第一部 第五章 第1話
柔らかな寝具の感触が、肌にそっと触れる。
指先がわずかに沈み込み、包み込むような布の温もりが、まだ眠りの余韻を残した身体を優しく受け止めていた。
静寂に包まれた空間は、かつての戦場の焦げた土や血の匂いを一切感じさせなかった。
代わりに漂っているのは、わずかに甘い薬草と新しいシーツの香り。
清潔で、静かで、どこまでも穏やかな空気。
まるで時間そのものが止まってしまったかのような安らぎだった。
ゆっくりと、重く閉ざされていた瞼が開く。
睫毛の隙間から、柔らかな白光が差し込む。
その光は痛みを伴わず、まるで“目覚め”を待っていたかのように優しく彼女を包み込んだ。
視界に映り込んだのは、白く塗られた病室の天井だった。
滑らかな漆喰の表面に、淡い陽の光が反射している。
外の窓から差し込む朝光が、薄いカーテン越しに揺れ、波のように天井を撫でていた。
アリスは瞬きを繰り返しながら、その天井をぼんやりと見つめる。
思考の輪郭がまだ曖昧で、過ぎ去った夜の記憶が断片的に浮かんでは消えていく。
燃え上がる光、風の衝撃、仲間の声――そして、静寂。
やがて、小さく息を吐いたその声は、掠れてか細かった。
「……知らない、天井だ……」
その呟きに、微かに笑みが滲む。
まるで遠い昔、同じような言葉を誰かが言った記憶を、ふと掬い上げたようだった。
喉の奥が乾き、軽い痛みを覚えながらも、アリスはゆっくりと息を整えた。
動かぬ身体を確かめるように、ゆっくりと指先を握りしめる。
わずかに関節が動く感覚――血が流れ、生命が戻る感触。
それだけで、胸の奥に小さな安心が灯った。
浅く首を振ると、枕に絡まった髪がさらりと音を立ててほどけた。
その瞬間、隣から静かな気配を感じる。
誰かが寄り添っている。
呼吸の音がある。
穏やかで、途切れることのない、落ち着いたリズム。
「……ここは……どこ……?」
掠れた問いが唇から零れ落ちる。
それは自分の声でありながら、どこか他人のもののように遠く感じられた。
その問いに応えるように、そっと椅子が軋む音が聞こえた。
静けさの中に響くその小さな音は、不思議なほど心に沁みた。
視界の端に、丁寧に本を閉じる細い指先が見えた。
白く整えられた指、見慣れた所作。
「……アリスさん……」
その声に目を向けると、そこにはリナが椅子に座っていた。
淡い栗色の髪が、朝光を受けて柔らかく揺れている。
読んでいた本を膝に置き、安堵の吐息と共に柔らかな笑みを浮かべた。
彼女の頬にはうっすらと疲労の色が残り、目の下には徹夜の気配が滲んでいる。
それでも、微笑みは確かだった。
そして小さく頭を下げるようにして――
「――おかえりなさい、アリスさん」
その一言は、まるで静かな鐘の音のように響いた。
柔らかく、包み込むようで、胸の奥にまで届く優しい響き。
リナの微笑みと言葉に、アリスは力の抜けたように小さく息をついた。
「……ただいま、リナさん……」
声はまだ弱々しく掠れていた。
それでも、リナにはそれが何よりの答えだった。
彼女の瞳が一瞬だけ潤み、唇の端がわずかに震える。
リナはそっとアリスの手を包み込む。
体温が伝わる。
その温もりに、アリスの表情が少しだけ緩んだ。
――生きている。ここにいる。
その実感が、ようやく現実に戻ってきた。
「……皆にも知らせてきます。きっと、我慢できないでしょうから」
リナはそう言いながら、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
その動作一つにも、優しさと慎重さが滲んでいた。
膝に置いていた本を丁寧に机の上へ戻し、アリスの顔を一度だけ振り返る。
「すぐ戻りますから、少しだけ休んでいてくださいね」
その言葉にアリスは小さく頷き、瞼を半分閉じた。
リナは小さく頭を下げ、静かに部屋を後にする。
閉まる扉の音が、静かに病室を満たした。
その音が消えたあと、再び訪れたのは――深く、穏やかな静寂。
アリスはその静けさの中、もう一度息を吐き、
「……ただいま……本当に……」
と、誰にも聞こえないほどの声で呟いた。
残されたアリスは、薄暗い天井を見つめたまま、小さく吐息をもらした。
カーテンの隙間から差し込む午後の光が、彼女の金色の髪をわずかに照らす。
窓の外では風に揺れる木々が、淡く影を落としていた。
静かな病室。
時計の針の音だけが、ゆっくりと時を刻んでいる。
(……思い出してきた……私……あの時――)
意識の彼方で蘇る光景。
土煙の向こうに咆哮を響かせる黒い巨躯。
