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第一部 第五章 第4話

 夕刻の風が、少し肌寒さを帯び始めた頃。

 病室の外では、沈みかけた太陽が窓越しに橙の光を落としていた。

 白い壁がやわらかく染まり、一日の終わりを告げるように淡く揺れている。


 病室の静寂を破るように、扉がそっとノックされた。

 木製の扉が軽く震え、空気が一瞬張り詰める。


「失礼します」


 柔らかくも凛とした声が響き、扉がゆっくりと開く。

 そこには、整った軍服を纏ったエルネスト団長が姿を現した。


 堂々とした足取りで室内に入り、背後には黒髪をひとつに束ねた秘書官と思しき女性が控えめに続く。

 さらにリナと主治医が後に続き、四人は静かに列を成して室内へ入った。


 扉が閉じると同時に、空気にわずかな緊張が漂った。

 薬品の匂いと花の香りが混ざり合い、沈黙の中で音ひとつ立てるのもためらわれる。


 アリスは、重たげな瞼を持ち上げてゆっくりと上体を起こした。

 まだ少し震える指で布団を掴み、力を込めて身体を支える。

 光の筋が頬を照らし、その横顔に淡い影を落とした。


「団長……皆さん」


 か細い声ではあったが、その瞳には確かな覚悟の光が宿っていた。

 エルネスト団長は頷き、窓際の椅子に静かに腰を下ろす。


「体調はいかがかな、アリス・グレイスラー殿」


 その声音は低く穏やかでありながら、部屋の空気に重みを与える。

 アリスは息を整え、落ち着いた声で答えた。


「だいぶ良くなりました。まだ体は重く感じますが、話すくらいなら問題ありません」


 エルネスト団長は満足そうに頷いた。


「そうか。無理をさせてすまない。

 体調が安定しているならば、あの日のことをできる範囲で話してもらいたい。問題はないかね」


 アリスは数秒考え、静かに肯いた。


「はい……できる範囲でお答えします」


 秘書官が筆記具を手に取り、羊皮紙を開く。

 主治医は脈を測りながら、彼女の呼吸の深さを見守っていた。


 団長の声が重く響く。


「本件は、遺跡演習中に発生した強襲事件に関する重要な報告である。

 可能な限り、詳細な証言を求めたい」


「……承知しました」


 アリスの声は小さいながらも、明確な意志を帯びていた。

 そして、リナが静かに一歩前へ出る。

 その表情には、痛みと冷静さが同居していた。


「――では、事件当日の経緯を報告します」


 ペン先が紙の上を滑り、微かな音が響く。

 リナは一度だけ息を整え、淡々と語り始めた。


「当日、私たちはミラージュ王国古代遺跡の外縁部に展開していました。

 夜間、巡回警護中に未知の魔力反応が複数検知され、

 ほぼ同時に四体の《バロール・ビースト亜種》が姿を現しました」


 団長の表情がわずかに険しくなる。

 秘書官が手を止め、静かに続きを促す。


「攻撃は苛烈で、陣形が崩壊。退路の確保も困難になり、各班が分断されました。

 レオ班長は最後まで前線を支え、仲間を逃がすために単身で敵の進行を食い止めようとしました。

 しかし、その奮戦の最中に致命傷を負い……」


 リナは言葉を詰まらせ、俯いた。

 しばし沈黙が落ちる。

 誰も息を呑むことすらできない静寂が、部屋を包み込んだ。


 アリスの胸が微かに震える。


「……レオ班長が……」


 声にならない呟きが、唇の隙間から漏れた。

 リナは顔を上げ、まっすぐに彼女を見つめた。


「……レオ班長は、私たちを守って戦い抜かれました。

 そのおかげで、被害は最小限に抑えられたんです」


 彼女の瞳には、押し殺した痛みと尊敬の光が宿っていた。

 団長は静かに頷き、視線を落としたまま手を組む。


 リナは深く息を吸い、続けた。


「――その直後です。異常な魔力反応が発生しました。

 視界全体が白銀の光に包まれ、その光の中心に立っていたのは、アリスさん……あなたでした」


 団長がわずかに目を細め、低く問いを重ねる。


「記録によれば、君はその状態で四体すべてを撃破。

 戦闘時間は三分にも満たなかったそうだな」


 リナが頷く。


「はい。私たちは援護を試みましたが、追いつくことさえできませんでした。

 アリスさんはまるで光そのもののように動き、四体を一体ずつ――確実に、消し去っていったのです。

 あの光景は……今も目に焼き付いて離れません」


 病室の空気がわずかに震えた。

