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第十二部 第一章 第8話

 ラースが白銀の光に包まれ、ふわりと宙に浮いたかと思うと――次の瞬間、彼の身体は重力を取り戻し、勢いそのままに砂地へと叩きつけられた。

 無重力の浮遊から一転、唐突に“落ちる”感覚が全身を貫く。


 「うおっ――ぐっ!? ちょ、待っ……急に来るのかよこれ……!」


 全身に衝撃が走り、前のめりに転倒する。

 肩から腕、胸へと砂を叩きつけるように落ち込み、勢いのまま顔から白砂に突っ込んだ。


 視界が一瞬真っ白に染まる。

 乾いた砂粒が鼻腔に入り込み、ざらりとした異物感が喉を刺激する。


 「げほっ……ごほっ……っ、いてぇ……! 口の中、じゃりじゃり……最悪だろこれ……!」


 咳き込みながら顔を上げ、両手で慌てて砂を払い落とす。

 頬や額に張り付いた粒が擦れ、細かな痛みが走る。


 唇の隙間からざらついた粒を吐き出すたびに、舌先に不快な感触が残った。


 「……くそ……無重力からの直落下とか、聞いてねぇぞ……もうちょい段階踏めよな……!」


 ようやく身体を起こして周囲を見渡すと、そこには見慣れぬ光景が広がっていた。


 白砂は目に痛いほど眩しく、延々と水平線まで続いている。

 その白は自然のものというより、どこか“研ぎ澄まされた白”で、現実離れした純度を帯びていた。


 背後からは柔らかな光を帯びた波が押し寄せ、規則正しく足元の砂を濡らしては、音もなく引いていった。

 波は確かに動いている。


 だが、音はない。


 水が砕けるはずの瞬間にも、ただ視覚だけがそれを伝えてくる。


 「……は……? 音、しねぇのかよ……。これ、マジで気持ち悪ぃな……」


 風はなく、しかし空気はどこか澄みきっている。

 胸に入ってくる感触はあるが、温度も流れも感じられない。


 鼻孔に潮の匂いはほとんど感じられない。

 海であるはずなのに、海としての“実感”が欠けている。


 まるで“海辺の幻影”に迷い込んだかのようだった。


 ふと視線を横に移すと、すぐそばには密林の入り口のような暗い影が口を開けていた。


 緑は濃く、葉は大きく厚みを持ち、光を吸い込むように沈んでいる。

 木々の幹は絡み合うようにして立ち並び、その奥行きは異様に深い。


 そこからは確かに、ひやりとした湿気と重苦しい気配が漂っていた。

 だがそれもまた、“感じている気がする”だけで、確かな空気の流れはない。


 「……なんだこの森……。生きてる感じはあるのに、何も動いてねぇ……」


 そして――


 「……なんだ、あれ」


 ラースの目が自然と前方に吸い寄せられる。


 そこには、水しぶきを高々と跳ね上げながら海に飛び込むミレーネ、リゼット、そしてレティアの姿があった。


 「は? ちょ、何やってんだあいつら……!?」


 衣服は濡れることも厭わず、まるで子どもが水遊びに興じるかのように、ためらいもなく蒼い海へと身を投じていく。


 水は確かに跳ねている。

 しぶきが舞い、光を反射して煌めいている。


 だが、やはり音はない。


 「ちょ、ちょっと……!? おいおいおい、待てって! 普通飛び込むか!? 状況確認とかそういうのは!?」


 ラースは思わず声を上げた。


 水着などあるはずもなく、学院支給の演習用の装束が波間で重たげに張り付き、布地が肌に吸いついている。

 濡れた布が身体のラインに沿い、動きに合わせて水を弾く。


 それでも三人は迷うことなく飛び込み、豪快に波を割っていくのだった。


 「……は? いや、待て待て……なんでそんなノリなんだよ……!?」


 呆然と立ち尽くすラースの耳に、海面を叩く音と、女性陣の笑い声が混じり合って響いた。


 ――いや、“響いた気がした”。


 実際には音はない。

 だが、確かに“そういう光景”がそこにある。


