第一部 第五章 第3話
再び瞼を開けたとき、外の空は淡く朝の色に染まり始めていた。
薄桃から白金へと移ろう光が窓辺のカーテンをやさしく透かし、室内に静かな輝きを落としている。
意識が戻ってから、もう何度目かの朝を迎えていた。
――あの激戦、ミラージュ王国の古代遺跡での死闘から、ちょうど一週間が経過していた。
病室には春の柔らかな陽光が差し込み、空気はほんのりと温もりを帯びていた。
窓は開け放たれ、風がゆるやかにカーテンを揺らしていく。
遠くから小鳥のさえずりがかすかに届き、外の世界がゆっくりと目覚めていく気配が伝わってくる。
花の香りが混じった清らかな風が頬をなで、胸の奥にまで届く。
アリスはわずかに首を傾け、天井を見上げた。
白い天井には光の粒が反射し、まるで水面のように淡くきらめいている。
指先を動かそうとすると、まだ少しだけ重さが残っていた。
けれど、その重ささえも“生きている”という確かな感覚に変わっていた。
「……ここは……」
かすれた声が唇から漏れた。
その瞬間、傍の監視結晶が小さく点滅し、微かな音を立てる。
扉が開く音とともに、白衣を纏った医療班の女性が駆け込んできた。
「アリスさん! 意識が――」
すぐさま彼女は枕元に寄り、落ち着いた所作で椅子を引き寄せた。
髪を後ろでまとめ、胸元には魔導診断用の小さな結晶装置が光っている。
その瞳には疲労の色も見えたが、それ以上に安堵と優しさが宿っていた。
「意識ははっきりしていますか? 痛むところはありませんか」
丁寧でありながら、声には心配がにじんでいる。
アリスは少し間をおいて、唇を動かした。
「……だいじょうぶ……です……」
かすれた声ながらも、しっかりと答える。
医療班の女性は安堵の息を吐き、すぐに手元の魔導計測具に触れた。
結晶板に浮かぶ魔力波形が穏やかに脈動し、アリスの体調が安定していることを示している。
脈拍、体温、魔力循環の数値を確認しながら、柔らかく頷いた。
「よかった……もう心配はいらなそうですね。発熱も治まっています。
少し休めば、すぐに動けるようになるでしょう」
記録板に数字を書き留めたあと、彼女は微笑みを残して立ち上がった。
「少し落ち着いたら、司令部に知らせてきますね。ご家族やご友人も、きっと喜びます」
そう言って軽く頭を下げ、扉の向こうへ静かに去っていく。
病室に再び静寂が戻り、春の風がカーテンをそっと揺らした。
……そして数分後。
扉が再び開き、レティアがタオルと水の盆を抱えて入ってきた。
「アリス……本当に……」
息を呑むように顔を見つめ、そのまま歩み寄る。
アリスはかすかに微笑んだ。
レティアは盆を机に置き、タオルを絞りながらベッドの傍へ腰を下ろす。
そして、静かにアリスの髪を撫でつけた。
指先は驚くほど丁寧で、額の汗をそっと拭いながら、乱れた金の髪を整えていく。
背中を優しくさすり、さりげなく世話を焼くその姿に、アリスは微かに笑みを浮かべた。
(……少し、くすぐったい……)
その感覚は、まるで幼い頃に母に髪を梳かされた時のようだった。
懐かしい手のぬくもりと、心を包むような優しさが胸の奥に広がる。
レティアの指先から伝わる温度は、安堵と絆の証のように感じられた。
その時、扉の外で足音がした。
医療班が機材を運び入れ、先ほどの簡易検査の結果を受けて、より詳細な魔力診断と生体チェックを行うための準備を始めた。
「失礼します。もう少し詳しく診させてください」
リーダー格の医師が軽く会釈し、周囲に透明な魔導結界を展開した。
床に薄い光陣が浮かび上がり、空気が静かに震える。
アリスは微かに目を細め、まぶしそうに光を見つめた。
魔力計測具の水晶板が次々と輝き、数値が連なっていく。
心拍、魔力流量、神経干渉値――どの項目も安定を示していた。
レティアはその様子を黙って見守りながら、ベッドの横で控えている。
指先を胸の前で組み、時折、不安げに視線を落とした。
医師の一人が微笑み、安心を促すように頷く。
「問題ありません。魔力循環も正常です。もう大丈夫ですよ」
光陣が静かに消え、室内に静けさが戻った。
医療班の面々は器具を片づけながら、互いに短く報告を交わす。
やがてリーダーが一礼し、穏やかな声で告げた。
「では、しばらく安静にしていてください。念のため、午前中にもう一度診察します」
「ありがとうございます」
レティアが深く頭を下げると、医療班は静かに退室していった。
そのあと、病室には穏やかな静けさが広がった。
風がカーテンを揺らし、窓辺に陽光が差し込む。
アリスはゆっくりと息を吐き、レティアの方を見やった。
レティアはほっとしたように微笑み、軽く頷く。
――その時。
ほどなく扉が軽やかに叩かれ、リナ小隊の仲間たちが顔を覗かせた。