 カーテンの隙間から夕陽が差し込み、白い壁に橙の影を落とす。

 静かに風が入り、シーツの端がふわりと揺れた。


 アリスはその光の中で、小さく瞬きをした。

 胸の奥で何かが疼く。

 あの瞬間――レオの声、仲間たちの叫び、そして自分の中で響いた“誰かの声”。

 すべてが、遠い夢のように霞んでいた。


「……アリス・グレイスラー殿。

 あの時、君の身に何が起こったか、はっきりと覚えているか」


 団長の問いに、アリスは少しの間沈黙した。

 やがて小さく首を振る。


「正直、あまり覚えていません。あの時は……ただ、無我夢中で……」


 指先がシーツを掴む。

 胸の奥に、光と声の断片が残っている。

 けれどそれは、まだ形を持たない記憶だった。


「確かに、バロール・ビーストを討ち倒した記憶はあります。

 ですが……どうやってそこまで至ったのか、その過程は曖昧です」


 エルネスト団長は頷き、さらに問いを重ねた。


「君の体が“白銀に染まった”という現象について、何か覚えていることは」


 アリスはしばらく沈黙し、視線を逸らす。


「……わかりません。何が起こったのか、本当に私にもわからないのです」


 その声が落ちると、室内に再び沈黙が満ちた。

窓の外では、夕陽がゆっくりと沈み、橙が群青へと変わっていく。

 遠くで鐘の音が響き、静かな夜の始まりを告げていた。


 主治医が一歩前に出て、白衣の袖口を軽く整えながら口を開いた。

 その表情には慎重さと安堵が入り混じっている。

 長年の経験に裏打ちされた落ち着いた声音が、静寂を破って響いた。


「アリスさんの身体には外傷はほとんど見られませんでした。

 しかし、魔力はほぼ完全に枯渇しており……あの“白銀化”は、魔力の暴走、あるいは特殊な覚醒反応の一種と考えられます」


 主治医の言葉が終わるたびに、淡い緊張が空気の層を揺らす。

 窓の外から差し込む橙の光が白衣の裾を照らし、光と影の境が床をゆるやかに滑った。


 エルネスト団長は無言のまま腕を組み、深く眉を寄せた。

 瞳の奥には冷静な判断と、わずかな懸念が見え隠れする。


 彼の背後では、リナと秘書官が言葉を失い、ただ医師の説明を静かに聞いていた。


 沈黙が落ちる。

 時計の秒針がひとつ音を刻むたびに、その静寂がさらに濃くなる。

 やがて団長は小さく息をつき、低い声で告げた。


「……それ以上の追及はしない。

 今は身体の回復を最優先にせよ」


 その言葉に、主治医が一歩下がって深く頭を下げる。

 団長の声音は命令というよりも、仲間を思いやる温かさを含んでいた。


 エルネスト団長が立ち上がる。

 軍服の裾が小さく揺れ、椅子の脚が床を擦る音が静かに響く。

 その背に、秘書官がすぐさま筆記具を閉じる音が続いた。


「協力に感謝する。王国は、君の勇気と活躍を忘れない」


 団長の言葉は簡潔でありながら、深い敬意が滲んでいた。

 アリスは枕元から上体を起こし、穏やかな微笑みを浮かべて頭を下げた。


「ありがとうございます、団長」


 声はまだ少しかすれていたが、その響きは確かな力を宿していた。

 団長は静かに頷き、一礼すると背を向ける。

 歩みは重くも威厳があり、扉へと向かうその背中が夕光を浴びてゆっくりと遠ざかっていった。


 秘書官が短く礼をして彼に続き、主治医は最後に「問題なし」とだけ報告を残して退出の準備を整える。


 リナが扉の前で一度立ち止まり、アリスへ振り返った。


「また明日、必ずお会いしましょう」


 その声は柔らかく、春の風のようにあたたかかった。

 アリスは小さく頷き、目でその言葉を受け取る。


 扉が閉まると、再び病室は静けさに包まれた。

 残されたのは、淡く揺らぐ夕光と、心臓の鼓動だけ。


 アリスは背もたれに寄りかかり、長く深いため息をついた。

 胸の奥に残る痛みが、ようやく静かに形を変えていく。


 どこか遠くで鳥の声が聞こえ、それが夕暮れの静けさをいっそう際立たせた。


 アリスはただ静かに、暮れゆく空を見つめた。

 茜と群青がゆっくりと溶け合い、窓辺の光が柔らかく揺れている。

 沈みゆく光が頬を撫で、病室の中に夜の気配が降りていた。


 窓の外では、橙色の夕日がゆっくりと沈み、空が淡い紫に染まり始める。

 その色の移ろいを見つめながら、アリスは胸の奥のかすかなざわめきを感じていた。


 それは風のように静かで、それでいて確かに存在する“鼓動”のようなもの。


(……私の中に、確かに……何かがある……)