 理解が追いつかぬまま瞬きを繰り返していると、不意に背中を走る衝撃。


 ガンッ、と。


 後ろ腰に括り付けられた金属ワイヤーが強く引かれ、ラースの身体が一気に前へと引き寄せられた。


 「うおっ……!? ちょ、ちょっと待っ――なんだこれ、引っ張んなって!!」


 慌てて踏ん張るも、砂地を擦る靴跡を残しながら、数歩分ずるずると引きずられていく。


 靴底が砂を削り、白い粒が舞い上がる。

 だがその動きもどこか遅延して見え、現実感が薄い。


 「くっ……止まれって……! おい、誰だ引いてんの!?」


 幸い転倒は免れたものの、抗えぬ力に翻弄される様は滑稽ですらあった。


 その一部始終を見ていたアリスとザックは、砂浜の一角に腰を下ろしていた。

 波のない海を背に、淡い光に照らされた白砂の上で、二人は互いの顔を見合わせる。


 静かなはずの空間。

 だが、今この場だけは違っていた。


 視覚だけが騒がしい。

 水が跳ね、衣が揺れ、笑顔が弾ける。


 音はない。

 なのに、確かに“騒がしさ”がある。


 その奇妙な乖離に、思わず二人は同時に吹き出した。


 「……なにこれ。状況的にはかなり危険なはずなんだけど……なんであんなことになってるの」


 ザックが肩をすくめ、半ば呆れたように言う。

 その口調には冷静さを保とうとする意識があるが、抑えきれない可笑しさが滲んでいた。


 アリスは口元に手を添え、困ったような、けれど楽しげな笑みを浮かべる。


 「ほんとね……あの空間の性質なのか、それとも単純に……みんなの順応力が高すぎるのか……」


 視線の先では、波のない海で三人が跳ねている。

 水が弾け、光を反射し、無音の中で鮮やかな動きを描いていた。


 やがて――


 海面から顔を出したレティアが、濡れた髪を払いつつ片手を大きく振った。

 水滴が弧を描いて飛び散り、光を受けて細かな輝きを放つ。


 頬にははっきりと笑みが浮かんでいる。


 「……あ、やっぱりあれ、私か。今の引っ張り、タイミング的に完全に私ね……」


 声は澄んでいて、どこか嬉しそうですらあった。


 「飛び込むときにワイヤー引っ張っちゃったかも。ごめんごめん、あれ絶対勢いつけすぎたやつだよね」


 海面から顔を出したレティアが、悪戯っぽく笑いながら片手を上げる。

 濡れた髪が頬に張り付き、滴がきらきらと光を散らしていた。


 その動きは軽やかで、まるでこの空間に何の違和感も感じていないかのようだった。


 「お前かよ……! いや、分かってたけどな……あのタイミングで勢いよく行くの、どう考えてもお前しかいねぇだろ……!」


 ラースは砂まみれの服を払いながら、不満をあらわに返す。


 だがその声色には、苛立ちよりも呆れと苦笑が混じっていた。

 砂を口から吐き出すたびに、彼自身もこの状況に笑わざるを得ないらしい。


 「いや、ほんと……砂の味しかしねぇんだけど……。なんだこれ、口の中まで演出リアルすぎだろ……」


 頬をこすり、肩を叩き、服についた砂を払い落とす。

 白砂は細かく、払いきれずに繊維の間に残り続けていた。


 「とりあえず、ワイヤー外しとこうか。もうここまで来たなら、引きずり合うリスクの方が大きい」


 ザックが立ち上がり、砂浜を一巡するように見渡して声をかける。

 その視線は全体を把握し、状況の整理を優先していた。


 冷静な響きが場を整え、一同もすぐに従った。


 アリスとザックはすでに自分のワイヤーを外しており、ラースも慌ただしく固定具を外す。

 カチリ、と軽い音がして、腰の圧迫が解放される。


 ワイヤーが外れた瞬間、身体のバランスがふっと軽くなる。


 「……はぁ……やっと解放された。あの張りっぱなしの感覚、地味にキツかったな」


 腰に巻かれた金属の感触を外した瞬間、ようやく解放されたように肩で大きく息をついた。