軍服の袖には細かな擦り傷や焼け跡が残り、彼らがこの一週間をどれほど慌ただしく過ごしていたのかが伝わってくる。
「みんな……」
アリスの声に反応し、マーヤが真っ先に駆け寄った。
その勢いのままベッドの傍に膝をつき、両手を胸の前でぎゅっと握りしめる。
エルドとフィルも少し遅れて入室し、静かに足を止めた。
「だいぶ顔色も良くなったな! 本当に心配したんだからな」
エルドは安堵の混じった声で言い、目元をほころばせる。
その強い体躯が小さく震えているのを見て、アリスは胸が詰まりそうになった。
フィルは表情を崩さずにいたが、手の中で帽子をいじる癖が出ている。
あの冷静な彼でさえ、どれほど気を揉んでいたのかがわかった。
「……倒れた後の状況、少し話しておこうか……」
リナが落ち着いた口調で告げ、その横でレティアは枕元に寄り添ったまま小さく頷いた。
肩越しに差し込む朝の光が、二人の輪郭をやわらかく照らす。
「……私が倒れてから……どのくらい……?」
不安げに尋ねるアリスに、リナは少しだけ微笑み、静かに答えた。
「……一週間です。ずっと、眠ったままでした」
「――えっ、一週間も……!」
アリスは驚きのあまり上体を起こそうとしたが、筋肉が言うことをきかず、ぐらりと体が傾いた。
瞬間、リナが素早く手を伸ばし、背を支える。
「だめです、無理しないでください」
その声には、指揮官らしからぬ焦りが混じっていた。
レティアも慌てて肩を抱き寄せ、囁く。
「だいじょうぶ、もう大丈夫だから……」
その声音は、どこか泣きそうに震えていた。
「……ごめんなさい……驚かせてしまって……」
アリスが赤く染まった頬を撫でながら小さく謝ると、マーヤは泣き笑いしながらしっかりと手を握りしめた。
その手は温かく、細かな震えが伝わってくる。
「本当に……生きててくれて良かった……」
その一言に、室内の空気がわずかに震えた。
エルドは俯いたまま、震える声で続ける。
「お前が目を開けるまで……全員、まともに寝てなかったんだぞ」
その言葉に、アリスの喉が詰まる。
フィルは何も言わず、ただ静かに頷きながら目元を拭った。
普段は理性的な彼のその仕草が、何より雄弁に心情を物語っている。
レティアは肩にそっと寄り添い、顔を預けるようにして囁いた。
「……もう、絶対に離れないから……」
その言葉に込められた決意と愛情が、胸の奥にまっすぐ響いた。
仲間たちを見渡し、アリスは照れくさそうに笑みを浮かべる。
「……ありがとう……みんな……」
その微笑みは、疲労と感謝、そして確かな生の実感が混じり合った柔らかな光だった。
控えめなノックが響き、医療班の一人が顔を覗かせた。
「失礼します。すぐに終わりますので、そのままで大丈夫ですよ」
仲間たちは慌てて身を引こうとしたが、医師が笑みを浮かべて手を振る。
「脈拍と体温だけですから、どうぞお気になさらず」
アリスの手首に指を添え、軽く時を計った。
指先の動きが静かに数を刻む間、室内には春の風が流れ、カーテンが小さく揺れる。
続いて額に温度計結晶をそっと当て、わずかに光が走った。
「はい、安定しています。脈も正常、熱も平常値です」
医師は小さく頷き、記録板に短く記入する。
「順調そのものです。もうすぐ歩けるようになりますよ」
その言葉に、アリスは小さく微笑んで頷いた。
医師が器具を片づけながら、思い出したように小さく呟く。
「……それにしても、不思議なことに、バロール・ビースト亜種にあれだけ吹き飛ばされたのに、外傷はほとんどないんですよね……」
白衣の袖をたくし上げ、記録板を見つめる表情には純粋な驚きが浮かぶ。
その場にいた仲間たちも、一瞬言葉を失った。
「そうだ! 傷一つなかったのに、どうして一週間も眠っていたのか、誰もが気になってる」
エルドの素朴な疑問に、医師は頷きながら続けた。
「おそらく原因は……魔力の枯渇による重度の衰弱症状でしょう。
あれほどの魔力を放出したのなら、並の者なら即死していてもおかしくない状態です」
「魔力切れ……」
リナが小さく呟くと、室内に静寂が落ちた。
全員の視線が、自然とアリスへ集まる。
「……さすが、アリス……無茶しすぎです……」
マーヤが頬を膨らませ、呆れたように言う。
アリスは少し目を伏せ、胸の奥で静かに息を整えた。
(……あれは……レティシアと、はるなが……)
心の中で、封印の奥で交わした声を思い出す。
遠い記憶が胸の奥で淡くきらめいた。
微かに笑みを浮かべ、唇に指を当てて皆を見渡す。
「……ちょっと、頑張りすぎちゃった、かな……?」
その無邪気な笑顔に、皆は一瞬ぽかんとし、それから一斉に肩の力を抜いた。
安堵と呆れが入り混じった笑いが、病室にやわらかく広がる。
外では春の風が木々を揺らし、光の粒が窓からこぼれていた。
その穏やかな光景の中で、アリスたちはようやく、戦いの終わりを実感していた。




