。
エルネストは椅子から静かに立ち上がった。
その動作一つにも、年輪を刻んだ軍人らしい確かな重みがある。
机を回り込み、ディランの前に立つと、その肩に穏やかに手を置いた。
「ディラン。写しの手配を急げ。だが――重要な点以外は、こちらの判断で伏せておけ」
低い声だったが、命令というより信頼の言葉だった。
「……かしこまりました!」
ディランは姿勢を正し、深く一礼する。
その背筋には緊張と決意が同居していた。
敬礼を終えると、副官は踵を返し、無駄のない足取りで扉の向こうへと消えた。
扉が静かに閉じ、再び静寂が執務室を満たす。
エルネストは窓辺に歩み寄り、外を見やった。
灰色の雲の隙間から、夕陽の光が細く漏れ、遠くの丘陵を赤銅に染めている。
空を渡る風がわずかにカーテンを揺らし、インクの匂いを運んできた。
「……アリス。まだ何も背負わずにいい」
誰に聞かせるでもなく、静かに言葉が零れた。
その声は、祈りにも似ていた。
夕陽の光が彼の肩章に反射し、金糸の縁取りが淡く輝く。
だがその輝きはすぐに翳り、夜の帳が静かに降り始めた。
窓の外で、兵舎の鐘が一度だけ鳴る。
昼と夜が入れ替わる、わずかな境界の音。
エルネストは机へ戻り、報告書の束を前に身をかがめた。
指先が一枚の書類をなぞる。そこには、アリス・グレイスラーの名と、出身地の記録が記されていた。
(……彼女はミラージュの民ではない。ファーレンナイトの民であり――あのグエン・グレイスラーの孫……)
彼は目を細め、人名録の古びたページを開く。
そこには、二十五年前の戦功記録とともに、グエン・グレイスラー準男爵の名が確かに残っていた。
エルネスト自身、若き日に一度だけ彼と会ったことがある。
重厚な声、背筋の伸びた佇まい、剣を握る手の確かさ――いずれも忘れ難い。
(あの人の孫か……)
彼の唇に、わずかに笑みが浮かんだ。
懐かしさと同時に、重責の予感が胸を掠める。
しかしその微笑は、すぐに静かな緊張の影に沈んだ。
報告書には、この血縁関係も明記されている。
中央議会がその名を見逃すはずがない。
グレイスラーの名が絡めば、軍だけでなく王族派・貴族派双方の思惑が動き出す。
「……厄介なことになったな」
つぶやきとともに、彼は椅子に深くもたれかかった。
背もたれの革がわずかに軋む。
机の上には、封を切られていない伝令書と、署名を待つ報告書の束。
その二つの紙の間に、彼の迷いと決意が静かに交錯していた。
「グエン卿よ……君の孫娘は強い子だ。だが、あの子を軍の駒にはさせぬ」
低く、しかし確かな声。
それは誰に向けるでもなく、かつての友への独白だった。
エルネストは再び机に向き直り、万年筆を力強く握り締めた。
インクの先端から、黒い一滴が紙に落ちる。
その点はまるで、決意の印のようだった。
(……どこまで護り抜けるか。いや――護り抜くしかない)
窓の外、夜の帳が静かに降りていく。
街灯がひとつ、またひとつと灯り始め、駐屯地の外壁が淡く照らされる。
その光を背に、老練の団長はひとり、静かに筆を走らせた。
――報告書の欄外に、誰にも知られぬ小さな一文が添えられる。
“本件、該当者の保護を最優先とする。
軍事転用、政治利用を禁ず。”
紙の上に記されたその言葉は、長き戦場を知る一人の指揮官が、ひとりの少女へ捧げた静かな誓いだった。
ランプの灯がわずかに揺れ、彼の横顔に陰影を落とす。
その眼差しには、まだ若さの残る力強さと、幾度の戦を経た者にしか宿らぬ静かな決意が宿っていた。