 「……もう引きずられるのは勘弁だ。次やったら、マジで引き返すからな……いや、引き返せるのかこれ……」


 ぼやきながらも、口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。



 ひとしきり海ではしゃいだミレーネ、リゼット、そしてレティアの三人は、頬を紅潮させ、髪や外套から滴を散らしながら砂浜へと戻ってきた。

 水を弾いた足跡が白砂に刻まれ、すぐに乾いた粒子がそれを覆い隠していく。


 白砂の上に裸足で立つ彼女たちは、まるで子どものように笑みを浮かべている。

 足元に伝わる感触はどこか曖昧で、それでも確かに“立っている”という実感だけは残っていた。


 「……ふぅ、気持ちよかった~! なんか変な場所なのに、ちゃんと水は気持ちいいの不思議だね!」

 ミレーネが両腕を大きく広げ、濡れた髪をかき上げる。


 潮を含んだ髪が陽光を帯びたようにきらめき、彼女の笑顔をより一層明るく見せていた。

 水滴が飛び散り、白砂の上で小さく弾ける。


 「しかも、音はないのに、水の感触だけはちゃんとあるし……ほんと、どういう仕組みなんだろうねここ」


 リゼットは言葉を発しなかったが、普段は滅多に崩さない表情がわずかに緩んでいた。

 濡れた頬を“風のような何か”が撫で、彼女は目を細めて心地よさを噛み締める。


 静かに息を吐き、指先で髪の水気を払う。


 レティアはというと、張り切って一番に飛び込んだ分、はしゃぎすぎたのが少し恥ずかしいのか、頬を赤らめてそっと目を逸らした。

 濡れた睫毛から水滴が落ちるたび、彼女の仕草は妙に初々しく見える。


 「……その、ちょっと調子に乗りすぎたかもしれないわね。でも……あの感触、確かめたくなったのよ」


 小さく咳払いし、視線を戻す。


 「危険性があるのは分かってる。でも……あの海、“ただの幻影”じゃなかった。ちゃんと“触れられる現象”だったわ」


 「さて……とりあえず、このままじゃ気持ち悪いよね。塩も砂もついてるし」

 レティアが小さく息を整えながら呟くと、三人は互いに視線を合わせ、息を合わせるように同時に魔術の構えを取った。


 指先に魔力が集まり、空間に淡い振動が広がる。


 「《アクア・スフィア》」


 淡い魔力の光が走り、それぞれの前に澄み切った水の球がふわりと浮かび上がる。

 海の水とは違う、純粋な透明さを持つ水球だった。


 内部に不純物はなく、光をそのまま通し、わずかに屈折させる。


 三人はそのまま手を払うようにして水球を頭上に移動させ、ためらいなく自分の体へと落とした。


 ざぶん、と静かな音が“したように感じられる”。

 実際には音はない。


 だが水は確かに流れ、髪や服に染み込んだ塩気を洗い流していく。


 冷たさとともに、海水特有の重さが剥がれ落ちていく。

 肌にまとわりついていた違和感が、すっと消えていく。


 潮の重たさが消え、海水の匂いが軽やかに溶けていった。


 「……やっぱり、こっちの水は“普通の水”ね。あの海とは別物だわ」

 リゼットが小さく呟き、濡れた袖を軽く払う。


 次に、三人は掌を掲げて静かに詠唱する。


 「《クリーン》」


 ぱちん、と小さな光が弾け、粒子状の光が全身を包み込む。


 光は肌や布の表面を滑るように流れ、瞬く間に汚れを分解していく。

 濡れた髪はさらりと乾き、服についた砂も一瞬で消え失せた。


 まるで何事もなかったかのように、衣服も髪も元通りに整えられていく。


 「……はぁ、助かった。さすがにあのままじゃ動きづらかったし……。砂と水って、こういう時ほんと厄介だよね」

 ミレーネが頬をかきながら照れ隠しに呟く。


 その声には、心底助かったという安堵がにじんでいた。


 「ふふ、確かに。演習の座学じゃ“付随魔法”って軽んじられがちだけど……こういう時は、まるで必需品みたい。むしろ、これが使えないと行動制限が大きすぎるわ」