割れるような咆哮と、濃密な血の臭い。
熱気。衝撃。視界を覆う閃光。
そして――重なり合う意識。
レティシアの力強い声。
さらに深淵で響く、はるなの穏やかなささやき。
(……あれは、私じゃなかった……あの力も、あの速さも……全部、レティシアと……はるなが……)
白銀の視界。蒼白の剣閃。
巨獣の魔核を穿つ感触が、今も指先に鮮明に残るようだった。
その手がわずかに震える。
握った拳の中に、あの時の光の残滓がまだ宿っているように感じられる。
(……すごかった……でも……怖くはなかった……)
胸の奥で、静かに脈打つような記憶の鼓動。
それは恐怖ではなく、どこか懐かしい安堵。
背中を支えられていた確かな感覚が、心の奥で温かく灯っている。
意識の奥底に残る、記憶の断片。
レティシアが微笑みながらかけてくれた言葉。
はるなが肩を叩いたあたたかな感触。
何よりも、その声がずっと自分を支えてくれていた。
(……ありがとう……レティシア……はるな……)
ゆっくりと瞼を閉じる。
まぶたの裏に浮かぶのは、あの白銀の光の残像。
どこか遠い空の底で、ふたりが微笑んでいるような気がした。
思い出と現実が混ざり合うなかで、扉の向こうから足音が近づいてきた。
複数の靴音。けれど、一番最初のそれは――どこかためらいがちな速さだった。
小さく控えめに、しかし抑えきれない気配で扉が開かれる。
「アリス……っ!」
瞼を開けると、そこには真っ赤に腫れた目をしたレティアが立っていた。
栗色の髪が乱れ、頬には乾ききらない涙の跡。
目が合った瞬間、彼女の肩がびくりと震える。
「アリス……アリス……!」
名前を呼ぶ声は、掠れていた。
それでも必死に呼び続ける。
レティアは一瞬でベッドの縁まで駆け寄り、嗚咽を抑えきれずに泣きじゃくりながらアリスの手を取った。
その指は震え、握る力が強すぎて痛いほどだった。
「ごめんなさい……! 私……私、何もできなくて……!」
言葉にならない嗚咽は、ベッドの上に零れ落ちた涙と混ざり震えていた。
肩が上下に揺れ、嗚咽が空気を濡らす。
アリスは、かすかに微笑みながら、その肩を優しく抱き寄せる。
「……泣かないで、レティア……私はちゃんと、帰ってきたから……」
掠れた声が、そっと彼女の耳に触れた。
子どもをあやすように、何度も背を撫でる。
その動きに合わせるように、レティアの嗚咽は徐々に落ち着きを取り戻していった。
涙の音が少しずつ静まり、代わりに小さなすすり泣きだけが残る。
「……ごめんなさい……ごめんなさい……」
レティアの指先が震えながら、アリスの手を握り直す。
「謝らなくていい……私が勝手に無茶をしただけだから……」
アリスの声はまだかすかに震えているが、優しく響いた。
無理もない。
長い眠りのせいで、身体の節々はまるで錆びついたように軋んでいた。
それでも――その痛みすら今は、生きている証だと感じられた。
レティアが涙に濡れた顔を上げ、かすかに笑う。
「……本当に……よかった……生きてて……」
「……ありがとう、レティア」
アリスの唇が、わずかに笑みを形作った。
その時、開いたままの扉の向こうから、先ほど仲間を呼びに行ったリナの声が響いた。
「アリスさんが……目を覚ましたって……!」
声が弾んでいる。抑えきれない喜びと、涙の余韻が混じった声。
すぐに、エルド、マーヤ、フィルが次々と駆け込んできた。
靴音が床を打ち、慌てた呼吸が重なって響く。
リナも皆の後ろから一歩遅れて入室し、泣き笑いの表情でベッドに駆け寄った。
マーヤは両手で口を押さえたまま、声にならない声を漏らす。
フィルは信じられないものを見るように目を見開き、エルドは歯を食いしばって俯きながら、肩を震わせていた。
それぞれが言葉を探すように、アリスの寝台を囲んだ。
言葉よりも先に、目と目が交わる。
それだけで、十分だった。
「……みんな……無事でよかった……ほんとに……」
アリスのかすかな声が、彼らの胸に深く沁み渡った。
その瞬間、リナの瞳から静かに涙が零れ落ちた。
誰も声を発さないまま、ただ、そこにいた。
暖かな空気と涙の匂いが混ざり、ようやく――仲間たちは、戦いの終わりを確かに実感した。
仲間たちは、代わる代わる言葉をかけながらアリスの傍に集まっていた。
長い戦いのあとにやっと訪れた安堵――
それは歓声ではなく、涙と呼吸の間に滲むような静かな温度だった。
戦いの最中のこと、彼女が目覚めなかった間に起こった出来事――
誰かの声が途切れ、また別の誰かが言葉を継ぐ。