 そっと瞼を閉じると、思考の深い海の底で、重なり合う情景が次々と浮かび上がる。


 ――白銀の魔導神器ヴァルキリーを身に纏い、空を裂く閃光の中で戦う自分。

 圧倒的な魔国軍の波を前に、ただ一人で立ち続けた、あの日の“私”。


 ――そして、建国の女王として、静かに、しかし確実に人々を導いていくもう一人の“私”。

 玉座の光の下で微笑むその横顔は、誰よりも強く、優しかった。


 ――さらに遠く離れた異国。

 無機質な研究室で、白衣に袖を通し、電子機器を並べて量子制御装置を組み立てていた“私”。

 透明なモニターに映る数式を指でなぞりながら、独り言のように呟いていた。


『これで……ようやく、人の心を護れる』


 その声は、確かに“自分”のものだった。

 すべてが混ざり合い、今のアリスへと繋がっている。


「……レティシア……はるな……」


 その名を口にした瞬間、胸の奥が光に包まれる。

 暖かく、優しく、しかし抗いがたいほどの力が心を満たしていく。


『もう、隠さなくていいわ。私たちは――ひとつ』


 澄んだ声が、内側から響く。

 女王としての威厳と慈愛を併せ持つ声。


『あなたは、私。私は、あなた。科学も、魔術も、すべて同じ“ことわり”の中にあるの』


 どこか懐かしい柔らかな声が重なった。


 アリスは息を呑む。

 その声たちが心の奥から湧き上がり、互いに重なり合い、やがて一つの旋律を奏で始める。


 過去と現在、理と感情、剣と知識。

 それらが静かに、しかし確実に調和していく。


 掌を見つめると、そこには白銀の光が揺れていた。

 まるで三つの魂が溶け合って生まれた“ひとつの核”のように。


「……ああ……そういうこと、だったんだね……」


 小さな声が、空気に溶ける。

 光は穏やかに脈動し、彼女の呼吸と同じリズムで鼓動していた。


『あなたが私で、私たちが“アリス”――それが答えよ』

『そして、これからを生きるのは“あなた”自身。もう誰かの後ろではなくて』


 アリスは涙を浮かべ、微笑んだ。


「うん……わかってる。私が、私たちを生きる」


 光は少しずつ収束し、掌の上に小さな炎だけを残した。

 それは純白に輝く《フレイム・ボール》。

 白銀と蒼の光が溶け合い、ゆるやかに瞬いていた。


 胸の奥に、熱いものが宿る。

 それは誇りと、決意と、約束の証。

 ――もう、二度と後戻りはしない。


「この力は、守るためにだけ使う……私が、そう誓うから」


 アリスは静かに言葉を紡ぎ、掌を閉じる。

 光はゆるやかに消え、手の中の温もりだけが残った。


 再び目を開けたとき、窓の外には星がひとつ瞬いていた。

 夜の風がカーテンを揺らし、病室の空気を静かに撫でていく。


「……ありがとう、二人とも」


 その呟きは、誰にも届かないほど小さな声。

 けれど確かに、胸の奥では三人の心がひとつに溶け合っていた。


 アリスは静かに息を吸い、頷く。


(……わかってる。私が、この力を受け継いだからには……)


 胸の奥に、暖かい炎が灯る。

 それは“誇り”と“責任”の光。


 そして、決して軽々しく扱ってはならないものだと、強く理解していた。


 家族にも、学院の仲間にも、誰にも気づかれぬように。

 この力は、守るためにだけ使う。

 それが、レティシアとはるなからの最後の、静かで厳かな忠告だった。


「……うん、大丈夫。私なら、きっとできる」


 言葉を心の中で反芻し、そっと掌の光を閉じる。

 光はゆるやかに消え、残った温もりだけが手のひらに残った。


 ゆっくりとシーツに身体を預け、目を閉じる。

 まぶたの裏で、微かな残光が優しく揺れた。


「体をもっと鍛えないとな……この力に、ちゃんと耐えられるように」


 小さく、自分に言い聞かせるように呟く。

 その声には、疲労の中にも確かな決意が宿っていた。


 そして――アリスは静かに微笑んだ。


 部屋の中には、沈みゆく夕日の最後の残照だけが、ゆるやかに揺れながら、彼女の横顔を照らしていた。

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