 レティアが微笑みを浮かべ、さらりと整った髪を指で払いながら答えた。


 「私たち、今は“探索中”ってこと、忘れそうになるけど……こういう場所ほど、気を抜いたら一番危ないよね」

 ミレーネが濡れた髪を軽く整えながら苦笑する。


 指先で梳いた髪はすでに乾ききっているのに、どこか“水の記憶”だけが残っているような感覚があった。

 その違和感が、彼女の言葉に現実感を与える。


 その声に、砂浜に漂っていた柔らかな空気が一瞬だけ引き締まった。

 視覚的には穏やかな光景。


 だが、その奥にある“何か”が、確実に意識を現実へ引き戻す。


 「――そうね、ここからが本番。さっきまでのは……ただの入口みたいなもの」

 アリスが立ち上がり、白砂を手で払う。


 靴底にまとわりついた細かい砂粒がさらさらと落ち、波音のない空間に小さく響いた。

 音はないはずなのに、その動作だけが“確かに存在している”と感じさせる。


 彼女の視線はすでに密林の奥――漆黒の影が絡み合うその先を真っ直ぐに捉えていた。


 光の届かない領域。

 そこだけが、この空間の中で明確に“異質”だった。


 「この層……見た目は穏やかだけど、私が最初に転移したときは、密林の奥には“何もなかった”。でも、何かがあるはずなの。あれは“何もない”んじゃない、“認識できないだけ”」


 一歩、砂から土の境界へ視線を移す。


 「学院が“第六層”と認識してるからには、きっと突破口がある。あの森の奥に――何かが隠れてる」


 その声は落ち着いていたが、瞳の奥にはわずかな緊張と確信が揺らめいていた。


 「そろそろ“次”に備えるタイミングってことか。遊びはここまで、ってやつだな」

 ザックが端末を閉じ、真顔に戻る。


 先ほどまで漂っていた安堵の空気は消え、鋭い観察者の光が瞳に戻っていた。


 「この環境、見た目と情報量が一致してない。視覚情報は豊富なのに、他の感覚が極端に削られてる。……つまり、“騙すための構造”だ」


 ラースも大きく伸びをして肩を鳴らし、砂浜に深い足跡を残しながら言葉を継ぐ。


 「なら、まずは密林の調査か。……頼むぜ、ザック、リゼット。こういうのはお前らの領分だろ」


 その声には、完全な信頼が込められていた。


 呼びかけに応じて、リゼットは無言で軽く頷き、外套の内側から感知用の水晶装置を取り出す。

 掌に載せられたそれが淡い光を帯び、周囲に波紋のような魔力反応を広げた。


 水晶の内部で光が回転し、微細な振動が空間へと拡散する。


 その波は目には見えない。

 だが、確かに“広がっている”と感じられる。


 ザックも彼女の隣に立ち、携行端末を素早く操作する。

 光のインターフェースが宙に浮かび、複雑な座標と波形が次々に映し出されていく。


 数値は安定しない。

 常に揺らぎ、補正され、再計算される。


 「探知範囲を最大に拡張して、魔力干渉波の変位を拾います。……ノイズが多いけど、逆に言えば“何かがある証拠”だ」


 ザックの低い声が響くと同時に、リゼットの水晶がかすかな音を立て、密林の奥へと光の糸を伸ばした。


 その糸は一本ではない。

 幾重にも分岐し、絡み合いながら奥へと侵入していく。


 だが、途中で“消える”。


 まるで、そこから先が“存在していない”かのように。


 リゼットの眉がわずかに動いた。


 「……やっぱり、“遮断”されてる。完全な遮蔽じゃないけど……一定以上は拾えない」


 ザックがすぐに反応する。


 「境界があるな。見えてる森と、実際の構造がズレてる。……やっぱり、ここは“そのまま入る場所じゃない”」


 白砂の海辺に、再び“探索者”たちの気配が戻り始めていた。


 さきほどまで戯れ合っていた空気は消え、今や六人の視線は一つに収束している。

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