短い言葉の端々からは、無事でいてくれたことへの安堵と、彼女への深い感謝が滲み出ていた。
「本当に……生きててくれて……」
マーヤは泣き笑いを浮かべながら、アリスの手を両手で包み込んだ。
その掌の震えが、どれほど長い時間不安と向き合っていたのかを物語っている。
指先が熱を帯びていて、握り返すたびにその温もりが伝わってきた。
「……俺、あの時……もう駄目だと思ってた……」
エルドは俯き、震える声でぽつりと吐き出す。
拳を膝に置いたまま、視線を上げられない。
肩がかすかに揺れているのを、アリスは見ていた。
フィルは言葉なく、ただ何度も頷き、時折目元を手で拭っていた。
唇を噛み締め、何度も呼吸を整えようとしている。
その静かな仕草の中に、彼らが共有してきた時間の重さがにじんでいた。
その隣で、レティアはアリスの肩にしがみつくように顔を埋めている。
指先が、彼女を離すまいとするようにぎゅっと掴んでいた。
小さな嗚咽が、アリスの胸元にかすかに伝わってきた。
「……みんな……大丈夫……私も……大丈夫だから……」
アリスは微笑みながら、一人ひとりに目を向けてかすれ声でそう告げた。
その言葉に、部屋の空気が少しだけ緩む。
それでも、どこか緊張が残っている。
彼女の声が、まだ完全ではないと、全員が直感していた。
しかし――言葉を紡ぎきる前に、頭の奥で鋭い痛みが脈打った。
「……っ……!」
思わず声が詰まり、額に手を当てる。
視界が一瞬だけ白く霞んだ。
「アリスさん……!?」
真っ先に気づいたリナが慌ててアリスの背を支えた。
その腕の力がしっかりと彼女を包み込む。
リナの手のびらから伝わる体温が、現実へ引き戻すように暖かかった。
「頭が……少し、痛くて……」
掠れた声。
それでも、彼女は笑おうとした。
その一言に、小隊の面々が一斉に心配そうな視線を向ける。
フィルが息を呑み、マーヤが口を開きかけて閉じる。
レティアはもう一度アリスの手を握り直した。
「……無理はしないで。まだ起き上がったばかりです」
リナは優しく、けれどきっぱりと言った。
その声は軍人としての冷静さと、仲間を想う温かさを同時に宿していた。
「みんな、少しだけ……アリスさんを休ませてあげて」
リナの視線が、一人ひとりに向けられる。
彼女の瞳は穏やかだが、その奥には揺るがぬ指揮の強さがあった。
マーヤが何か言いかけるも、リナは静かに首を振る。
「お願い。ここは、私が責任を持って見ているから……」
小さな沈黙。
それでも、その言葉に逆らえる者はいなかった。
エルド、フィル、そしてマーヤも、それぞれ名残惜しそうに頷き、立ち上がった。
椅子の脚が床を擦る音が、ひとつひとつ丁寧に響く。
「……アリス、またすぐに顔を見に来るからな」
エルドが低く、だが確かな声で言った。
「おやすみ、ね」
マーヤは微笑もうとしたが、唇が震えて言葉にならなかった。
「……ありがとう、本当に……」
フィルがそれだけ言い残して視線を落とす。
その背中には、安堵と疲労が入り混じっていた。
そして――
「レティアさんも……今は少し、アリスさんを休ませてあげてください」
リナが柔らかい声で告げる。
ベッドの縁にしがみついていたレティアが、ぎゅっとアリスの手を握った。
「……でも……」
震える声が零れた。
離れたくない、という想いがそのまま言葉に滲んでいた。
それでも、リナの真剣な瞳を見て、しばらく逡巡したのち、小さく頷いた。
「……わかりました……」
立ち上がる時、レティアの瞳は真っ赤に腫れていた。
その目元を隠すように、指先で涙を拭う。
扉の前で、もう一度だけアリスに視線を送り、仲間たちに続いて静かに部屋を出て行く。
扉が閉まる音だけが、静寂に満ちた病室に残された。
その音が消えると、再び深い静けさが降りた。
風の音すら聞こえない。
ただ、心臓の鼓動と、遠くで鳴る時計の針の音だけが微かに響いている。
アリスはまだじんわりと残る頭痛を感じながらも、ゆっくりと瞼を閉じる。
胸の奥に残る痛みと、仲間たちの温もりが混ざり合い、心を満たしていく。
(……また……思い出す……)
白銀の光。咆哮。剣閃。
意識の奥底で交わされた言葉――
背を守るように重なった二つの声と、その温もり。
(……あの時、確かに……私は一人じゃなかった……)
ゆっくりと、深い思考の海へと意識が沈んでいく。
窓の外では、夜の帳が少しずつ下り始めていた。
風がカーテンを揺らし、夕暮れの光が静かに薄れていく。
その柔らかな暗がりの中で――
アリスの呼吸は穏やかになり、微かな安堵の笑みが、その唇に浮かんでいた。




